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2004/6/29(火)01:40 - 巻島翔史 - 3088 hit(s)

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第一章

 夕方の駅前は、家路を急ぐ人であふれていた。
 ロータリーのバス停にはほどほど列が伸び、その合間を、スーパーの袋を提げたおばさんや、女子高生の団体が通り抜けていく。
 バス停のベンチに、高校生のカップルが座っていた。お互い手を握りあって、楽しそうに笑いあっている。たぶん、次のバスが来ても乗らないだろう。
 そんなカップルの顔をまじまじと見ていたことに気づいて、亮介《りょうすけ》は慌てて顔をそむけた。自然と、視線が足もとへ向かう。色濃い自分の影が、前に向かって細く長く伸びている。
 亮介は大きく、息を吐いた。稲城《いなき》のにやけ顔が、頭のなかにわいてくる。
 今日の昼休みのことだった。中一以来の腐れ縁である稲城が、なんと彼女ができたと言ってきたのだ。
 正直、ショックだった。
 自分と稲城の男レベルは、たいして変わらないと思っていたのに。むしろ自分のほうがちょっとリードしてるぐらいに思ってたのに。稲城なんて、自分より四センチも背が低いのに。
 それでも、あいつのほうが先に彼女ができてしまった。まったく、わけがわからない。
 そんなことを考えているうち、頭のなかにひとりの姿が浮かんできた。うなじをかすめる程度に揃えられた髪。明るくて頭がよくて、昔から彼女の笑顔を見るとドキドキしてしまう。
 彼女のことを考えるのは、気が重い。
 亮介は頭を振ると、足に力をこめて歩きだした。

 県道は、ラッシュの時間を迎えていた。亮介のすぐ脇を、車やバイクが途切れることなく走り去っていく。
 燃えるような色の太陽が、ときどき建物の隙間から顔を出す。細いところから、ギラっとした光を差しこんでくる。亮介はなんとなく、その赤い光に見とれながら歩いていた。
 そのとき、対岸の歩道に、見覚えのある影が見えた。
 亮介は慌てて目をそらした。ちょうど建物の影を歩いていたから、暗さで見間違えたのかもしれない。そう思いつつ、今度はそろそろと顔を対岸に向ける。
 見間違いではなかった。
 有希《ゆき》が、いた。うしろ姿だが間違いない。さっき頭のなかに浮かんでいたその本人だ。深みのある紺のブレザー、胸元には大きなリボン。青基調のチェックのスカート。ここらでは名門で有名な、そして自分とはとうてい釣り合わない、女子校の制服だ。学校の持ってる格のせいだろうか、制服からオーラが出ているような気がする。
 ペースをなんとかすれば、偶然を装って会えるかもしれない。そう考えて、亮介は有希との差を縮めようと急ぐ。
 しかし歩きだしてすぐ、亮介は気づいてしまった。
 有希の隣に、東高の男が歩いているのを。
 亮介はすぐに首を正面に戻すと、そのまま目の前のコンビニに駆けこんだ。
 ただ無心で、カウンターから遠ざかるほうへ行く。カバンがなにかに当たったみたいだけどどうでもいい。
 店の奥まで来て、ようやく足が止まった。心臓が激しく動いて、全然収まらない。胃の上のほうが痛い。全身に変な汗が噴き出てくる。息がなぜか上がっている。店のなかに流れるラジオの声も、どこか遠い。壁が壊れる事件がどうとか言ってる気がする。
 自分は鈍いほうだと思う。でも、あれを見て意味がわからないほどじゃない。
 しかも相手は、県下有数の進学校である東高の生徒だ。他の学校のやつならまだしも、これじゃあ到底かなわない。有希と、充分釣り合いが取れている。
 いつかこうなることぐらい、覚悟していたはずなのに。勇気がなくて言えなかった、言わなかったんだから、こうなることぐらい、わかっていたはずなのに。
 体は全然、覚悟ができてなかったらしい。
「なんだよ俺。もう終わったことにこんな」
「なにが終わったの?」
「ん、ああ。あ、ええっ」
 驚きで、頭がこんがらがってしまった。
 いつのまにか、自分のうしろに有希が立っていた。
「べ、べつにひとりごとだから。うん。気にしないで」
 言いながら、亮介は一瞬でまわりを見回す。さっき一緒にいた男は見当たらない。店の外で待っているのか。
「あ、あのっ、あの、さ」
「ん?」
 有希の、一点の曇りもない目が、亮介の顔に向けられた。体じゅうの血の温度が、すごい角度で上昇していく。
「い、い、いや、やっぱりいいよ。うん」
 両手を振ってごまかして、亮介は早足で出口へ向かった。こんなこと、本人に訊けるわけがない。自分で確認するしかない。
 コンビニを出て、亮介はせわしなく首をあちこちに巡らせた。
 どこにも、東高の男はいなかった。どうやら、有希がコンビニに入る前に別れたらしい。亮介の肩から、どっ、と力が抜ける。
 と、有希が隣に追いついてきた。
「ねえ。なにか買うものがあったんじゃないの?」
 言われて、ようやく亮介は自分の行動のおかしさに気づいた。普通、店に入るのは、なにか用事があるからだ。
「え、ああ、なんか新しいジュースでも出てれば買おうかなぁ、って。ほら、俺、新しいのはすぐ飲みたくなっちゃうタイプだから。でも特になかったから」
「ふぅん」
 亮介は有希に気づかれないように、息を漏らした。どうやらいまのでごまかせたらしい。
「それにしては、なんか、あせってるみたいだったけど。挙動不審だったし。まあ、いいけどさ」
 ……ぜんぜんごまかせてなかった。
 変な声を出しそうになるが、そこはなんとか堪える。
 有希がこっちを見ながら、うながすように歩きだした。亮介も合わせて足を出す。家は隣同士だから、当然、このまま最後まで行くことになる。
 亮介はまともに有希のほうを向けなかった。なにか話しかけなきゃいけないのはわかっている。でも頭は真っ白けで、なんの気の利いた言葉も浮かばない。
「なんか、こうやって帰るのもひさしぶりだね。清水《しみず》くんと」
 と、有希のほうから話しかけてきた。
「お、おう。そうだな」
 答えつつ、亮介の胸がちくりと痛んだ。こんなふうに踏みだせないから、自分はずっと片思いのままなのだ。
「いつもこの時間に帰ってるの?」
「ん、ああ」
「わたしもだいたいこの時間なんだけど。そのわりに……会わないね」
「そ、そうだな」
 おまけに、たいした返事もできない。早くさっきの男のことを訊かなきゃいけないのに。
「もう勉強とか、やってる?」
「いいや。まだ二年だし、それにウチの学校、そういうことうるさく言わないから。そっちはもうやってるのか? すごいな。昔から、俺と違って頭よかったしな」
 どこで知り合ったのか。知り合って何ヶ月ぐらい経っているのか。月に何回ぐらいのペースで会っているのか。そのさい、会う場所は決まっているのか。
 ――というか、詰まるところふたりはひとことで言って、どういう関係になるのか。
「そ、そんなこと、ないよ。わたしだってたいしたことは、まだやってない、し。勉強だって、う、上には上がいるんだから」
 頭のなかは、訊きたいことで膨れ上がっている。
 でもいざ、それを訊こうとすると、口が鉛のように重たくなってしまう。ただ、時間だけが過ぎていく。家までの距離が縮まってくる。だんだん、手のなかのぬめりがひどくなっていく。
 ふたつのものが、亮介のなかでせめぎ合っている。見たものを信じたくない気持ちと、見てしまったという事実。訊かなきゃ前に進めないが、進んだ先には落とし穴があるかもしれない。
 穴に落ちるのは、怖い。
 痛い思いをするかもしれないとわかっていて、どうして足を前へ出せるだろう。自分はそこまで向こう見ずにはなれない。
 結局、せめぎ合いに決着はつかないまま、家に着いてしまった。清水と早瀬《はやせ》――それぞれの表札が掛かった門に、互いに別れる。
「じゃあ、ね」
「うん。また」
 自分の家の門に手をかけながら、亮介はまた、小さく息を漏らした。
 ゴガッ。
 そのとき、コンクリートブロックを転がしたような、音がした。亮介は音のしたほうを見やる。
 路地の奥はT字路になっているが、その正面の壁の前に土ぼこりがもうもうと立ちこめていた。バイクでもぶつかったんだろうか。でもそのわりには、ブレーキの音がなかったような――
 だんだんほこりが晴れてきて、様子が見えてくる。壁は谷型に砕けていて、瓦や壁の残骸があたりに散らばっている。
 その残骸にまみれて、なにかが横たわっていた。
 人のかたちをしているけど、やたらに大きい。二メートルは下らないはずだ。こんなところに、どうして人形があるんだろう。人形の全身は鮮やかな赤で統一されていて、どこか正義のヒーローを思い起こさせる。
 と、そのとき、人形が上半身を起こした。いや、あの動きは人形のものじゃない。人間だ。でも、こんなでかい人間がいるのか? それに人間だとしたらなんでこんな格好を?
 よく見ると、赤い人の体はあちこちから出血している。ちゃんとした人間の血の色だ。でも、傷口が滲んでいない。生地越しの出血じゃないってことか。となると、あの体はペイントしてるのか? それにしたって異常な格好だ。特撮の撮影でもやってるんだろうか。
 と、赤い人が大声で屋根のほうへ叫んだ。何語だかまったくわからない。外国人なのか。外国人の俳優が特撮をやるなんてあまり聞かないけど。でもそれなら、この身長に納得がいく。
 叫びに応じるように、壁の壊れた家の屋根にふたり、出てきた。同じくわからない言葉を叫んでいる。ふたりとも、赤い人と色違いの格好だ。片方は薄く青みがかった白で、白銀色という感じ。もう片方は明るめのグリーン。ふたりの背丈はここから見てもかなり大きいとわかる。たぶん、二メートルを超えているだろう。
 しかしそれより、白銀の体がボロボロに傷ついていることが気になった。左手はヒジから先がなく、腹やもものあたりでは肉が削ぎ落ちているところもある。
 ケガのひどさからして、これは特撮じゃない。演技じゃない。
 ……じゃあ、これは、なんだ?
 白銀の人は下の赤に向かってなにか言いながら、屋根から飛び下りようとした。が、その背後から、なにかを手に構えたグリーンが襲いかかってきている。持っているのは、光る棒みたいだ。バットぐらいの長さがある。
 振り下ろされた棒は、しかし狙いをわずかにはずれた。間一髪、白銀の頭をかすめただけだ。構わず白銀は下り、赤に駆け寄る。そして、彼の上半身を引っぱった。赤は顔を歪めながら、しかし勢いよく立ち上がる。
 そしてふたりは、亮介たちのほうに向かって駆けだしてきた。目は鋭く、鬼気に満ちた表情で迫ってくる。亮介は有希のほうを振り返った。有希も目を見開いて首を振るだけだ。
 そこへまた、大きな音が聞こえてきた。亮介は首を正面に戻す。
 すぐ近くに、グリーンの背中があった。
「うおっ」
 びっくりして跳び退くが、相手はなにも反応しない。よく見れば、そいつの足もとの地面がひび割れていた。音の正体はこいつか。それにしても、どうやって屋根からここまで跳んだんだろう。人間技じゃない。
 行く手を遮られたかたちの赤たちは慌ててターンするが、そこへさらにもうひとり、グリーンが屋根から彼らの前へ跳んできた。道を塞ぐ。
 挟まれた、と亮介は理解した。
 グリーンふたりは光る棒を手に、じりじりと間合いを詰めていく。その顔にはうっすら笑みが浮かんでいる。赤い人も、どこから出したのか光る棒を持ちながら、背中に白銀をかばっている。白銀の体が細かく震えている。その目が潤んでいる。
 まだ詳細はわからないけれど、亮介にはグリーンたちが善人には見えなかった。人を追い詰めてあんなふうに笑える人間が、いいやつなわけがない。
 いきなり、グリーンたちが構えを変えた。奥のやつは腰を屈めて体勢を低くし、手前のやつは棒をさらに上段に持ってきた。
 そして同時に、真ん中の赤たちへ向けて棒をしならせた。
 頭と足もとを狙った、抜群のコンビネーション。亮介の心臓がはねる。どう見たって、上下どっちかが当たってしまう。
 そう思った、次の瞬間。赤は白銀を右手で抱え、左手以外を縮こませて飛び上がった。足もとを狙った攻撃が、ふたりのすぐ下を抜けていく。
 同時に、伸ばされていた左手は上から攻撃してきたやつの手首をつかんでいた。そのまま気合の声とともに、そいつを投げ飛ばす。投げられた先には、屈んだままのグリーンがまだいる。
 勝った、と亮介は思った。
 ところが、投げられたやつは受身を取りにいかず、腰を捻って右腕をうしろに下げるという、変な格好をとった。いつのまにか、棒は持っていない。それを見て、赤は白銀の体をさらに強く、覆いかぶさるように抱きしめようとする。
 グリーンの右腕が、なにかを投げた。
 光る球が、赤の背中を直撃する。赤は苦しげな息を吐き出して、顔を歪める。投げたグリーンは、下のやつと交錯する。
 さらに、赤の顔に苦痛が走った。赤は視線を足もとに向ける。彼のヒザに、下のやつの第二撃が当たっていた。
 グリーンたちは、起きるのにてこずっている。
 赤は白銀を地面に下ろした。白銀は心配そうに、彼のことを見つめている。しかしその視線を、赤は手で制した。そして手のひらから、光る棒を出現させる。なんだか、グリーンたちのものより明るい気がする。それにまるで、手のひらから棒が生えた≠ンたいだった。CGならあんなふうなの、見たことあるけど、でも、いまのは……
 亮介が悩んでいるうちに、赤は倒れているやつらの首すじに棒を打ち据えた。グリーンたちはぐったりとなって、動かなくなる。
 どうやら、揉めごとは終わったらしい。
 気が抜けたように、赤がヒザをついた。白銀が慌てて駆け寄っていく。そんな白銀も、体のそこかしこから血をだらだらと流している。グリーンふたりと比べると、このふたりのほうが見た目のケガがひどい。こっちのほうから手当てしないといけないだろう。
 でもこのふたり、なんだかヤバそうな雰囲気を漂わせている。かかわると大変な目にあいそうな予感というか。それが亮介の足を鈍らせる。
 そんな迷いを亮介が巡らせているうちに、有希がためらいもなく彼らに近づいていった。
 一瞬、顔をしかめてから、亮介も有希に続く。やっぱり有希も、どっちを優先させるかは同じ考えだったらしい。
「あの、だいじょうぶですか」
 ふたりがこっちに気づいた。瞳の色は、どちらも薄いブルーだ。ただちょっと、白目に対して瞳の割合が多い気がする。こっちを見たあと、すぐに顔をそむけられた。
 それから小声で、なにやら話し合っている。亮介は、なんとなく自分たちのことが話されている、と感じた。
 と、突然、赤がこちらへ振り返った。目を大きく見開いている。そして隣の白銀に、激しい口調で話し始める。
 白銀も激しい口調で言い返した。手を広げて立ちふさがってみたりして、どうもなにかを止めたがっているように見える。こっちのことなんて目もくれていない。わけのわからない言葉を、身振り手振りを加えながらわめき合っている。
 やがて赤は抗議を強引に振り払うと、腰のうしろからリモコンのようなものを取り出してきた。それを、亮介たちに向ける。
 黒くて四角いそれは、先っぽに楕円の穴が開いていた。なんだか、銃口のように見える。それが、こっちに向けられている。
 怖くなってきて、亮介はまた有希の顔色を見ようとした。
 その瞬間。
 いきなり、白い光に包まれた。
 まぶたは反応しきれず、完全に世界が白くなった。目の奥にまで、光が焼きつく。カメラのフラッシュを、何倍も強くした光だ。似た系統のものだけど、明るさも長さも比べものにならない。目の前だけじゃなくて、自分のまわりすべてが白くなった錯覚に陥る。
 やがて、光は収まった。亮介はうつむき、目をしばたたかせる。なかなか残像が消えない。まぶたの上から目を押さえたりして、元に戻そうとする。
 と、そこで亮介は、残像の隙間にうつぶせに倒れている人間の姿が入っていることに、気づいた。赤と白銀、ふたりとも、自分たちの真ん前で倒れている。
 亮介は有希と顔を見合わせた。有希もわからない、と首を左右に振る。
「あのぅ」
 有希がふたりの体を揺すってみる。なんの反応もない。剥かれている目の焦点も固定されたまま、まったく動かない。
「気絶、したの、か?」
「……そうみたい」
 喋りながら、亮介はおそるおそる足もとの赤い人に触る。やっぱり生地――タイツじゃない。でも皮膚でもない。もっと硬い感触がする。なんて言うか、金属と皮膚の感触を混ぜ合わせた感じ。
 念のため、奥のグリーンの体も触って揺すったりしてみたが、やっぱりなんの反応もなかった。肌質もまったく同じだった。
 ともかく、ケガ人である以上、どうにかしなきゃいけない。
「い、一応さ、警察か救急車か、呼んだほうが……四人もいるし」
「そう、だね。じゃ、わたしからかけとくよ」
 亮介の提案に、有希はうなずく。そして家のなかに入っていった。
 それを見て、亮介も鍵を取り出す。この時間は家に誰もいない。
 ドアを開けると、大きいだけが取り得の観葉植物が出迎えてくれた。いつも邪魔っくさいと思うが、今日は気にならない。さっきの出来事が強烈すぎたからだろうか。
 乱雑に靴を脱いで、家に上がる。
『シュリア様』
 突然、叫び声が聞こえた。すごく大きな声だ。家の近くで誰か叫んだ人でもいるのか。
『どこにおられるのですかっ』
 また聞こえた。声はこの空間に反響している。まるで自分が叫んでいるような反響のしかただ。
 ――まさか、な。
 疑いつつも、亮介は自分の喉に手を当ててみた。じっと、次の声を待つ。
 そのとき、玄関のドアが激しい音を立てて開かれた。
『ガーティス、ちょっとこれどういうこと』
「ねえ、なんか変な声が」
 入ってきたのは有希だった。でもいま、違う声が混ざっていたような。
『シュリア様、どちらにいらしたのですかっ』
 そこで、自分の喉が震えた。信じられないが、さっきから響いている声は間違いなく自分の喉から出ている。
『そんなことより、どうしてわたしまで移したりしたのっ。あの体はまだ使えたじゃない』
『しかし、とても万全と言える状態ではなかったじゃないですか。私はシュリア様に、常に万全の状態でいていただきたくて』
『でも体だって、捨てられるためにあるわけじゃないのよ。あなた、捨てられる側の気持ち、考えたことある?』
『体に気持ちなんてありませんよ。消耗品なんですから』
『そういう考えだから――』
「ねえ、なんなのこれ?」
「わかんない! こっちが訊きたいよ」
 意味不明なことを叫び続ける連中に負けないように、亮介は声を張り上げる。
『それに、違う意識のある体に入るなんて、いくら非常時だとしても無茶苦茶だわ。そこまでしなくたっていいじゃない』
『ですから、それはさっきもお話ししたじゃないですか。現地人に見られたことの処理と、体調の回復。これを同時にできる最良の方法を、あえて逃すことはないと。私はウィレールに帰るためならなんだってします』
『でも』
「うるさい、静かにしろっ」
 亮介が壁を叩いて怒鳴りつけると、謎の声はぴたっと止まった。場が急に静まりかえる。
「えーと。その、なんだ」
「とにかく、まず説明してほしいの。これはいったいどういうことなのか。わたしの言ってること、理解できるよね?」
 亮介がもたついている間に、有希が用件を告げた。
『突然こんなことになって、正直、驚いているだろう。だが私たちには時間がないんだ。だから、ここで説明している余裕もない』
 亮介側の謎の声が、深刻そうにそう言う。
「時間がないって、どうして」
『追われているんだ。さっき見ただろう? 私が緑色のやつらと戦っていたのを』
「ってことは、あんたたち、さっきの赤い人たちなのか。……でも待てよ。あんたたちはさっき倒れただろ。それなのになんで、いま俺たちの口で喋ってるんだ? そもそもあんたたち、なんなんだよ」
『白い光を浴びただろう。あれは、私たちの精神を転移させるときに展開されるフィールドなんだ。つまり私たちは、あの体から、今はこのあなたたちの体に移ったんだ。わかってもらえただろうか。……私たちの存在は、そうだな、ここの言葉で言うと宇宙人≠ニいうことになる』
 ただの人間でないことぐらいはわかっていたが、さすがに実際そう言われると絶句してしまった。しかし状況証拠が充分揃っているので、宇宙人≠ニいうことを亮介は否定できない。
『それより、ふたりには早くここから移動してほしい。私たちがここにいることは、すぐ向こうに知れるだろうから』
「え」
 質問しようと構えていた有希が、その言葉で固まってしまった。
「そんなの、あんたたちが勝手に出てって動けばいいだろ。俺たちには関係ない」
 自分たちまで移動しなきゃならない理屈が、さっぱりわからない。
 すると、いままで黙っていた有希のほうの変な声が、口を開いた。
『あなたたちが動いてくれなきゃ、いまの私たちは動けないの。……さっき使った装置がないと、わたしたち、出られないから。そして装置は、一回使ったらもう使えなくなってしまうの』
『こんなことに巻きこんでしまったことは謝る。だが今は、一刻も早く移動してほしい』
 場がまた、静かになる。
 話の半分も、亮介には飲みこみきれていない。体に入っているとかまではわかるが、それ以上はさっぱりだ。
 だけど、この宇宙人たちがすごく必死なのは伝わってくる。早口だし、言葉のひとつひとつに力がこもっている。でもそれだけで、簡単に返事をしてしまっていいのか。有希も迷っているのか、こっちの顔色を見てくる。
「わかった。いいよ」
 やがて、有希が控えめな声でそう答えた。
 驚いて、亮介は有希の顔を見る。逆に、有希は目で同意を求めてきた。あの、一点の曇りもない目が、亮介の顔を見つめてくる。
 亮介は、首を縦に振ることしかできなかった。
 こういうとき、自分は弱い。はっきりした意思のある人にただ従ってしまう。ましてやあの有希の目だ。到底逆らえない。
「そうと決まったら、こっちにも準備したいことがあるんだけど。時間、まだあるかな」
『まだ少しはいけると思うが、なにか、要るものがあるのか? 私はこの星のことはなにもわからないのだが』
「まあいろいろとね。とにかく急いで用意するから、そっちもなにか、使えそうなものがあったら持ってきて。野宿とかしそうだし」
「って、ちょっと待ってってば」
 質問を許す間もくれず、有希は玄関から飛びだしていった。
『待て、どこに行くんだ。おいっ』
 亮介のなかの声が、勢いこんで怒鳴る。
「すぐ隣だよ。準備があるって言っただろ」
『しかし』
「なにかったらすぐわかるから。それより、何日も移動することになるのか?」
『おそらくは。勝手に入っておいて、本当にすまないんだが……』
「だからもういいって。そんなに謝られたってどうにもならないんだから」
 愚痴りつつ、亮介は二階の自分の部屋に向かった。

 部屋に入ると、正面に窓がある。有希の部屋と正対している窓だ。
 この部屋と有希の部屋は、十メートルほど離れている。隣同士なのにそれだけ離れているのは、二階部分の建ち位置が原因だ。
 窓ごしに、有希の動いている姿が見える。距離のせいで表情まではわからないが、荷造りをしているのはわかる。あっちへ動いたりこっちへいったり、どことなく動きが機敏に見える。こっちがあまり乗り気じゃないから、そう見えるんだろうけど。
 亮介は通学カバンを放り投げると、タンスの四段目の棚を開けた。とりあえず、下着を三枚ほど取る。それから押入れを開ける。
 奥から、リュックサックを引っぱり出した。旅行用というより、行楽用のものだ。たぶんこれで構わないだろう。それ以上長くなるなんて、考えたくもないし。
「ところで、敵ってのは、いったい何人ぐらいいるんだ? いや、そもそもなんで追われてるんだよ」
 リュックにものを入れながら、亮介は尋ねる。
『それは』
 そのとき、窓の外でなにかが動いた。
 亮介は窓に近づき、ガラスに顔をくっつける。
 有希の部屋の窓の近くに、体が明るめのグリーンをしたやつがいた。どこにも傷ひとつないから、新手か。ムダのない動きで窓の下に近づいていく。
 窓の下に着いて、そいつはうかがうように、一瞬、周囲に目を配った。
 そして次の瞬間、窓へ拳を叩きこんだ。
「きゃあぁぁあっ」
 有希の悲鳴が、この部屋にまで響いた。
 そいつは構わず窓ガラスを一面全部叩き割った。そこから体を滑りこませていく。
 ためらう間もなく、亮介は玄関に向かってターンする。が、一歩踏みだしたところでその場にへたりこんでしまった。
 下半身に、まったく力が入らない。足はがくがく小刻みに震えて、体を支えることもできない。早くしないと、有希が危ないのに。なんでこんなときにっ。
 足がだめなら腕とばかりに、亮介は這って部屋を出ようとする。
 そのとき、中の男が変なことを言った。
『時間が惜しいから事後承諾になるが、体、借りるぞ』
「え、なに?」
 訊き返したそばから、亮介の体が浮き上がった。
 いや、でも足はちゃんと地面についている。じゃあこれは――
 結論が出る前に、頭がぐぅっとうしろに引っぱられた。目の前が暗くなってくる。気持ち悪さはないけど、このままだと絶対ぶっ倒れる。わき腹に、生あたたかい水が浸かっている感覚がする。粘り気のある水で、それが下から上へ流れている。目もおかしい。見えてる範囲までもがだんだん狭まってくる。
 しかし完全に見えなくなる前に、それは止まった。かろうじて残っていた光が闇を押し返し、視界はもとに戻る。水も引いていき、浮遊感も収まっていく。
 ほっとした亮介は、息をつこうとした。
 が、つけない。息を吐こうとしても出せないのだ。息だけじゃなく、なぜか体全体が動かせなくなっている。自分の命令を受けつけない。
 それどころか、体が勝手に動き始めている。
「あ、えっ」
 驚いているうちに、持っていたリュックが肩にかけられた。それから鍵をはずして窓を開ける。手に触れた感覚もまったくない。まともなのは目と耳だけらしく、その目も、見たいところには動かせない。例えるなら、窓のない車に入れられて、外についたカメラの映像を見ながら走っている感じ。
 そんな亮介の考えとはまったく関係なく、体は窓枠に足をかけた。足を支点にして、ぐいと上半身を外へ突き出す。
 そのまま窓枠を蹴って、宙に飛びだした。
「ええええっ」
 叫んでも、勢いは止まらない。
 飛びだして、まず左足が軒の端を踏みつけた。そこをさらに強く蹴りつけ、再び宙へ。
 コンマ数秒、体が完全に空中を飛ぶ。
 そして右足から、有希の家の軒に着地する。ここまで、たったの二歩。人間技じゃない。
 体はそのまま窓に近づいて、有希の部屋に頭から突っこんでいった。
 部屋のなかは、砕けたガラスが散乱していた。カーペットの毛に引っかかって、そそり立っている破片もある。
 その奥で、有希が長定規を片手で振り回して奮闘していた。もう一方の手にはパンパンに張ったザック。気が動転してるのか、置いたほうが動きやすいことに気づいてない。
『制御を取ってください。いけますから』
 亮介の中の男が叫ぶ。そして自分の足が、靴下姿なのに、ガラスの上に躊躇なく降り立った。痛みは感じないけど、自分の体が傷つくのを見るのは、さすがにいい気はしない。
『え、でも……』
 有希を追い詰めていたやつが、こっちに気づいた。体勢をくるりと反転させ、こっちと正対する。さっきのやつらが持っていた棒はない。素手だ。身長差が三十センチ以上あるから、かなりこっちが見上げるかたちになる。
『早くっ』
 相手は、腕を伸ばして襲いかかってきた。
 亮介の体は上体を捻ってそれをかわすと、その腕をつかんだ。同時に足を払って引き倒す。
 崩れかけたところへ、さらに回し蹴りの一撃を後頭部へ見舞った。
「え、なにこれっ。あ、うわ、体が、体が」
『突っ立ってないで。行きますよっ』
 叫びながら、廊下へ出た。向かいの部屋に駆けこむ。
 部屋は、物置に使われているみたいだった。いろんな箱やボックスが積まれていて、床にはうっすらほこりが積もっている。
 迷いなく自分の体は窓まで走ると、さっきと同じように窓を開け、足をかけた。
「って、ここ二階ぃぃぃいっ」
 有希の叫びも、言葉にならない。そのまま地面に余裕で着地した。間髪入れず塀を飛び越え、路地をまっすぐ走りだす。
「ちょ、ちょっと、これどうなってるの?」
「よくわかんないけど、たぶん、体乗っ取られてる。制御とかさっき言ってたし」
 有希の疑問に、亮介はわかっている範囲で答えた。
『あんまり喋るな。やつらの接近を聞き逃してしまう』
 中の男の迫力に、亮介は気圧され黙りこむ。
 それにしても、なんて速さで走ってるんだろう。靴も履いてないのに、流れていく景色のスピードが普段と全然違う。すれ違う人たちが、こっちを見て目を丸くしている。
「どっ、どうしてこんな、速く走れんだよ」
『だから喋るな――って危ない!』
 突然、亮介の手が、有希を突き飛ばした。亮介のすぐうしろを、勢いのあるなにかがかすめていく。さらに空気の弾ける音がした。
 亮介の首がうしろを振り返る。
 屋根の上に、グリーンがふたりいた。どちらも手に光る球を持っている。また新手か。
 そいつらはタイミングを合わせて、同時に球を投げつけてきた。
 亮介の体が、有希を抱えて左に跳ぶ。こんなときとはいえ、普段触りたくても触れない有希を自分の手が抱いているのは、なんだか変な感じだ。
 球はすぐそばの地面に当たって、裂音とともに火花を散らした。すぐに立ち上がって、また走りだす。
 しかしすぐにまた、自分の手が有希を右へ引っぱった。球は有希の腰のすぐ近くを通って、民家の壁を破壊する。飛んできたコンクリート片が、足もとをかすめた。
 さらに上半身が斜めに捻られる。顔のそばを、球が音を立てて通りすぎていった。球の輪郭がチリチリしていたのが見えた気がする。そう言えば、この球っていったいなんなんだろう。チリチリしたり、ぶつかるとすごい音がしたり。想像もつかない。
 間断なく飛んでくる球は、どれも体すれすれのところを通っていく。
「あの、さ、もうちょっと余裕持ってかわすとか、できないのか?」
 おそるおそるの抗議は、あっさり無視された。
 だんだん、道が坂がちになってきた。家々の間に木々が繁っているのが目につく。このあたりはまだ、昔の自然に囲まれた町なみが残っている。
「ねえ。わたしたちのなかに入る前、あなたたち、変な光る棒出してたよね」
 久しぶりに、有希が口を開いた。左右に激しく避けながら喋っているので、ところどころ、声が聞こえにくい。
「あれって、いまは出せないの? あれ武器なんでしょ」
 ずいぶん、物騒なことを言う。
「そんなのできるわけないだろ。できるならとっくにやってるって」
『いや、できないことはない』
 しかし、中の男は亮介の言葉をひとことで否定した。
「な、なんで黙ってたんだよ、そういう物騒なことを」
『この体で上手くいくかどうか、わからないからだ。現に、走力は落ちているのだし』
 これで落ちているのだと言う。こいつらのことだから、いまさら驚きもしないけど。
『でもまあ、やってみる価値はあるかもしれないな。反撃できるのなら、この先のやりかたを考え直せるし』
「ちょっと待てよ。まさか、戦うってのか?」
 棒とか球とか出せたとしても、やるのは生身のこの自分の体だ。シャレじゃすまないことになるかもしれない。そんな危ないまね、簡単には許せない。
「でも、このままだったらいつまでも追ってくるよ。捕まっちゃうじゃない」
「なっ」
 しかし亮介の意見は、なんと有希に反論されてしまった。宇宙人にならともかく、これでは言い返せない。
『仮にうまくできたところで、状況がよくなるとは思えないけど。数の差がありすぎるし、この星から簡単に出られないことには変わりないわ』
 有希の中の声が、そんなことを言う。
『私だって、そんな大きな期待はしていません。でも、とにかく一度やってみます』
 亮介の中はそう答えた。それから手を顔の前に持ってきて、開いたり閉じたりを繰り返した。なにかを確かめているように、亮介には見えた。

 坂はますますきつくなってきて、家よりも草や木のほうが多くなってきた。まだ追っ手の緩む気配はない。もうすっかり薄暗い。街灯にも明かりがともり始めている。
 と、右手に鳥居が見えてきた。山肌にぽっかりと開いた横穴みたいな印象を受ける。亮介の体は迷わずそこをくぐる。
 石段を五段飛ばしで駆け上がって頂上に着くと、さらに境内を本殿に向かって走った。
 前方の本殿の屋根瓦が、なにかに弾かれて落ちた。もう追いついてきたらしい。亮介の目は、空中に残る光の残像をとらえている。
 賽銭箱の前まで来て、亮介は足を止めた。振り返る。
 薄暮のなか、木の上にひとり、階段を上がってきたのがもうひとり、いるのがわかる。ふたりとも、すでに手に球を備えている。その光のおかげで、ふたりの姿が浮かび上がって見えている。
 ふたりは一瞬、目配せし合った。
 そして次の瞬間、まったく同じタイミングで球を投げ放ってきた。金色の筋を描きながら、まっすぐこっちに向かってくる。いままでで一番、正確な狙い。
 が、亮介の体は逃げもせず、逆にその場に腰を落として身構えた。同時に、右手のなかに光る物体ができ始める。光はどんどん満ちていき、球型に大きくなっていく。
 その間にも、相手の球はぐんぐん距離を詰めてくる。残像の尾を引きながら、確実にこっちに迫ってくる。
 当たったら、ただじゃすまない。
 亮介は早く避けなきゃ、避けてくれ、と必死に念ずる。しかし体は当然従わない。
 視界が、とうとう相手の球の光でいっぱいになった。もう間に合わない。怖くて見てられないが、まぶたひとつさえいまは自由にならない。
 そんな、もうまさにギリギリのタイミングで。
 亮介の右手が振り抜かれた。
 投げた球は、目の前の球に当たった。互いに弾けて細かく分裂する。分裂した球のいくつかは、もうひとりの敵の投げた球に当たって、それもまたさらに分裂した。無数の球が、色んな方向へ飛んでいく。
 木の上のやつが足場にしていた枝に、球が直撃した。枝は折れる。そいつはバランスを取りきれず、そのまま転落した。さらに空中でもう一発もらって、受身も取れず頭から地面に叩きつけられる。
 もう片方も、球が当たって折れた大枝の下敷きになってしまった。
 見事なまでに、攻撃は決まった。これは充分使えるレベルだろう。そう、亮介は思った。元の体のときはどうだったか知らないけど、たぶんほとんど力は落ちてないんじゃないだろうか。もちろん、戦ってほしくないことに変わりはないけど。
 数秒、亮介の目はグリーンたちを見届けるように視線を流していたが、やがてそれを打ち切り、本殿の背後に回った。
『やっぱり、普段通りにはいきませんでしたね。予想の範囲内でしたが』
 亮介の中の声が、そんなことを言っている。あれでもまだ、元の力には及ばないらしい。
 驚く亮介を置いたまま、亮介の足が、眼下の斜面に踏みだされた。

 草だらけの斜面を下りきると、宅地開発中の土地が広がっていた。前方の丘陵までの間に、整然と区切られた区画が並んでいる。
 空はすでに紫がかっていて、気の早い星はもうまたたいている。
 街灯の光のなかを、亮介たちは走り抜ける。いま気づいたが、この宇宙人たち、走っているのに息を乱していない。
『ねえ。こんなこと言うとまた、やる気がないんですかって怒られるとはと思うけど……』
 突然、前を行く有希の中の声が口を開いた。よく聞けば澄んだソプラノだ。右手にザックを持っているので、そのフォームはやや右に傾いている。
『なんか、走りにくくない?』
『そうですか? 確かに体になにか被さってる感じがして妙な気はしますが、無視できることだと思いますよ。そう思ってしまうのは、シュリア様の心にまだそういう気持ちが』
『ううん。本当にそうじゃないの。あなたが頑張ってくれてるのを見たら、それをムダになんてできないし。でもこれ、やっぱり邪魔よ。こんなのがあったら、そのうち追いつかれると思うんだけど』
 言いながら、有希の左手が半分、お腹をすべるようにスカートのなかへ差しこまれた。そして制服のブラウスの裾を引き抜こうとした。
「ちょっ、なに、やめっ、やめてって。ストップストップ!」
 有希が悲鳴をあげた。亮介の――いまは宇宙人の目が、叫び声に反応して有希のほうを見る。
 ブラウスは胸の上まで捲り上げられていて、それ≠ェ丸見えになっていた。街灯の明かりのなか、淡い黄色をしたそれ≠ェ、背中を横断しているのがはっきり見える。肩甲骨の出っ張りが、妙にいやらしい。普段なら絶対目を逸らすんだろうけど、宇宙人のせいでそれもできない。
『叫ぶな。見つかってしまう』
「いいから、ちょっと止まって。早くっ」
 亮介の目があたりを見回す。
『あそこへ行きましょうか。遮ってもらえそうですし』
 もう近くまで迫っていた丘陵を、亮介の手が示した。高い木々が壁のように並んでいて、強固な感じを受ける。
 そこを駆け上がると、やがて、少し開けたところに出た。亮介たちは足を止めて、それぞれ荷物を地面に降ろす。きつい斜面を上がってきたが、やっぱり息はそのままだ。
『さっきから、なにを騒いでいたんだ』
 亮介の中が非難の声をあげる。
「いきなり服を脱ごうとしたから。まったく、なに考えてるの」
『……服って、なに?』
 有希の中から返ってきたのは、そんな質問だった。さすがにこの返事は有希も予想してなかったらしい。言葉に詰まってしまう。
「あなたがいま脱がそうとしたでしょ。それが服」
 なんとか再び、説明を試みる。
『それが、なんで脱いじゃいけないの』
「人前で裸になる習慣はないからっ。地球には」
『どうして』
「恥ずかしいからっ」
『だからなんで』
 有希はまた黙りこんでしまった。これ以上続けてもキリがないだろう。
 亮介は、話題を変えさせることにした。
「もう撒けたんじゃねぇの。攻撃もしばらく来てないし」
『ああ。そうだな』
「じゃあさ、そろそろ説明してくれよ。あんたたちのこととか、なんで逃げてるのかとか」
 これ以上、わからないことだらけでい続けるのは無理だった。
『わかった』
 亮介の提案に、男は素直に同意した。そして静かな口調で、語り始めた。
『私たちは、ザンファートロー第四惑星・ウィレールから来たんだ。私の名は、祖導ウィレール王国宮廷特務隊所属、ローデュクーベ=ガーティス。そっちに入っておられるのが、祖導ウィレール王国第一王位後継者、ウィレルエシテル=レピンニ=シュリア様だ』
「ちょっと待て。いきなりそんな固有名詞言われてもわかんないから。もっとかみ砕いて説明してほしいんだけど」
 なんとか王国とか、馴染みがなさすぎる。
『なるべくやってみよう。……宮廷特務隊というのは、王族警護を担当する部隊だ。私はそこに所属していた。そしてそのために、王女であるシュリア様の護衛を仰せつかることとなって、ここまでやって来たんだ』
『ガーティス、もう王女でもないわ。父様も母様も、みんなあいつらに殺されて、王家は亡んでしまったんだから』
『いえ。シュリア様が生きておられる限り、王家は継続しています』
 ふたりは深刻な声でそんなことを話し合っている。
 かみ砕こうとはしてくれたんだろうけど、やっぱり亮介にはよく飲みこめなかった。もっと低い次元から話してくれないと困る。
「殺されたってことは、クーデターかなにか起こったの? そこからあなたたちは逃げてきて、ここまで来た、と」
 と、有希がそんな推論を口にした。いまの話を聞いて、どうしたらクーデターに行き着けるんだろうか。
『そうだ』
 しかし、ガーティスと呼ばれた、亮介の中の男は、低い声でそれを肯定した。
 わかってはいるつもりだけど、やっぱり自分と有希との間にある溝は深い。こっちは普通の公立高の生徒、あっちは有名な名門女子校の生徒だ。あらためて示されると、さすがに落ちこむものがある。
「で、ずっと気になってたんだけど、体のなかに入るってのはどういうことなの」
 そんな亮介の気持ちとは関係なく、有希がさらに疑問をぶつけた。
 亮介の体が、幹に体重を預ける。
『私たちの星では、体と精神が別々なんだ』
 また、意味不明なことが出てきた。とりあえず続きを聴く。
『太古の時代は、他の多くの星と同じように体と精神が一緒だったらしい。ただ当時から例外もあって――』
『ガーティス』
 シュリアが張りのある声で、説明を遮った。
 亮介の目が有希の表情をうかがう。暗闇のなか、有希の顔が横に振られてるのが、かすかに見えた。
 咳払いをして、ガーティスは説明を続ける。
『近代になって科学が発達し、そのなかで臓器移植に関する研究も多くなされていった。その研究の結果、体と精神は別個のもので、切り離せることがわかったんだ。いまではもう、体は消耗品扱いになっている。用途に合わせて使い分けたり』
「つまり、地球で言うところの服みたいなものね。作業用とか、暑い用、寒い用とか」
 確かめるような口調で、有希が言う。
『まあ、そんなところだ。……しかし、服というのはそういうものだったのか。ううむ』
 ガーティスが小声で、そんなことをつけ加えた。本当にこの宇宙人たちは服≠ェなんなのか、わかってなかったらしい。
「じゃあなんで、わたしたちの体に入ったの?」
 有希が気分よく、さらに質問をぶつけた。
『あのとき、私たちの体が傷ついていたのは見ただろう。もうあれ以上もたなかったんだ』
『本当はまだ使えたんだけど、ね。体ってのは消耗品じゃないとわたしは思ってるし。しかもその結果が、こんな無関係な人を巻きこんでしまうような』
『シュリア様。そのことについてはまたあとでお話しするので今は黙っててください』
 シュリアの言い足しを、ガーティスは強引に遮った。そういえば、体を捨てた捨てないで揉めていた気がする。
「まあともかくまとめると、あの体じゃもう逃げられなかった、ってことか。で、逃げるために俺たちの体に入ったと」
『ああ』
 ようやく亮介は、この宇宙人たちの言ってることがつかめてきた。しかし。
「それだけ聞いてると、まあしかたないかなって気になるんだけどさ」
 今度はどうしても訊きたい疑問が出てきた。
「あんたたちの星では、もうすでに精神のある体に新しく別の精神が入ってくるなんてこと、あるのか?」
 もしかしたら、この宇宙人にとっては、ふたつの精神が同時に存在することなんて当たり前なのかもしれない。
 わずかな間のあと、ガーティスは口を開いた。
『いや、ない。体の制御がややこしくなるうえ、精神そのものにも悪影響を及ぼすことが科学的に証明されている』
 やはり、この状態は彼らにとっても変≠ネのだ。
「じゃあこれは、どういうことだよ」
 亮介は問い詰める。返事はない。
「どんな事情があったのか知らないけどさ。こんなことして、俺たちに迷惑をかけてまで逃げようなんてのは、勝手すぎるんじゃねぇの」
「ちょっと。それは言いすぎだって」
 見かねたのか、有希が亮介をたしなめてきた。
「じゃあ、はや……早瀬は納得できるのか? 俺たち、巻きこまれたんだぜ」
「でも」
『ガーティスは』
 そのとき、シュリアがまた張りのある声で割って入ってきた。
『ガーティスは、本当ならわたしについて来ることもなかったの。……あの夜、特務隊の人間はほとんどがクーデター側に寝返ってしまって。ガーティスもそうすることができたはずなの。なのに、いまでもわたしのために行動してくれている。だから、お願い、ガーティスを責めないであげて。悪いのはわたしがいるせいだから』
『やめてください。私なんぞのためにそこまで。それに私は、信念を持って行動しているんです。まわりに流されるなんてことはありません』
 沈黙が流れた。宇宙人たちの話は、やけに具体性があって、雰囲気が重たくなる。
 その重たさに耐えきれず、亮介は自分から口を開いた。
「もうあの、光るリモコンみたいな装置はないんだろ」
『ああ』
「わかった。もういいよ。しばらくつきあってやる。どうせこの体から、いますぐ出てってもらえないんだし」
 なるべく無愛想に聞こえるように気をつける。
『すまない』
 ゆっくり、しかし確かな響きで、ガーティスは言った。シュリアもほっとしたような吐息を漏らしている。
「で、一応訊いときたいんだけど、あんたたちの船はどこにあるんだ?」
『えっ』
 亮介の質問に、シュリアが変な声を出した。
「いやだからさ、どこかに宇宙船があるんだろ。あんたたちが乗ってきた。当然あんたたちはそれに乗って、地球からさらに逃げるつもりだと思うけど。ようはその宇宙船が、ここからどれぐらい離れたところにあるのか訊きたいわけ」
『ないんだ』
 ガーティスの言ったことが、亮介はよく聞き取れなかった。
「なんだって?」
『私たちが使える船は、今この星にはないんだ。ここに逃げてくるまでに、私たちはかなり船に無理をさせてしまった。それで、船が故障してしまったんだ。私たちは一番近くにあったこの星に不時着するしかなかった。一応、王家支援者間で使われている秘匿コードで救難信号は出したが、助けがいつになるかはわからない。第一、今このあたりの宙域は包囲されてしまったから、この星の地表まで入りこんでくるのは相当難しいだろう』
 淡々と言われたが、その事実がどれだけ重いかは亮介にもわかった。むしろ淡々と言われたことで、重さがさらに増した感じだ。騒いだり慌てたりしても、どうにもならないぐらいひどいってことなんだから。
「じゃ、じゃあ、あなたたちは、助けが来るのをずっと待ってるの?」
『ああ』
「何年かかっても?」
『そのつもりだ』
 決然とガーティスは答える。言葉に、一切の迷いはない。
 亮介の心のなかで、なにかがぐらぐらと沸きあがってきた。
「ふっ、ふざけんじゃねぇよ。お前らが宇宙の果てまで逃げることになってしまったってのは、ちょっとは同情できるけどさ。勝手に入っといて何年も出ていかないなんて、何様のつもりだよ。いまから俺がお前らを引き渡してきてやる」
「ちょっと清水くん」
 止めようとする有希の声にも、亮介は構わない。
「だいたい、お前ら誰でもよかったんだろ。たまたま見られたのが俺たちだっただけで。地球人バカにしてんのかよ。俺にだって、お前らを引き渡すことぐらいできるんだからな」
 いきなり体を乗っ取られて、思い通りに体を動かせなくて。それを宇宙人たちは何年やっても構わないと言う。
 もしまさか、こんなことが何年も続いてしまったら、そのうち完全に体を乗っ取られてしまうんじゃないか。こいつらに、奪われてしまうんじゃないか。
 自分だけならまだいい。でも有希には、もっとちゃんとした人生があるはずだ。こいつらはそれさえ犠牲にしていくっていうのか。
 そんなことを考えると、言葉が止まらなくなってしまう。こんなときだからこそ、落ち着いて先のことを考えるべきだってことはわかってるのに。
 しかしガーティスは、そんな自分の反応を見透かしていたようだった。
『引き渡しても、無事ではすまないと思うぞ。この星の人間のサンプルをやつらは欲しがるだろうし。船のなかで、体をバラバラにされるかもしれん』
 よくもまあ抜け抜けと、そんなことが言えたもんだ。
「そこまでのことがわかってて、俺たちを利用しようと思ったのか?」
『すまない』
 ガーティスは言いわけもせず、あっさり認めてしまった。もっと反論してくるかと思っていただけに、なんだか拍子抜けだ。
 どう足掻いても、こいつらに協力するしかないらしい。そう思うと、もうどうでもよくなってしまった。急速に心が冷えていく。
『だから無茶だって言ったのよ。こんなことして、パニックにならないわけがないんだから。わたしたちと会うだけでもショックがあるはずなのに、ましてやこんな。……あなたのほうも、もっと怒っていいのよ』
「わたしは、あんまり怒るとか怒鳴るとかいうのは苦手だから。それにもう、なんだかいま起こってること、認めちゃってもいるし」
 シュリアの問いかけに、有希はそう答えた。もう有希は、心を開いてしまったのか。
『そう。確かに、抗ってもどうしようもないって気持ちになっちゃうときもあるから、しかたないわよね』
「……うん。それよりさ、わたしのほうは攻撃とかできないの?」
『わたしには、そういう能力がないから』
「そう。それじゃあさ、さっきのあのまぶしかったやつ、あれってなに?」
『あれは、転移装置。体を移るときに使うの』
「あれって、なんで一回しか使えないの?」
『緊急用だから。何回も使えるものはもっと大きくて――』
 聞いてて、亮介は惨めな気持ちがした。なんで有希は、こんなに普通に会話できるんだろう。こんなことに巻きこまれて、恐怖感とかわかないんだろうか。
 そのとき、頭上で枝葉の擦れる音がした。亮介の首が背後を振り返る。
 木々の向こうの闇のなかを、不思議な色の光跡がいくつも舞っていた。すべてがこっちに向かってきている。
『もう来たか。急ぎましょう』
 ガーティスはそう言い、亮介たちはさらに上へと駆けだした。

     *

 同じころ。亮介の家の前に、異様な人間たちが集まっていた。
 皆、背丈は二メートル以上ある。しかも彼らは衣服を着ておらず、全身を同じ色に塗っているように見えた。ひとりを除き、全員が明るめのグリーンという統一感も異様さを掻き立てる。
 街灯に照らされた彼らの体が、鈍く光を反射している。周囲の闇から浮かび上がるその姿は、かなり不気味だ。
 そのなかでただひとり、暗いブルーの体をした男が、路上に屈みこんで手のなかを弄んでいた。
 男の足もとには、赤と、青っぽい白の砂。
「ここまでするとはな。くくく……」
 こぼれる笑みを押さえようともせず、しきりに砂を弄んでいる。指の間から、何度も砂がさらさらとこぼれていく。
「あの、ギレーキ様」
 そのとき、男――ギレーキの頭上から、遠慮がちな声がかけられた。ギレーキは首を上げる。
 声をかけたのは、さっきまでここでのびていたふたりだった。ギレーキに見つめられて、背筋をさらに正す。
「こ、今回の失敗は、あの、私めの、その」
「いい。気にするな」
 ギレーキは興味がないのか、もう視線を砂に戻している。が、なにかに気づいたらしく、その手を止めた。
「それより、な」
 そして、ゆったりとした動作で立ち上がった。すっかりおびえきっていたふたりが、さらに身をすくませる。
「お前らは、ほかに学び直さなきゃならんことがあるな」
「は?」
 一瞬、緊張が解けて、ふたりは間抜けな顔になる。
 その顔を、ギレーキは拳の裏で殴りつけた。
「上官に対して、上から話しかけるな」
「ひっ、も、申しわけありません」
 頬を押さえながら、ふたりは下がっていった。何事もなかったかのように、ギレーキは別の相手のほうを向く。
「やつらの動向は抑えているのだろうな」
「はい。もう時間の問題でしょう。やつらの体はこうして砂屑になってますし。運動能力の低下は致命的です」
 ウィレール人の体≠ヘ、使用を終えたあと砂屑に分解される。環境への配慮と、死体的な見てくれへの嫌悪感をなくすためだ。いま、赤と白銀の砂がここにあるということは、あのふたりがこの星の現地人の中に入ったことを意味していた。
「ところでギレーキ様。現地人のことは、どうしましょうか」
「一緒に捕まえればいいだろう。いちいち現地人から出して捕まえるなんて面倒だ」
 少しの間もあけず、ギレーキは答えた。
「しかし、もしですよ、現地人の体を捕らえたあと、隙を突かれて他の現地人に入り直されたりしたら」
「要らぬ心配だ。あいつらはあの体から出られん。王女はあのザマなのだしな。アレの能無しっぷりは史上に残るぞ」
 と、ギレーキは集団を離れて、街灯の明かりの外へ出た。相手もあとをついてくる。
「それにな、ちょっと面白い演出を考えている」
「はあ」
「こんな辺境まで来させられたんだ。それなりの愉しみがないとな。くくく……」
 ギレーキは遠くの夜空を見つめながら、自分の想像に笑いを堪えられないようだった。
 ――せいぜい頑張れよ、ガーティス。くくくくく……


第二章

 遠くのほうで、みみずくの低い鳴き声がした。
 亮介は首を木の根に預けて、頭上を見上げていた。枝葉はその影を複雑に入り組ませ、夜空をバックに奇妙な模様を描いている。
 規則正しい寝息が、そばから聞こえている。
 眠気を潰すため、亮介はまぶたをつねった。目の前にあるはずの自分の手が、まったく見えない。
 夜の森は、完全な闇の世界だった。亮介にとって、この暗さは初めて体験するものだ。耳や鼻、手触りだけで状況を認識しなきゃいけないことに不安を覚える。
 さっきから時々、みみずくの鳴き声がする。虫の声もやむひまがない。特に臭いはしないけど、もたれている幹のごわごわした感触は気持ち悪い。地面も硬いし。
 そのとき、鳥の、しわがれて長い鳴き声がした。亮介は驚いて、腰を引っぱり上げようとした。
「いつっ」
 焦って足の裏を地面に当ててしまった。息を止めて、亮介は痛みを堪える。もしかしたら絆創膏がずれたかもしれない。足を引き寄せて、絆創膏を確認する。
 よかった、ずれていない。安堵して、亮介はまた足を伸ばす。
 あのあともしつこく敵の攻撃があった。暗いなかでも敵は正確に亮介たちを狙ってきて、おかげでさっきよりも深い山のなかにまで来てしまった。
 ここでようやく、体を返してもらった。逃げるには宇宙人たちが動かしているのがいいのだが、ずっと他人の精神が動かしていると体に負担がかかって消耗が早くなるらしい。
 もちろんこんな状態だから、休むにしても見張りを立てることになる。協議するまでもなく、亮介とガーティスで、つまり亮介の体だけですることになった。王女様の体力を減らしてしまっては、なんのための護衛かわからない。
 片方が起きて肉体を制御し、見張りをする。その間、精神だけになっているもう片方が睡眠をとる。それを夜通し繰り返す。なんでも、精神の睡眠と肉体の睡眠っていうのがあるらしい。体力を回復させるのが肉体の睡眠で、精神の睡眠は判断力や思考力、注意力とかを回復させるものだとか。
 話し合いの結果、亮介が先に見張りをすることになった。
 まあ、先に寝るほうを選んでも、とても眠れそうになかったからそうしたのだけれど。不安と緊張、謎だらけの状況、それにこの暗さだ。寝つく前に交代の時間になってしまうだろう。
 相変わらず、規則正しい寝息が隣から聞こえてくる。
 こんなときに寝られるなんて、有希はどんな神経してるんだろうか。この強さの十分の一でも自分にあったら、と亮介は思ってしまう。
 まあ、有希は夕方の時点でもう心の整理がついていたみたいだし。とっくに落ち着いているんなら、眠るのも簡単だろう。
 ……夕方、か。
 また、思い出してしまった。あんなに我を忘れてわめいてしまったことを。
 それも、好きな相手の見ている前で。自然と、ため息が漏れる。
 こうなった以上、覚悟を決めなきゃいけないんだってわかってる。あいつらの言うとおり、捕まったらただじゃすまないだろうし。自分の命のためにもあいつらに協力して逃げなきゃいけない。
 そこまでわかってはいるけど、頭のどこかがまだ納得してくれていない。なんで自分がこんな目に、って気持ちが頑固に居座っている。
『ん。様子はどうだ』
 と、ガーティスがそこで起きてきた。亮介の思考は散り散りになる。
「特に。なにも」
 それから素っ気なく、答えた。感情をこめてガーティスに話すことが、少し怖い。
『そうか。なら、話ができるな』
「なんだよ、話って」
 亮介は思わず、息を呑む。
『ふたりの名前を、教えて欲しい』
「え、あ、ああ」
 そういえば、確かにまだ名乗っていない。
 亮介は頭を掻きながら、口を開く。
「ええと、俺は清水亮介。名字とか名前とかってわかるか? 簡単に言うと、一族全体につく共通の名称とかあるだろ。それが名字。で、ひとりひとりについてるのが名前。お前らの星ではどうか知らないけど、ここでは名字が先で名前があとになるんだ」
『私たちと同じ順序だな。つまり亮介≠ェ個人名になる、と。それで、あっちは?』
「ああ、あっちが――早瀬有希」
 言うのに、口ごもってしまった。その名前を口にすることが、どこか照れくさい。
『ふむ。亮介≠ノ有希≠セな』
 ガーティスは、しっかり憶えようというのか、名前をあらためて口にのぼらせた。初めて聞くタイプの名前だろうから、すぐ憶えられるだろう。
 そのときふと、亮介はあることに気づいた。
「そういやさ、ずっと、なんか変だなと思ってたんだけど。なんでお前ら、日本語喋ってるんだ?」
 あまりにも自然に日本語を喋っていたので、いままでまったく気がつかなかった。宇宙人が流暢に日本語を話しているなんて、圧倒的に変なことだのに。
『それは、この体の中に今ある能力のなかで、最もこの体に適しているのが日本語だからだ。おそらくそっちも、ウィレール語を理解できるようになってると思う』
「そうなのか? それっぽいのはなんにも浮かんでこないんだけど」
 文字はおろか、音の体系さえ浮かんでこない。
『そうか? 私はさっきからウィレール語に切り替えて話しているんだが。聞いて意味はとれるということか。……もしかしたら、親和性の問題もあるかもしれない。ウィレール語とこの星の人間との相性がいまひとつというか。ウィレール人とこの星の言語の相性が普通でも、逆が合わないことは充分起こりえると思う』
「ううん。そんなもんなのか?」
『互換性というのは、相互に発揮されるものじゃない。対称でない結果が出ることは、宇宙ではよくあることだ。まあ、これから普段の会話はこの星の言葉で通すことにする』
 ガーティスは二度三度喉を絞って、調子を元に戻そうとする。
 そこで、会話が途切れてしまった。
 なんとはなく、亮介は周囲の闇を見回す。相変わらず、のっぺりとした平たい黒が広がっている。陰影による立体感がまったく出来ないから、平面的に映る。
「でもあれだけ走ったわりには、あんまり体、疲れてないんだよな。これもお前らのせいか? 足とか、もっとガタガタになってると思っていたんだけど」
『認識の問題だろう。体を動かしたという実感がないものだから、意識がまだ疲れを認識できてないんだ。明日になったら一気にくると思う。……本当に、すまない。こんなことに巻きこんでしまって』
「いいよ、もう。それは」
 謝るガーティスを、亮介は制した。そうやって変に気遣われると、夕方の感情がまたぶり返してきそうになる。
『いや、体や精神の負担のことだけじゃない。あいつらはおそらく、関係のない亮介や有希もためらうことなく攻撃してくるだろうから。ひとりふたりなら宙連の目もどうにかなるってわかってるだろうし』
「なんだよ、そのひとりふたりなら≠チて」
『宙連――宇宙連合の定める憲章では、外宇宙航行能力を有さない惑星の住民に対する過度の干渉は禁止されている。あいつらが私たちを探すために山を焼き払ったり、空爆したりしないのはそのためだ。百人単位で影響が出るからな。しかしそもそも、宙連はこんな辺境の星に対してそう強い監視体制を引いてはいないんだ。だから、表に出にくい個人レベルのことなら、おそらくごまかせる』
 なにやらまた、スケールの大きなことを言われてしまった。亮介はしばし唖然とする。
 でも、ひとつだけ、言われたことの意味がよくわかったところがあった。
「そっか。個人レベル≠フことならごまかせるから、お前らも俺たちに入ったんだな」
 皮肉たっぷりな言葉が、亮介の口からすべり落ちてしまった。言ってから、しまったと思うが、すでに遅い。
『それは……どれだけ言いわけしてもその通りだな。すまない』
「だから謝らなくっていいって」
 べつに、宇宙人を謝らせたいなんて思ってない。相手にはとっくに罪の意識があって、本当に自分たちに対して申しわけないって思ってることはわかっている。
 それなのに。
 胸の奥から、蛇の舌みたいにちろちろと刺々しい感情が顔をのぞかせてくる。皮肉を吐き出させたのはこいつのせいだ。まだ抵抗するってのかてめえは。
 亮介はなんとかそいつを黙らせようとした。力んだ舌が、口のなかで上あごとくっつく。
『ところで、亮介と有希はどういう関係なんだ?』
「ぶっ」
 そこへいきなり、そんなことを訊かれたもんだから、亮介は吹きだしてしまった。
「な、なんでそんなこと訊くんだよ?」
 ふたりの関係。
 頭のなかに妄想が広がっていく。みるみるうちに、体が熱くなる。
『もし有希が、亮介の大切な人だったら、これから亮介にはとても心苦しい思いを強いてしまうことになるからだ。向こうの狙いはシュリア様の捕縛なんだから。当然、有希のほうが危険にさらされることが多くなる』
 言われて、一気に体の熱は冷めた。
 よく考えればその通りだった。自分より有希のほうが、ずっと危険な立場にいるのだ。
「そっか。そうだよな」
 亮介はうつむき、そこにあるはずの手のひらを見つめる。
 有希はこんな目にあっているってのに、それをもうとっくに受け入れている。それも、自分よりよっぽど危険なことに巻きこまれたのに。泣き言ひとつ言っていない。
 自分がわめいているのを、有希はどんな気持ちで見ていたんだろう。
 恥ずかしい。本当に恥ずかしい。
 むしろ、もっと有希のことを心配しなきゃいけなかったのに。
 両の手のひらを、亮介はぐっと握り締めた。心の奥の蛇が、みるみる小さくなっていく。亮介のなかで、なにかが吹っ切れる。
「俺、さ。なんとか頑張ってみるよ。どれだけお前らの力になれるか、わからないけど」
 いま、この状況で、有希を護ることができるのは、自分しかいない。
 自分が護らなきゃ――いや、護らないといけない。この宇宙人――ガーティスは、有希の中の王女様を護るだけで精一杯なんだから。有希を護れるのは自分だけだ。
『そうか。ありがとう』
 噛み締めるようにして、ガーティスは言った。そしてそれっきり、また押し黙る。
 亮介は腰の位置をなおして、それからまた頭上を仰いだ。重なり合う木々の隙間から、夜空がわずかに覗いている。まるで、黒い紙に細かく穴を開けたように。
「お前らってさ、ほんとに遠くから来たんだよな。……そんなに、地球って田舎なのか?」
『田舎というか、航路から大きくはずれているから、近寄る機会がない。ただ、それだけ手つかずでいるからなのか、あの青と白の見事なコントラストはどこを探しても見つからないだろう。初めて見たとき、私もシュリア様も目を奪われたよ』
「へえ、そうか。へっへへ」
 自分が褒められたわけでもないのに、亮介はなんだか嬉しくなった。頬が緩む。
『でもウィレールだって、負けないくらい、すごく、綺麗なんだ』
 低い声で、ガーティスはつぶやいた。そしてまた、黙りこんでしまった。
 亮介は空を見るのをやめ、前方へと視線を向ける。たぶん、思い出してるんだろう。クーデターで故郷を追い出されて、遠くの星まで来てしまって。故郷を思わないはずはない。
「そのさ、お前らの星って、どんな感じなんだ? ほら、きれいって言ってもいろいろ系統があるだろ」
 思ったことがそのまま言葉になって、亮介の口をついた。
 また、沈黙がおりる。うながすでもなく、ただ亮介は耳をすませて、じっと待つ。
 やがて、喉が震え始めた。
『初めて宇宙からウィレールを見たときのことは、よく憶えている。十五のとき、一番上の兄さんと姉さんに連れられてね。恒星ザンファートローの光に照らされて冴え冴えとしていて、すごく知的な星だと思ったよ。自分たちの民族によく似合ってるとも思った』
 虫の音が涼やかに、亮介たちを囲んでいる。
「お前、兄弟がいるのか」
『ああ。上に兄がふたり、姉がふたり。下には弟がいる。私は特に一番上の兄さんに憧れていたから、そのときはすごく楽しかった。兄さんは、特務隊だったんだ』
「ふうん。じゃ、そのお兄さんに続いて、特務隊になったのか」
『そうだ。しがない軍人一家の我が家から特務隊に選ばれた兄さんを、私は誇りに思っていた。家柄の良い家の息子からしか、普通は選ばれないし、それに王家を護ることは、とても名誉なことだから』
「でも、その特務隊も、みんな裏切ったっていうんだろ? あ、べつに王家が悪かったみんな裏切ったとか、そういうことを言いたいんじゃないから」
 亮介は慌てて、両手を左右に振る。
 気にするふうもなく、ガーティスは話を続けた。
『どうしようもなかったんだ。特務隊というのは本来、実戦に参加しないものだから、覇気のない良家の坊っちゃんばかり集まってくる。そんなやつらに、流れに逆らう意気地はない。それに家族のこともあるから、自分の意思だけを通すことなんてできやしなかった。見せしめの意味もこめて、抵抗した者の家族はすべて捕縛されただろう。……私の家族も、ひどい目に遭っていると思う。だから、私は、どんなことをしてでも、シュリア様を連れて帰って、王家を』
 ガーティスの声がそこで詰まった。
 亮介はずれていた腰を引っぱり上げ、姿勢を正す。なんだか、正したくなる雰囲気を感じた。
「そんなにひどいやつらなのか。その、クーデターを起こしたやつらは」
『あいつらは、力で人々を支配しようとしているんだ。民主化だとか、聞こえの良い言葉を使ってはいるが、結局は自分たちが実権を握りたいだけなんだ。そんなくだらないことのために、陛下は――』
 喉の奥がわなわなと震えている。ガーティスの悔しさが、亮介にも伝わってくる。
 亮介は膝に置いた腕のなかに鼻から下を埋め、闇をじっと見つめた。
 いま、ガーティスが言ったこと。兄弟への思慕や愛情、人の脆さ、利己的な部分、そしてそこに生まれる怒りや悲しみ。
 なにも、変わらないんじゃないか。
 文化も違う。習慣も違う。体のしくみも大きさも違う。だけど、基本的なことは、地球人もこの宇宙人たちも同じなんじゃないか。
「案外、宇宙って狭いんだな」
 この宇宙人たちとは案外仲良くなれるかもしれない。そう、亮介は思った。

 またあの浮遊感にたっぷりつき合わされて、亮介はガーティスと交代した。精神がむき出しの状態になる。けど不思議と、夕方のような怖さはなかった。自分の中だから、暗くてもよく知っている、ということだろうか。
 でも、どうやって寝ればいいんだろう。体があるなら、寝方は問題ない。いつもやっている。でもこの状態だと、自分で視覚を遮断することができない。意識的に、見えてることをないこと≠ノできればいいんだけど。
 箱の中に開いた穴から、覗いているような見えかたをしているから……ひょっとして、反対側にまわれば暗くなるんだろうか。
 試しに、自分を回転させてみようとする。お、ちょっと動いた。動かせないってことはなさそうだ。このまま――
『亮介』
 ガーティスの声で、亮介の意識は戻された。三〇度ぐらいのところまでいってたのに。
「ん。なんだよ……」
『やつらだ』
 そう言うガーティスは、有希の肩をつかんで揺すっている。すぐに有希、そして中のシュリアも目を覚ました。
『シュリア様、移動します。替わってください』
『ん……』
 一瞬の間があって、有希の纏う雰囲気が変わる。
『まだ見つかってはいません。気づかれないうちに、このまま山を下ります』
 ガーティスは有希の手をつかんで立たせると、足音に気をつけながら山を下り始めた。


第三章

 楕円形の月が出ていた。雲ひとつない紺青の夜空に浮かんで、光条を地上に放っている。
 地面に座っている亮介の目は、確かにその月をとらえていた。
 月から視線を下ろせば、そこには無数の、乱雑に置かれた自転車があった。この場にはふたつの蛍光灯が明かりとしてあるのだが、錆ついた車体はその光をまったく反射しない。影だけがくっきり浮き上がっていて、それはひどく不気味に見えた。
 山際の自転車保管所で、亮介たちは夜を明かしていた。
 まわりにあるのは、違法駐輪の果てに連行されてきた自転車たち。背後にはむき出しの山肌がそそり立っている。保管所はフェンスで囲まれていて、それが外界と切り離された空間であることを主張している。
 亮介の視線がまた、上へと向けられる。
 夜のすべてを知りつくし、それでいて、ただ見守っているだけの存在《もの》。わずか三十八万キロという位置から、この地上を眺め見渡しているもの。――月。
 それをただ、心奪われたように、見つめている。
 と、遠くでバイクの音がした。亮介は急に背筋を伸ばし、あたりを見回す。
 空気にかすれて、エンジン音は消えていった。また、もとの静かさに戻る。敵でなかったことを確認し終え、亮介は再び腰を落とす。
 しかし、一瞬でその表情がこわばった。
 首を固定したまま、亮介は目だけを左へ流す。このあたりは、平たくならされている駐輪場を除いて、向かって右から左へ上りの傾斜がついていた。駐輪場の左端からは再び傾斜が続いていて、そこには小さな小屋が建っている。
 その屋根の上に、大きな人が立っていた。首から上がよく動いているところを見ると、こちらの気配は感じているが、場所を特定しきれていないというところか。
『シュリア様、起きてください。来ました』
 ガーティスがうしろ手で、すぐ横の有希の体を揺すった。緊張で気持ちが張り詰めていたせいだろう。三人とも、それでいっぺんに起きる。
「うぅ。こんなときに来なくても……」
 亮介は不満をあらわにする。今日もまたうまく寝れなかった。かなりいいところまでいったと自分では思うのだが、こんなふうに邪魔されてばかりではたまらない。これからこんなことが毎日続くんだろうか。
 屋根の上の敵は、まだこっちを見ていない。ガーティスは気づかれないうちに、逃げきってしまうつもりだろう。
「でもこれ、逃げられるの? 確かうしろ、崖みたいになってたんじゃ」
 と、有希がそんなことを漏らした。
 確かにうしろは九十度近い急斜面だった。あの斜面を、登ることができるんだろうか。いくら運動能力が上がっていると言っても、体はこの自分の――地球人の体だ。逃げられる公算があるから、こういう場所を夜明かしに選んだんだろうけど、不安は拭えない。
 しかし、ガーティスは亮介の予想に反することを言った。
『仕方がない。亮介、覚悟を決めてくれ。これから少し戦う』
 タタカウ。亮介には、それがどこか遠い国の言葉に聞こえる。
『ここから前の柵まで距離がありすぎて、どうしても接触を避けられない。本格的な戦いは初めてだから不安を感じるとは思うが、なるべくそういう気持ちにならないでくれ。まだどの程度かわからないが、亮介が不安を覚えると体の動作に影響が出る可能性がある』
 有無を言わせない勢いで、ガーティスは言った。亮介の心が、驚きと恐怖で震える。
「で、でもこないだ、いつもどおりの力は出ない、って。それに影響が出るっていったい」
『倒すことが目的でなければなんとかなる。影響の詳しい話はあとでする』
「そんなこと言っても……」
 なんとかなる、だなんて、あまりに無責任な言いかたじゃないだろうか。だってそれは、うまくいく根拠が思いつかないからそんな言いかたになってるわけで。
『シュリア様、私が合図したら、全力で右手に走ってください。その前に少しずつ右に寄っておいて。走る距離をできるだけ少なくしておいたほうがいいですから』
 言いながら、ガーティスは立ち上がった。敵もこっちに気づく。敵の手の甲から、七色の光が天を突くように伸び、棒状になる。
 ガーティスは目だけでうしろを確認しつつ、立ち位置を微妙に変化させた。地面を踏む音が夜気に響く。うしろから、息を呑む音が聞こえてくる。
 ああ、そうだ。そうだった。これは自分のためだけの戦いじゃないんだ。
 護るって決めたんだから、あとはもうぶつかっていくだけじゃないか。やらなきゃ、護れないんだから。
 敵が屋根から降りた。乱雑に積まれた自転車の山へ、器用に降り立つ。
 合わせてガーティスも、自転車の荷台の上に立った。そして構えた姿勢のまま、下を確認することなく、足先で自転車の上を渡っていく。相手の姿を見据えたまま、少しずつ間合いを詰めていく。
 突然、それが速められた。
 勢いを利用して、相手に向けて一気に跳び上がる。身長差のせいで、こっちは跳んでも完全に相手を上回れない。
 顔をめがけて、ガーティスは棒をしならせる。
 相手は、棒を斜めに倒して受け止めた。白い火花が、顔の前で散る。
 ガーティスはそれ以上ムリはせず、いったん下がって距離を取った。ちらりと下を確認しただけで、サドルに着地する。
 亮介は、心が凍りついていくのを感じた。
 思っていた以上に、怖い。
 こんな足場の上を飛び回ることも怖いけど、ぞれよりなにより、むき出しの敵意をはっきり向けられるのがこんなに恐ろしいなんて。自分はやっぱりこういうのに向いてな――
 そこまで考えかけて、亮介は慌ててその気持ちを追いやった。
不安を覚えると、影響が出る
 さっき言われたことが、しっかりと胸に残っている。その影響が、絶対にいいものじゃないことも想像がつく。だから自分は、どうあっても怖がってはいけないのだ。
 ガーティスが再び、距離を詰めだした。今度はまっすぐ行かず、右から回りこんでいく。軽業のように、自転車の地面を渡り歩く。相手は慎重なのか、近づいてこない。
 三メートルぐらいまで近づいたとき、ガーティスはそこから急にペースを上げた。あっという間に距離を詰めて、腰に溜めていた棒を相手の喉へ突き上げる。
 しかし敵も、体を倒して避けると、そのまま下から棒を振り上げてきた。
 垂直に跳んで、ガーティスはそれをかわす。と同時に、両足で、相手の腹を蹴りつけた。相手はよたよたとバランスを崩して下がる。
 ガーティスは、その隙を見逃さない。胴に向けて薙ぎの一撃を振るう。
 それを相手は、棒の根元でなんとか受け止めた。しかし止めるだけが精一杯で、まったく押し返せそうにない。
 ここが勝負どころと見たんだろう。ガーティスはさらに踏みこんで、ラッシュをかけていった。身長差を逆に生かして、顔や喉のほうには突き上げる攻撃を。腰から下には振り下ろす攻撃を浴びせていく。
 と、敵の片足が自転車のカゴにハマった。大きな足だから、なかなか抜けないで焦っている。そんな相手の顔を、ガーティスは目でとらえている。
 決着をつけるべく、ガーティスは手を上へ大きく振りかぶった。
 ――――!
 かん高い破裂音が、耳のなかを貫いた。ガーティスはとっさにうしろを振り返る。
 一帯の自転車が吹き飛ぶか倒れるかしていて、ミステリーサークルのようになっていた。さらにサークルの地面にはいくつかひび割れが走っている。
 そしてそのサークルのすぐ右で、尻もちをついている有希の――シュリアの姿があった。足はガニマタに開いていて、微妙にパンチラしている。しかしさすがに亮介もこの雰囲気では興奮しなかった。
 シュリアのまなざしは、ある一点に向けられている。ガーティスはその視線を追って、右から左へと首を動かした。
 視界に、さっき敵がいた小屋の屋根が入った。頼りない明かるさのなか、青く塗られた鉄板は薄くその明かりを反射している。
 そこに、新しい敵が立っていた。
 そしてそいつの手には、一気呵成とばかりに、また新たな光球が作られている。
『シュリア様!』
 ガーティスは叫んで、勢いよく荷台を蹴って跳んだ。低く速く、ただ間に合うことだけを考えた跳びかた。
「うわあぁぁっ」
 急な跳躍に、亮介の心は追いつかない。
 跳びながら、ガーティスの目はまだ屋根の上をとらえている。いままさに、球は投げられようとしているところだった。
 視界がようやく、着地予定地に向けられる。中心に見えているのは、黒くてつやのあるサドルだ。しかしそれを見たのは一瞬だけで、また小屋のほうに目は転じられる。
 敵の右腕が、振り抜かれた。
 投げたのを見て、またサドルのほうに目が戻る。自分の右足が、黒いサドルに伸びていく。そこに着地して立ちはだかれれば、充分、あの球を弾き返せる。いきなりの大ジャンプで驚いたけど、さすがはガーティス、やっぱりなんとかしてくれる。
 しかし、次の瞬間――右足はサドルを滑ってオーバーした。
 棒を持つ右手をついてなんとか止めようとするが、勢いは死なない。足は、隣の自転車のフレームを直撃した。騒がしい音を立てながら、自転車がドミノ倒しになっていく。
 亮介の気持ちは、一気に青ざめた。昼間に買ったばかりの靴が悪かったのか。いや、そんなことを考えている場合じゃない。
 球は、すぐそこまで迫ってきていた。もう、いまから立ってたんじゃ間に合わない。うしろの有希に当たってしまう。座ったまま棒で叩こうにも、さっき右手をついちゃったから……持ち替えてる時間はない。
 亮介は、目をそらしたくてもできない自分の状態を、恨みたくなった。
 が、ガーティスはあきらめなかった。
 ――さっきと同じ破裂音が、さっきの倍以上の大きさで耳をつんざいた。
 同時に上のほうから、細かい光の粒子が降ってくる。
 ガーティスがなにをしたのか、一瞬、亮介は分からなかった。しかしすぐに、まわりの状況からそれを理解した。
 ガーティスは素手で、球を弾いたのだ。
 弾かれた球は、運よく、屋根の敵へとまっすぐ向かっていた。敵は、予期していなかったのか、慌ててうしろに下がっている。それを見ながら、ガーティスは立ち上がる。
 と、視界の左のほうに、さっき追い詰めたやつが近づいてきているのが見えた。グリーンの巨体が、サドルを蹴り飛ばしながら走ってくる。
 右手一本で、ガーティスは棒を構えた。
 相手が跳んだ。こっちが片手しか使えないこと見越してか、上段に構えて一気に勝負をつけにきている。
 ガーティスは相手の真下に潜りこんで、低く屈みこんだ。棒は、肩にかつがれている。ガーティスの首が上を向く。相手の姿をとらえる。
 そのまま垂直に跳び上がると同時に、うしろに溜めていた棒を、相手の首もとへしならせた。
 相手の体に、棒はモロに決まった。そのまま自転車の海へ、頭から落ちていく。
『今です! 走ってっ』
 有希たちのほうを見ずに、ガーティスは叫んだ。ガーティス自身も跳んで、フェンスを越える。越えたところは下り坂だ。有希たちは先行して走っている。背負ったザックが大きく揺れているので、この暗がりでも姿がよくわかる。
 うしろから、いくつもの球が飛んできた。しかしそのどれもが狙いをはずれ、見当違いのほうへ飛んでいく。街灯や標識には当たるけれど、自分たちにはひとつも当たらない。
 今朝に比べ、走る速さはかなり上がっていた。実は日中、靴を買ったのだ。裸足で買いにいくのは恥ずかしかったが、そのかいが充分あったってことだろう。
 遠く、下り坂の先には、街の夜景が広がっていた。小さい街だから特別すごいわけでもないけど、光の織り成す景色はそれだけで美しい。
 夜景はみるみる近づいてくる。信号が赤から青に変わったのが見えた。さらに走り続けると、車のテールランプが動いていく様子までわかるようになってきた。
「どこまで逃げるんだよ?」
『街まで行こう。この勢いなら振り切れる』
 ガーティスはそう言って、さらに速さを上げた。

 建物と建物の間の狭い路地で、亮介たちは息をついていた。
 名前を見てもどこだかわからない、商店街の片隅だ。夜遅いため、店のシャッターはどこもすべて閉まっている。
「やっぱり、靴があると違うよな。断然速いよ」
『そうだな。こんなものがあるのなら初めに教えてくれれば嬉しかったんだが』
「あのな……。どこの誰だよ。そんな余裕をくれなかったのは」
 痛いところを突かれたのか、ガーティスはそれで黙ってしまった。チャンスとばかり、亮介は言いたいことをぶつけにかかる。
「しかもお前、球を手で受け止めただろ。なんてことしやがる。俺の体だぞ」
『とっさのことだったので、つい。すまない。普段ならこのあと体を替えればすむことだから、その――でも一応、直前に小さい球を作ってガードはしたから』
 言いながら、ガーティスは目線を左手に向ける。見た目はそんなに変わってないけど、ちょっと焦げている気がしないでもない。おっかなびっくり、手を閉じたり開いたりしている。かなり痛むんだろうか。あとで体を返されるのが怖い。
『そんなことまでしてくれなくたって……』
 と、シュリアがぽつりとそんなことを漏らした。
『なんです? シュリア様』
『なんでもない』
 そっけなく答えて、シュリアは会話の続行を拒んだ。
 ガーティスはまじまじとシュリア――有希の姿を見つめる。気のせいだろうか。なにか、違和感を感じるんだけど……
 しばらく考えて、亮介はその正体に気づいた。
「あの、王女さん。ブレザーは?」
 言われて、シュリアはきょとんとした表情を見せる。やっぱり気づいてなかったか。
「まさか……」
 有希が心配そうな声をあげる。亮介はそれにうなずいた。有希のブレザーはいつの間にかなくなっていて、見るからに寒そうな、白いブラウス姿になってしまっている。
『ねえ、なにを話してるの』
 シュリアはまだ会話について来れない。
「ちょっと、服のことはちゃんと説明したじゃない。なんで脱いだりするの?」
 有希が大声で、シュリアを怒鳴った。この時間帯だ。声がよく通る。
『静かにしてくれ。声が響いてる』
 ガーティスの注意はかえって逆効果だったらしい。有希の声のトーンがさらに上がった。
「なんで向こうに――清水くんたちにできることがこっちにできないの? 説明してよ」
 数秒、沈黙が続く。そして重たそうにシュリアは口を開いた。
『人には、無意識にやっちゃうことってのがあると思うの。それが悪いことだって知っていても。わたしの場合、それがこれなんだと思う。――ごめんなさい』
 思いのほか素直に、シュリアは謝った。そうしおらしく来られると、有希も拳を下ろさざるを得ない。
「まあ、早く直してくれればいいよ、それで。こんなことに巻きこまれた時点で、全部無事にすむなんて思ってないし。でも、次からちゃんとやめてよね」
『うん……』
 弱々しく、シュリアは返事をした。とりあえず、この件はすんだとみていいだろう。
 亮介は軽く、息を吸った。
「ところでさ、さっき言ってた体の動作への影響≠チて、なんなんだ?」
 ずっと、これが気になっていた。不安になると悪い影響が出る――言葉だけ見れば、これほど自分の弱点とマッチしたものはない。だからこそ早く訊いて、事実を明らかにしておきたかった。
 ガーティスの視線が、地面に落とされる。
『実は私にも、よくわからないところもあるんだが……体の所有者本人の精神がきちんと体にある状態のところへ、他人の精神を入れた場合、制御を他人がしているときであっても、もとの体の持ち主の思ったことが動作に反映されることがあるらしいんだ。肉体の精神親和性がどうのとか書いてあった記憶があるが……』
「それって、わたしたちが中にいて、そこで弱気なことを思うと、そのせいで動作が鈍ったり失敗したりするかも、ってこと?」
『そういうことだ』
 有希に対して、ガーティスは肯定の言葉を返した。亮介の心のなかに、一気に黒いものが広がる。
 サドルに着地しようとして滑ってしまい、かなり危険な状況になったとき。結局は素手で球を受けることでなんとかなったけど、そもそも滑ってしまったのは、自分が着地を怖がっていたからなんじゃ……
 あのときどんな気持ちだったかを、必死に思い出そうとする。けれど、怖かったとかすごかったとかの大まかなこと以外、なにも思い出せない。
「なあ、その、なじるみたいになるから言いにくいんだけど。サドルから落ちかけたことがあっただろ。あれは、どうしてなんだ?」
 しかたなく、亮介は訊ねる。できれば訊きたくないけれど、はっきり違うと言ってくれるなら、これに勝る薬はない。
『足をついた角度が悪かったんだろう。ひょっとして、足の付け根の構造が、我々とこの星の人間で違っていたりするのか?』
「さあ、それはわからないけど。ひょっとしたら俺の気持ちのせいで失敗したのかなあ、なんて考えちゃってね。違うんならそれでいいんだ。うん」
 ガーティスの答えに、亮介は心の底から安堵した。
 本当はビビっていたのかもしれない。いや、きっと自分のことだからビビっていたんだろう。だけどそれが影響しなかったというなら、それで結果オーライだ。
 しかし、次のガーティスの言葉が、そんなムードをいっぺんに吹き飛ばした。
『そうか。私は角度が悪かったと解釈していたんだが、その可能性もあるな』
「か、か、可能性の話だろ。カノウセイ。気にしなくていいって」
 必死になって、亮介は打ち消そうとする。せっかく収められそうだったのに、蒸し返されてはたまらない。第一、有希にビビりだってことが知れたら。
『どっちにしろ、次の戦闘ではっきりするだろう。今はなんとも言えない。証拠がなにもない以上、調べることもできないし。……可能性が当たっていて、そのせいで次の戦闘のときに捕まったら目も当てられないがな』
 ガーティスのつけ加えた言葉が、亮介には皮肉に聞こえた。ここで正直に言ってしまったほうが、生き延びられる確立は高くなる。そういう皮肉。
 それでも、亮介には言いだす勇気が出なかった。見栄のほうを取るなんて、自分でも格好悪いと思うけど、有希の顔を見ているとやっぱりそっちを取ってしまう。それに、まだそうでない可能性を信じてもいたかった。
『とにかく、今夜はもう少し安全なところへ移動して、そこで夜明けまで待ちましょう』
 ガーティスの提案にシュリアも従い、亮介たちは狭い路地から商店街のメインストリートへ出た。くすんだ街灯の明かりと看板、それに重そうな灰色か白のシャッターだけが目に入る。
 つまらない景色だと思ったんだろうか。ガーティスはすぐに目を斜め上に向けた。
 そこには、大きな黄色の月があった。
 まだ満月には数日足りないが、充分な大きさがある。それがだいぶ低いところまで傾いている。黄色くて大きな月なんて見たことがないから、なんだか神秘的な感じがする。
 ガーティスも見とれてしまったのか、走りだそうとはせずにただ月を見上げていた。
「お前らの星には、ああいうのがないのか?」
『ん、ああ。衛星のことか? ウィレールにはふたつある。しかもひとつは、あれによく似ているしな。見ていると懐かしいんだ』
『セーンケレトゥーには、三年間いたんだものね』
 と、シュリアが知らない名前を口にした。
「なに? その、セーンなんとかって」
『衛星の名前よ。ウィレールのふたつの衛星は、バラハズートとセーンケレトゥーって言うんだけど、この星のと似てるのがセーンケレトゥー。セーンケレトゥーには、兵士になるための訓練学校があるの』
『物心ついたときからあそこに行くんだって決めてていたから、なんだか、見上げるのが癖になっていてな。ウィレールを出たときから、もうしばらく見れないって思ってたから、なんだかむずがゆい』
 ガーティスが淡々と、そうつぶやいた。故郷に対する気持ちが現れているのが、亮介にはわかった。昨日の夜、聞かせてくれたことを思い出す。
「地球にいる間、好きなだけ見ていけよ。ニセモノだから満たされないかもしれないけど」
『……ああ』
 穏やかに、ガーティスはうなずいた。
 月はただただ、地上を照らし続けていた。

     *

 午後三時。日なたの温もりが徐々に失せ始め、日かげの冷たさが面積とともに勢力を増しだすころ。
 亮介と有希は、スーパーにいた。
 コンビニの建物をそのまま広く大きくしたような、独立型の店舗だ。その店内のレジの奥で、亮介は手持ちぶさたに立っている。
 レジでは、有希が財布から千円札を二枚出しているところだった。制服のブラウスの上に、薄手の白いセーターを重ねて着ている。紺のブレザーから一転、白い服に変わったわけだが、見ていて違和感はない。
 実は亮介は、あのドタバタのなかで財布を持って出るのを忘れてしまった。だから支払いはすべて有希の担当である。
 眺めながら、亮介は情けない気分になっていた。彼女にデート代をおごられる貧乏彼氏は、いつもこんな気分を味わっているんだろうか。もっとも、有希と自分はそんな関係には到底なれないけれど。ことが終わったら、ちゃんと金を返さないといけない。
 やがて有希は支払いを終え、かごを持ってこっちにやって来た。かごのなかには、飲みもの、パン、それから絆創膏の箱がきちんと並べられている。さっき自分と有希で選んだものだ。
 それをふたりで手早く袋に詰めこんで、亮介が預かっていた有希のザックのなかに収めた。出口に向かう。
 スーパーを出ると、十台ぐらい停まれそうな駐車場が広がっていた。スーパー自身の影にすっぽり覆われている。その向こうの道路は、傾いた陽を浴びての黄みがかった色に染められている。
「どう?」
 駐車場から道路へ出る前に、有希がガーティスに訊ねた。
『大丈夫だ。気配はない』
 体の制御を取っていなくても、ガーティスには敵の気配がつかめるのだという。幸い、いまはいないみたいだ。亮介たちは、ここへ来たときとは反対方向へ歩き始める。すぐに日なたに入った。光の温もりが、体のこわばりをほどいていく。
 幹線の大きな道は、昼下がりであるにもかかわらずそこそこ混んでいた。車の起こす風に、街路樹の葉がかさかさと鳴る。見れば、街路樹そのものもすっかり艶を失っていた。もうすぐ葉はすべて色づいて、地面に落ちてしまうだろう。
 様子をうかがいながら、亮介たちは十五分ほどそこを歩いた。ずっと同じ道を進むというのは避けなければいけないのだが、路地がまったくなかったのではどうしようもない。
 と、そのときようやく路地に当たった。車が二台、ギリギリすれ違える程度の道幅だけど、それで充分だ。周囲に気を配りながら、その路地を早足で進む。
 ひときわ高い灰色の柱が、視界に入ってきた。右斜め前に、黒く汚れた姿で立っている。
「あれ、お風呂屋さんかな」
 有希が柱を指差して、亮介に訊いてくる。
 亮介は目を凝らして、柱を見直した。確かに柱の腹に湯≠ニいう字が見える。その上に書いてある、おそらく店の名前と思われる字は煤でかすれて読めない。さらに煙突には、はしごまでついていた。
「そうみたいだな」
 銭湯なんて見るの、いつ以来だろう。家の近所にはなかったから、どこか出先で見たことがあったはずだけど。
 有希の顔が、くるりとこちらに向いた。
「ねえ、入ってかない? もう二日も入ってないし」
 うかがうというよりは、さも当然という表情をしている。反対されるなんて考えてもいないみたいだ。まあもちろん、反対する気なんてするわけないけど。そろそろ体が気持ち悪くなってきたのは、こっちも同じだった。
「べつに俺はいいけど、でもこいつらは――」
 うしろから来たカブを、亮介は避けた。それから、中にいる存在へ意識を傾ける。
「俺たちは一生、ひとつの体を使い続ける、ってことは、わかってるよな。――で、だ。ひとつのものを使い続けるんだから、丁寧に扱うことはもちろん、手入れだって欠かすことはできない。俺たちがこれから入りたい風呂≠チてのは、つまりその、手入れをするためのところなんだ」
 普段なにも考えずにやっていることをあらためて説明するのは、なんだかこそばゆい。
『その手入れってのは、そんなに頻繁にしなければならないものなのか? そうでないなら、不要な寄り道はしてくれないほうがいい』
「あ、え、と、うーん」
 亮介は言葉に詰まってしまった。確かに二日ぐらい風呂に入らなくても、命に別状はない。ガーティスの意志を考えると、むしろ入らないほうが正しいことに思えてしまう。
 と、そこへ有希が、すかさず説明を加えた。
「手入れを怠れば怠るほど、全身が気持ち悪くなっていくの。そうしたら、心がその気持ち悪さにとらわれちゃって、戦うときに影響が出ると思う。つまり、ちょっと時間をかけるだけのことで、大きなピンチを避けられるわけ。わたしたちが入りたいって言ったのは、単に自分たちのためだけじゃなくて、あなたたちのことを思ってのことでもあるの」
 さすがは有希だ。こんなに上手くまとめるなんて。自分が望んでもできないことを、いつも難なくやってしまう。どうしてこんなにも、自分と有希は差があるんだろう。
『そうか。そういうことなら、なおさら行ってほしい』
 ガーティスも納得したらしい。有希はこっちに向かって、ニッと笑顔を見せてきた。
 亮介は、目線を斜め下にそらした。それから小さく、うなずき返した。

 入口には営業中≠ニ書かれた木の札がかけられていた。向かって右手が赤い暖簾、左側が青い暖簾――男湯になっている。
「じゃ、また。なかで……」
 亮介は暖簾に手を差して、そこをくぐろうとした。
『ちょっと待て。これは、男女別になっているのか?』
「そうだけど」
 いざ、というときに呼び止められたせいか、思いのほか剣呑な声が出てしまった。気まずくなって、目を斜めに泳がせる。
『それではまずい。このなかで襲われたら、対応しきれない』
 言われて初めて、亮介はその可能性に思い当たった。女湯の悲鳴を聞くことはできるだろうけど、駆けつけるには時間がかかってしまう。
「で、でも、なかで声をかけ合えば、お互いどこにいるかわかるし、それに、声は通るから、なにかあったらすぐわかるようになってるし、だから――」
 有希が口を回転させて、説得にかかる。もちろん、入りたいのは亮介も同じだ。説得に手を貸す。
「ぱぱっと入ってくればだいじょうぶだって。ものの十分ぐらいですむから。いままでの運のよさからしたら、これぐらいはいけると思うけどなぁ」
 サドルから滑っても有希を護れたし、初めての攻撃のときも当たってくれた。風呂に入れる運ぐらいあってもおかしくないじゃないか。
『むぅ。……それほど言うのなら、まあ入ってもいいか。ただ、細心の注意だけは払ってくれよ』
 思いのほか、ガーティスはあっさり折れた。自分たちの説得に、並々ならぬものを感じたんだろうか。
 ともかく、亮介たちは暖簾をくぐった。
 まず出迎えてくれたのは板張りの床だった。床はあちこち剥げていて、見るからに年季が入っていたが、ゴミやほこりはまったくない。どころか、照明をにぶく反射しているところさえある。
 靴を脱いで下駄箱に入れ、亮介は床に足を踏みだした。
 番台にいたのは、背中の丸いおばあさんだった。よれよれの白髪を垂らし、顔は皺だらけで、目なんか開いてるのか閉じてるのかわからない。座っている姿はまるで置物だ。
「あの、大人ふたり」
 有希の声とともに、小銭が台の上ではねる音がした。この時間に制服で来て、怪しまれると思ったのだろう。うかがうような声になっている。
 おばあさんは自分たちの格好を気にする様子もなく、ただ首をこくこく上下に動かした。それを確認して、亮介は奥へ目を転じる。
 浴室の手前には、かごに積まれた白いタオルの山と、箱詰めの状態で置かれている石けんがあった。その隣には募金箱のような箱があって、箱にはマジックで字が書いてある。
手拭二五〇円 石鹸三〇円 剃刀五〇円
 どうやら、買うときはここに料金を入れろ、ということらしい。カミソリは石けんのうしろに置いてあった。
 亮介の口から、ため息が漏れた。これを使うには、当然また有希の財布の世話にならなきゃいけない。ここは石けんの話題は出さずに入ってしまおうか。自分から言いださなければ、あんな惨めな気分にならなくてすむ。
「ねえ。そっちのぶんも払っとくね」
 が、その矢先、有希のほうから声がかかった。
「あ、う、うん」
 亮介は断りきれず、返事をしてしまった。向こうは善意のつもりで言ってくれているのだ。断るなんてできやしない。それに断ったら、有希に嫌われるかもしれない。それを思うと、怖くて口を充分動かすこともできなかった。
 脱衣所は、十歩ほどの奥行きがあった。両側に四段の棚がずらっと並んでいて、定番の体重計もある。どの棚にも服は置かれていなかった。
 タオルと石けんの横には、カミソリも置いてあった。そのどれも、店の雰囲気からすると信じられないくらい清潔感がある。タオルと石けんは清々しいほど白く、カミソリには刃こぼれひとつない。
 亮介は一番浴室に近い棚で服を脱ぎ始める。棚の場所は、入る前に相談して決めていた。浴室に近いほうが、すぐ荷物を取って逃げられるからだ。
 左手が使えないもんだから、なかなか脱ぎにくい。苦労して、右腕の袖を脱がす。
 難関を抜ければ、あとは一息だった。亮介は下着まで脱ぎ終えて、それをリュックの奥に突っこむ。それから新しいものを取り出して、棚に置いた。
 迷った挙句、石けんとタオルには手をつけるのをやめて、棚の向こうへ声をかける。
「準備できた?」
「もうすこし」
 有希の声が、棚を挟んで返ってくる。
 この棚の奥、たった一メートルほどの先に、一糸まとわぬ姿になろうとしている有希がいる。どれぐらいまで服を脱いだんだろう。
 自分と同じタイミングで棚まで来たんだから、すでに下着姿までいってるのは間違いない。いまちょうど、手が腰から滑るように下がって最後の一枚を脱いでいるところぐらいだと思う。最後の一枚のその下は、すなわち――
 亮介は慌てて頭を振った。
 本人を前にしてそんな妄想を繰り広げるなんて、人間としてどうかと思う。
「できたよ」
 と、棚の向こうから声が飛んできた。
「あ、ああ、うん」
 体が上気するのを感じながら、亮介は曇っているガラス戸を開けた。
 浴室のなかは、暖かい湯気で満たされていた。正面には、頂上に雪を戴く富士山の絵が描かれていて、床と壁、それに浴槽には水色のタイルが貼られている。タイルはところどころ欠けてはいるけど、汚いという感じはない。広さは、脱衣所をひとまわり大きくしたぐらい。
 亮介は右手に積まれている桶の山からひとつ取ると、湯船からお湯を汲んで、体にかけた。熱くもなくぬるくもなく、ちょうどいい温度だ。本当にこの銭湯は、どこを見ても気配りの高さを感じずにはいられない。店番のおばあさんはあんなだけど、他の従業員はかなりすごいんだろう。いや、意外にもあのおばあさんが、実は一番すごかったりして。
 亮介は前の客が残していった石けんを手に取ると、イスに座って、石けんを右膝でこすり始めた。すぐに、泡が立ってくる。その石けんをさらに、左もも、腹、左肩、左腕へともっていく。左手の怪我のせいで右上半身が洗えないが、そこはあきらめることにした。
 ひとしきり洗い終えて、亮介はお湯で体を流した。これだけのことだが、なかなかさっぱりする。気持ちいい。
『でも不思議ね。この星の人の体って。こんなに体の線にムダがあるなんて』
 と、そこへ、シュリアの嬉々とした声が響いてきた。
『ちょっと触らせてよ。いいでしょ?』
「だめだって。そんなことしてる時間はないんだから。だいたい、そっちのほうが時間を気にしなきゃいけないんじゃないの?」
『う。でもちょっとだけなら。ね』
 なにやら、想像力をかきたてられる会話が交わされている。
 聞いてられなくなって、亮介はすっくと立ち上がった。浴槽に向かう。恥ずかしさのせいか、体の芯が縮みあがっている気がする。
 ここは有希たちに、突っこみを入れておくべきだろうか。会話が筒抜けだってことを。
 でもそれだと、こっちが聞いてたってことを知らせてしまうわけで。この場合、知らないほうが有希もいやな気分にならなくていいだろう。壁の向こうに異性がいることを意識しないほうが、リラックスできていい。
 そんなことを考えながら、亮介は左足からお湯に進入する。左手は傷がしみるので、つからないようにする。
「う……はあぁ」
 思わず、声がこぼれる。気持ちよさに体がぶるっと震えた。有希がいなかったら、即興の鼻歌でも歌いたいくらいだ。
『シュリア様! いま湯に入りましたよ!』
 その気分は、ガーティスにいきなりぶち壊された。
「声が大きすぎるって。そこまで張らなくてもちゃんと届くから。さっきの向こうの会話だって普通に聞こえてた――」
 慌てて口を閉じたが、もう遅い。
 結局、最後のトドメは自分でさしてしまった。
 亮介は、女湯から一番離れた、湯船の隅に移動した。女湯の近くにはもう居てられなかった。あとで有希と、どんな顔して会えばいいんだか。
『湯に入るのは、汚れを落とすのとなにか関係があるのか?』
「知らん。もう黙っててくれ」
 亮介はガーティスを冷たくあしらった。
『なにか、気に障ることでも言ったか? それならそれで謝るが』
 ガーティスは律儀にもそんなことを言ってくる。知らないってことは、本当に罪深い。
 亮介はガーティスを無視して、湯船に体を漂わせた。体の芯が、ほどけていく。スパゲティの麺にでもなった気分だ。
 湯気に曇った天井を見上げながら、亮介はここ数日のことを振り返ってみた。
 いきなり宇宙人に入られて、制服のまま、それから三日も逃げ続けて。きっといまごろ、家では大変なことになっているだろう。捜索願とか、出されただろうか。
 ――そこまで考えて、亮介はとんでもないことに気がついた。
 有希の部屋の窓は割られていて、自分と有希は一緒にいなくなった。と、いうことは。
 自分が、有希を誘拐した犯人にされてしまっているかもしれない。
 さっきとは種類の違う震えが、亮介の体を伝った。体をずぶずぶと口まで湯に沈め、正面にある壁を見つめる。肺の奥に、悪い空気がどんどん溜まっていく感じがした。けれど、いまそれを外に出す方法はひとつもない。ただ黙って、お湯のなかに体をひたすことしかできなかった。
 そのときだった。
「いゃあぁぁあっ」
 壁の向こうで、有希が悲鳴をあげた。
「お、おい?」
 呼びかけてみたが、返事はない。
 とりあえず壁の近くまでいってみようと思って、亮介は湯船から立ち上が、ろうとした。
 ぐるん、と意識が歪んだ。
 体が浮き上がるような、奇妙な感覚にとらわれる。もう何度目だろう、この感覚は。
『シュリア様!』
 亮介の意識は、ガーティスの叫び声で再び覚醒した。
 視界が、感覚のないカラダが、みるみる壁に近づいていく。
 ガーティスは、右手を壁に叩きつけた。手のひらにはいつの間にか、光球が作り出されていたようで、壁は叩きつけたところを中心に円形に崩れる。
『大丈夫ですかっ』
 青と赤のタイルの混ざりあった残骸を越えて、ガーティスは女湯に入っていく。
 有希は、桶を持ったまま、呆然とこちらを見つめていた。もちろんその体は、いままで何度も妄想のなかに登場した一糸纏わぬもので――
『あ、ガーティス。ねえ見て。いまそこに面白い生き物がいるのよ。ほら、イスの横』
 宝物を見つけた子どものように弾んだ声で、シュリアが話しかけてくる。
 有希はその声で自分を取り戻したのか、さっと亮介たちに背を向けた。かたちのいいヒップが、視界に映る。
 意識が沸騰してしまいそうだった。目をそむけたいけれど、この状態ではどうすることもできない。ガーティスの見つめるままに、薄赤く色づいた体を亮介は見続ける。
『ちょっと、なんでそっち向くのよ』
「いいから!」
 有希の叫びにはエコーがかかっている。
『なにがいいのよ。ちっともわからないわ。それよりガーティス。そこのそれ、変な動きでしょう? こんなの、王立博物館にだってないわ』
 イスの横には、身をくねらせて動いているムカデがいた。
『そ、そんなことより、さっきの叫び声は?』
『え、ああそのこと。なんだか急に、有希が叫んだのよ。よくわからないけど』
『なっ』
 数秒、ガーティスは言葉を継げなかった。
『ま、紛らわしいことはしないでくれ!』
 ガーティスが冷静さを欠いているのを、亮介は初めて見た。それだけ、必死なんだろう。しかしいまは、それに納得している場合ではない。亮介は説明を試みる。
「その虫は、刺されるとすごく腫れるんだよ。普通は見つけたらすぐ、殺すか逃げる。怖い虫なんだ」
『ええ? こんなに面白いのに』
 シュリアがまたとんちんかんなことを言う。
「面白いとかそんなことはどうでもいいから。早く排水溝に流しちゃってくれよ」
『え。あ、ああ』
 自分に向かって言われたことに気づくのが遅れたのか、ガーティスは珍しくビクついた返事をすると、慌てて桶を取って浴槽に向かった。お湯を汲む。
 有希が、こっちと距離をとるようにうしろへ下がる。
 ガーティスはお湯をムカデにぶちまけた。ムカデはあっさり流されて。排水溝の奥へ落ちていった。
『やってから言うのもなんだが、こんなこと、体の制御を取らなくてもよかったな。なにもなかったとわかったときにすぐ返すべきだった。すまない』
 亮介が答える間も開かずに、また意識が歪んでくる。
 気がつくと、赤いタイルの世界に亮介は突っ立っていた。
 有希の背中が、ちょうど正面にあった。タオルで前を隠して顔をうつむけている。
 急いで桶を股間にもってくる。自分でもかなりマヌケな格好だと思うが、どうしようもない。
 亮介は必死に理性を回転させ、見るな、見るなと自分に言い聞かせた。これ以上嫌われたくない。だから早くまわれ右して男湯のほうに戻らないと……
 でも。しかし、だ。考えてみればこれは事故だ。宇宙人が勘違いして勝手に壁を壊して女湯に進入してしまったというアクシデントだ。不可抗力だ。自分に責任はない。ということは、事故のはずみで少しだけ見てしまったとしても、しかたがなかったということで片づけられるのでは――
 思考の暴走するままに、亮介は有希の体に見入った。体のラインは成熟した女と少女の中間といったところか。ほどよく丸く、ほどよく直線的。これぐらいのバランスのときが一番見た目にそそると思う。背中とヒップには汗かお湯の玉が浮いていて、艶やかさを演出している。もちろんヒップの下には少年たちにとっての永遠の神秘が――――
 ――膨らんだなにかが桶に当たって、亮介は我に返った。
 いくらなんでも最低すぎる。言いわけの余地すらない。
 前屈みになって、亮介はそそくさと男湯に戻ろうとした。が、壁の前ではたとそれに気がついた。
「この壁、どうすんだよ」
 壁にはガーティスのおかげで、大きな穴が開いていた。
「あ」
 有希もそのことに気づいたらしい。短く声をあげる。
 その声を聞いて、亮介は急いで穴をくぐった。足の裏にタイルの屑が何個も刺さったが、そんなこと構ってられない。
『どうって、なにがだ』
 ガーティスは自分のしたことの重さに気づいていない。まあそれに気づけるようなら、そもそも壊したりしないんだろうけど。
「べ、弁償しなくちゃいけないだろ。この壁。でも、いまそんな金ないし……」
 家に帰れれば、なけなしの貯金を崩してなんとか払えるだろう。でも店の人に、いますぐ払えとか言われたりしたら。
 悪魔の囁きが、亮介の耳の奥から響く。
「な、なあ。逃げよっか」
「だめだってそんな。そりゃわたしだって、手持ちじゃぜんぜん足りないけど」
「じゃあどうするんだよ。なにか方法があるのかよ? あ、いや、べつに、早瀬が悪いんじゃなくて、ふ、ふたりで考えなきゃいけないことだけどさ」
 言いかたが逆ギレっぽくなった感じがして、亮介は言葉をつけ足した。
 数十秒、沈黙が続く。
 そして、有希がひとつの案を口にした。
「連絡先でも書いて残していけばいいんじゃない。レシートの裏とかにでも」
「うぅん」
 唸りながら、亮介は考える。このまま逃げるのはよくない。そして、いま手もとに金がないことを考えると、それが一番、現実的な案に思えた。
「それしかない、か。そうと決まったら、とにかく早く出ようぜ」
 言って、亮介は浴室を出た。
 番台のおばあさんは、相変わらず起きてるんだか寝てるんだかわからない。壁のことには気づいてないみたいだ。なら、気づく前に早くここを出ないと。
 体が濡れたままなのも構わず、急いで服を着こむ。左手が使えないからなかなか着られない。イライラする。なんとかシャツの袖に左手を通す。
 と、重要なことを思い出した。
「あ、あのさ。ついでに、俺が無実だってこと、書いといてくれよ。ひょっとしたら、俺がそっちのこと、誘拐したように思われてるかも」
「そのことだったらたぶんだいじょうぶだよ。家に書き置き残してきたから」
「はい?」
 驚いて、亮介はボタンを一段、掛け違えてしまった。
「これからすこしの間、友だちと旅行に行く、って。ただ、部屋があんな状態だし、おまけに休みでもないのに旅行って――実質、家出よね」
 その通りだった。亮介の場合は書き置きもないから、さらにタチが悪い。ほとんど蒸発と同じだ。
「とりあえず、ふたりとも生きてます≠チて書いとくか」
「……そうする」
 亮介の提案に、有希は素直に同意した。男湯と女湯の棚板は繋がっているらしく、カリカリと字を書く音が響いてくる。
 やがて、その音が止まった。
「書けたけど、もう出れる?」
「うん。行こう」
 亮介はリュックをつかむと、小走りで出口に向かった。
「あの、すいません。これ」
 有希の手がおばあさんにレシートを渡そうとしたが、おばあさんは手を出さなかった。しかたなく、有希は台に紙を置いていく。
 置かれたのを確認して、亮介は表へ飛びだした。ほぼ同時に有希も暖簾から出てくる。服を着てはいるけれど、確かにさっきと同じ体形のライン。こうして見ていると、服が透けてその下が脳裏に浮かんでくるようで――
 亮介は頭を振って、脳裏に浮かんだものをなかったこと≠ノした。そして、もと来た大きな通りに向かって早足で歩き始めた。
 たまらなく、息苦しい。風呂からあがったのに、まだ熱くむわっとした空気に包まれている気がする。息を何度も吸って、体のなかに冷たい空気を入れようとする。
 そうやって空気を何度も入れ替えて、大通りに出るころにやっと、亮介の気分は落ち着きを取り戻した。周囲をよく確認して、右に曲がる。
 落ち着いたので、そろそろガーティスと話さないといけない。
「しかしなお前、壁を壊すな。壁を」
 亮介はガーティスにようやく抗議した。
『向こうだって山ほど住居、建物を壊している。私たちだってひとつやふたつぐらい』
「誰が弁償すると思ってんだよ。お前らが払ってくれるのか? 無理だろ」
 ガーティスは十数秒、沈黙した。それから重々しく、声を出した。
『……すまない。なるべくなら、この星のものは壊さないほうが良いのだよな。向こうがやってるからこっちも合わせてしまおうなんて、ひどい考えだ。一時とは言え、私はなんて愚かなことを……』
 なんだか、結構落ちこんでしまったみたいだ。そこまでのつもりはなかったんだけど。
「まあ、わかったんならいいよ。この程度のトラブルは覚悟してたし」
「そうそう」
 有希もそこに言葉を重ねる。
『……ありがとう』
 ガーティスは静かに、それだけ言った。
 いい雰囲気が、亮介たちの間に流れる。
 西に傾きかけた光が、風景をオレンジ色に染めていた。冷たさを含んだ秋の風が、ほてった体に気持ちいい。
 亮介は首をぐるりと回して、上空を眺め渡した。夕方のかすれた青に、いくつものくすんだ色の雲が身を伸ばしている。
 その景色を――なにかが横切った。
 気づくと同時に、弾けた音が耳を振るわせる。当たったのは、すぐ横の家の屋根。
「あ、あれ」
 振り返ると、有希の指差す先にふたつの影がいた。ここ数日、いやというほど見た、あの明るめのグリーン。
「まじかよ……」
 もうちょっとのんびりできるかと思ったのに、こいつらは少しも遠慮してくれない。
 そんな亮介の気持ちとは関係なく、意識は再びあいまいになった。視界が歪み、一瞬気が遠くなる。そしてすぐに戻る。だんだん入れ替わりにかかる時間が、早くなっている。
 ガーティスはやつらに向かって一発球を投げ放つと、そのまま、まっすぐ走りだした。

 どれぐらい逃げ続けただろう。すっかり日は暮れて、真っ暗ななかをガーティスは走っていた。電柱に近づくたびに視界が明るくなって、通りすぎるとまた暗くなる。その繰り返し。
 破裂するような音が、絶え間なく続いている。敵の球がどこかに当たっている音だ。ガーティスがうまく走っているおかげで直撃は食らってないけど、それでも攻撃がやまないことに不安を感じる。
 うしろを振り返って、ガーティスはまた球を投げた。牽制だ。そして、球の行く末を見ることなく、即座に前に向き直る。当てることは目的にしていない。
 前を向くと同時に、道路の対岸のガードレールに相手の球が激突した。衝撃でガードレールは折れてしまった。ガーティスは気に留めることもなくすぐに視線を戻し、速度を上げる。
 そのとき、細かいリズムで刻まれるかん高い音と、重く乾いた轟音が、同時に亮介の領域に飛びこんできた。聞き慣れた、けどここ数日聞いてなかった音だ。ガーティスが音のほうへ、目の焦点を合わせる。
 街灯五つ分先に、踏切があった。ちょうどいま、電車が通過していったところだ。電車はいくつもの四角い切り取り口から光をこぼしながら、右手の彼方へ去っていく。
 両目を交互に明滅させていた遮断機がそれをやめ、気だるそうに自分の手を持ち上げた。
『あれは――』
「電車だよ。なんて説明したらいいか……」
『知っている。軌道車両だろう? 王立博物館の交通の歴史≠ナ見た憶えがある』
 そのまま亮介たちは、踏み切りの前にたどり着いた。左右を素早く確認する。電車の来る様子はない。
 ガーティスは目線でシュリアに合図を送ると、姿勢を低くして走り抜けようとした。
 が。
『あぶないっ』
 ガーティスは手を突き出して、隣の有希――シュリアを押し倒した。そしてその上に覆いかぶさる。踏切の向こうが、いま見えてたような――
 頭の上を、速いなにかがかすめていった。
 信じられない思いで、亮介は踏切の向こうの映像を頭のなかで再生する。目がおかしくなっていなければ、間違いなくあれはそうだ。でも本当にそうだったら、挟まれたってことになる。
 ガーティスは倒れたまま、顔を上にあげた。
 記憶と同じ位置に、グリーンの巨体がふたり、いた。ふたりとも、手のひらが光を帯び始めている。二弾目の準備だ。
 亮介がおののいてなにか言う前に、ガーティスは素早く立ち上がって、シュリアを引っぱり起こした。そして、右へ――レールの上を全力で駆けだした。
「お、おい、そっちは」
『車両か? 来ても避けられる。問題ない』
 亮介がなにを心配しているのかわかったのだろう。ガーティスはそう答える。
 線路沿いの明かりが、ぼう、と枕木を浮かび上がらせていた。足もとから、敷石の擦り合わさった硬い悲鳴が聞こえている。
 硬い悲鳴は、背中のほうからも届いていた。しかも複数。何重にもなった石の悲鳴は、さながら死神の呼び声だ。
 いまのところ、足音はハーモニーこそ奏でているものの、格段に大きくなってはきていない。けれどこっちは生身の人間、あっちは巨躯の宇宙人だ。どっちの体力が先になくなるか、予想はたやすい。ましてや、数の上でも圧倒的に不利すぎる。
 と、そこで亮介はあることに気がついた。
 線路に入ってから、敵は一球も攻撃してきていないのだ。なんでだろう。
 そういえば二日前の夜、ガーティスがこんなことを言っていた気がする。多数の現地人に影響が出そうな攻撃はしない≠ニか。電車が脱線したら、かなりの人が影響を受けることになるわけで、だから投げてこないのかもしれない。
 と、そこへ、空気を貫く激しい音が飛びこんできた。警笛だ。
 亮介たちが走っているのとは逆、右側のレール前方に、ヘッドライトがふたつ、輝いている。ぎらついたライトの明るさは周囲と比べて図抜けていて、白い光の槍を思い起こさせる。ガーティスは目を細めてそれを見ている。
「お、おい、来たって!」
『隣だろう。どうとでもなる』
 ガーティスはさして気にしたふうでもない。
「で、で、でも――」
『なにを怖がっているんだ?』
 訊き返されて、亮介は口を閉ざした。
 ――自分がビビリだなんて思われるのは、まずい。
 電車がだんだん近づいてくる。念のため、ガーティスはレールの左端に寄る。
 どうでもいいけど、電車の運転士さん、こっちの顔見えてないんだろうか。見えてたら間違いなくブレーキかけると思うんだけど。全然減速する感じがない。
 そのまま、電車は亮介たちの真横に差しかかった。いくつもの白い窓が明かりをこちらに投げかけて、背中のほうへ消えていく。
 轟音を残して、電車は走りすぎていった。
「俺たち、ばれなかったのかな?」
「さあ……」
 亮介の問いに、有希もわからない、という声を返した。電車を止めたりしたら、賠償金を請求されると聞いたことがある。そんなことになるのは避けたかった。
 いや、それだって無事にいまを乗りきったらの話だ。宇宙人に捕まったらそれどころの話ではなくなる。ともかくガーティスに、電車に近すぎると危ないってことを言わないと。
 口を開きかけたところへ、また警笛が聞こえてきた。しかも今度はうしろからだ。ガーティスは音のほうへ振り返る。
 追っ手の敵たちのさらにうしろ。そこに、ふたつの目玉を光らせた電車の姿があった。
「いいぃ!」
 今度こそ危ない。早く動かないと轢かれる。敵も気づいて、隣のレールに移っている。
 しかし、ガーティスは動かない。
「な、なにしてんだよ。早く!」
『ちょっと、思いついたことがある。シュリア様、もっと左に降りてください!』
「は?」
『えっと、ここでいいいの?』
 亮介の疑問の声も、近づいてくる轟音に掻き消えてしまう。
 ガーティスは、レールのさらに左へと降りた。敷石が作る傾斜の上を走る。足のつく高さが左右で揃わないからか、速さがぐっと遅くなる。
 来た、と思う間もなく、最初の車両が右脇十数センチのところを突風のように通り抜けた。窓からこぼれる明かりが、奇妙な影を地面に投げかける。
 そのまま、ふたつ、みっつと車両は走り抜けていく。
 そして四両目も過ぎようとした、その瞬間。
 ガーティスは左腕でシュリアを抱えると、電車に向かって跳び上がった。
「ひぃぁ――」
 亮介の悲鳴は声にならない。
 右手が、連結部にある転落防止マットに伸ばされた。マットは上から下へ四枚、左右合わせて八枚ついている。その一番上をガーティスはつかもうとする。
 が、右手の指は、マットをかすっただけでつかむに至らなかった。跳びの勢いを失った体は自動的に重力によって下へ引っぱられ、さらには速さの差によって電車から置いていかれてしまう。
 けれど、ガーティスはあきらめなかった。
 宙を漂っていた右手を、五両目の車両の角に叩きつけ、そのままそこをつかんだ。力んだ指が、小さなアーチを描く。
 落ち着く間もなく、ガーティスは左腕を引き上げた。シュリアをマットにつかまらせる。ガーティス自身も右腕一本の力で、その隣のマットへ移動する。
 そこまできてようやく、ガーティスは安堵の息を吐いた。
『大丈夫でしたか?』
『さすがに、いまのは堪えるわ』
「……同感」
 シュリアも同じように息をつき、有希はかろうじてそれに同意する。やり遂げた、という雰囲気が彼らを包みこんでいる。
 その悠然とした様子が、亮介にはなんだか、自分に対する嫌味に思えた。こっちはまだこんなに緊張しているのに。
 急に、いらだちが噴き上がってくる。
「お前、なんてことしやがるんだ! 落ちたらどうするつもりだったんだよ。これが誰の体なのかわかって」
『そう、だな。それはそれですまない』
 言葉とは裏腹に、ガーティスの口調はちっとも謝っていない。亮介の心はさらに激しく火を吹いた。
「ほんとにそう思ってるのか? お前、自分たちが一方的に俺たちを巻きこんだってこと、ぜんぜん自覚してないんじゃないのか。どうなんだよ」
「ちょっ――しみ――言いす――」
 有希がなにか言っているが、電車の走る音に遮られて聞こえない。
 カーブに差しかかったらしく、車両が横に大きく揺れた。ガーティスが手に、いっそう力をこめる。マットが深くへこむ。
『少し、言いたいことがある。ここから降りてから、話をしよう』
 亮介の詰問にはなにも言い返さず、ただそれだけ、ガーティスは言った。

 それから十分ほどして、ガーティスは電車から飛び降りた。有刺鉄線の張られたフェンスを越えて、住宅街を走りだす。
 やがて、道はなだらかな上り坂になってきた。家と家の間に未整備の林が目についてくる。さらに進むと、木々の間に家があるようになった。その林のなかのひとつの前で、ガーティスは足を止めた。そこに分け入っていく。
 ニ十歩ほど進んだところで、亮介の意識があいまいになった。実感のない闇から実感のある闇へ、意識が飛ばされる。ここ数日でずいぶん慣れた、土の匂いが満ちていた。
 道路のほうから差しこんでいる街灯の光のおかげで、なんとか周囲の様子がわかった。ヒザにをかすめる程度に下草は伸びていて、まつぼっくりもいくつか転がっていた。立ち並ぶ木の葉の影はいずれも細く、幹の表面にはボコボコした陰影が浮かんでいる。
 世界を包むのは、鈴の音のような虫の声。
「それで、話って?」
 同じように体を返してもらったんだろう、有希が亮介より先に、話をうながした。
「そ、そうそう。なんなんだよ」
『それは』
 言いかけて、ガーティスはそこから数秒、間を開けた。口にするのを、ためらうように。
『昨日の夜、言ったことを憶えているか?』
「え、えーと……」
 亮介の心臓が、一段高く、撥ね上がった。
 記憶を遡らせるまでもなく、なにを言いたいのか、想像がつく。そのせいで、ずっとプレッシャーを感じていたんだから。
「まさか、精神親和性がどうこうとかの話じゃないよな?」
 自分から、あえてその話題を出す。一種の賭け。はずれてくれれば安心という大きな当たりがくる。
『そうだ』
 しかし、その目算は脆くも崩れてしまった。逆に鋭い刃となって、亮介の心に刺さる。
『あのとき、次の戦闘で亮介の気持ちが私の動きに干渉しているかどうかがわかると言ったが……はっきり言わせてもらう。亮介の』
「やめろっ。それ以上言うな!」
 自分の声が、静かな闇のなかに響いた。急な大声に驚いたのか、有希が肩をびくりとさせた。
 ――言われなくても、その答えはわかっている。
 だからこそ、言ってほしくない。自分以外の誰かに、言われたくない。せめて自分の口から言えれば、有希に、謙遜した自虐なんだと受け止めてもらえるかもしれないから――
「俺がもっと、しっかりしなきゃいけないってことなんだろ。わかってるよ! サドルの上を飛び跳ねたり、電車に飛び移ったり、そんなこと、いままでやったことないからちょっとドキドキしちゃって、それがお前に影響してるんだろ。わかってるって!」
 亮介は一気にまくしたてた。頭がすごく冴えている気がするが、同時に取り乱してもいる気がする。
『そうか。なら話は早い。亮介、そのドキドキをやめろ』
 しかしガーティスの対応は微塵も変わらず、どころか、さらに硬く鋼のような口調で言い放ってきた。強固な意志に裏打ちされた、唯一絶対の決意がこもっている。
『やめなければ自分も死ぬし、有希も、シュリア様も、全員死ぬ』
 亮介は言葉を失った。
 ガーティスは自分に、これまでよりさらに踏みこんだ覚悟を要求している。そして、ガーティスの要求は正しい。
 自転車場のときも、今日の飛び乗りのときも、危うい場面を迎えた責任がすべて自分のこの弱い心にあるとするならば、それは正しい。
 なにも、亮介に言い返せることなどなかった。
『色々、戸惑いがあるのは承知している。それはすべて、勝手に巻き込んだこちらの責任だ。全面的に謝ろう。だが最低限、自分の身を護るために必要な覚悟でさえ、亮介には足りていないと思う』
「そう、だよな」
 弱々しく、亮介は同意する。
『力になってくれる、という約束はとても嬉しかった。だがこれでは、こう言ってはなんだが、逆に足を引っ張っているのではないかと――』
「いくらなんでも、言いすぎじゃないですか?」
 そのとき、有希がガーティスに対して抗議の意思を示した。
「人間、誰でもはじめてのことはうまくできなかったりするんです。わたしたちは、自転車の上を走ったり、電車に飛び乗ったりしたことはないから――だから、それを理由にして足を引っ張っている≠セなんて」
『命がかかってないなら、それでいいだろう。だがいまは、そんな悠長な考えでは済まない。わずかな油断、弱気、誤りが、すぐ死に繋がってしまう。有希は、もし亮介のせいで命を落としてしまったら、まったく恨む気持ちが起こらない自信はあるか?』
 とんでもないことを――それこそ亮介にしたら、爆弾を持って敵陣に飛びこむようなことを、ガーティスは言った。
「それは……」
 有希は困ったように、亮介の顔色をうかがってくる。
 ――なるほど、遠慮してるのか。
「そりゃ恨まれるだろうな。他人《ひと》のせいで死んじゃったわけだし。それも、成り行きで一緒に行動することになった相手のせいで」
 有希が思っているであろうことを予想して、亮介は代弁した。さすがに本人と面と向かっては言えないので、斜め上を見ながらだけれど。
「だから、お前の言ってることはわかってるって言ってんだよ。これからなるべくそういう気持ちにならないように努力するから。それでいいだろ」
『もちろんそうだが、まあ、人の気持ちはすぐに改善できるものではないからな。それなりに、こちらも警戒心を持って当たらせてもらう』
 ガーティスは、痛烈な皮肉を口にした。自分に非がなければ、絶対に抗議していたぐらい、刺々しい。
 だけどもちろん、そんなことはできない。
 亮介の口から、ため息が漏れた。
 この性格のせいで、有希を死なせてしまうことになるかもしれない。その事実が、心に重くのしかかる。

 言葉として聞かされただけなのに、これほど、重いものだなんて。
 だから早く、なくさなくちゃいけない。なくさなきゃ、みんな死んでしまうんだから。
 このビビりの気持ちをなくしてしまわなきゃ、みんな死んでしまうんだから。
 ――でも、怖いって気持ちは、どうやったらなくせるものなんだろう。
『今日はここで休もう』
 ガーティスのその言葉で、場の空気は休憩モードへと変わった。有希がザックから自分の寝袋を取り出し、地面に敷く。
 亮介も、途中で買ったビニールシートを敷くと、その上に座った。リュックを腰のうしろにもってきて、木に寄りかかった体勢になる。
 そこでまた、意識が入れ替わった。実感のない闇の世界に、再び包みこまれる。今夜の見張りはガーティスからだった。
 この闇を支配するのは、映像と音だ。目に映るのは、ほとんどずっと同じ風景。草木の向こう、道路を挟んだ対岸にも林があるみたいだ。聞こえてくるのは、虫の音ばかり。たまに、風に擦れる葉っぱの音なんかもするけど、注意していないと聞き逃してしまう。
 今夜は、昨日までやっていたこの空間内での移動を、試みる気になれない。
 考えても考えても、怖いって気持ちをなくす方法がわからなかった。
 失敗するのは怖い。
 だから、挑戦することも、怖い。
 なにかに挑んだとして、そのあとに待っているのは成功か失敗のどっちかだ。結果という出口に、必ず片方が待っている。どっちが待っているかは、誰も知らない。
 どうしてみんな、あんなに怖がらないで、足を踏みだせるんだろう。
 失敗するということは、なにかを失うことだと思う。なにを失うかは、その人、そのときによって違う。
 だけど必ず、なにかを失う。失うものなどなにもない、っていう、思い切るときの決め言葉が、それをよく表してる。
 みんな、失敗したときのイメージとか、頭に浮かばないんだろうか。
 二度と取り戻せないものを失っってしまった自分というのを――想像しないんだろうか。
 いくら考えても、亮介にはわからなかった。結局、それは他人の心のことだった。そして、ひとりで考えこんでいる亮介には、到底わかるはずはなかった。
 そうしてぐるぐると考えが同じところを回っているうちに、亮介の意識は、移動も試みていないのに、まどろんでいった。

     *

 目の前に……なんだろう、大きな子供たちがいる。小学校高学年ぐらいの男の子だ。
 でもおかしい。
 だって俺は高校生で、もうとっくにこいつらよりずっと大きいはずなんだから。見上げてるというのは変だ。
 あ、なんかわかんないけど、俺、走りだした。その子らのほうに。まっすぐ。
 バカだな。結局負けるのに。
 ――え?
 なんで俺、そんなこと知って……
 あ……ああ、そうか。思いだした。
 これは、俺が小一のときの――
 あ、横にぶっ飛ばされた。
 そうそう、確か思いっきり横っ腹を蹴られたんだっけ。それで地面に叩きつけられて。憶えてるなぁ。あの公園の地面の砂の、ざらっとした感触。
 ん? なんか景色がぼやっと滲んできたな。目を袖で拭ってる。泣いちゃったのか俺。自分からいったくせに。弱いなぁ。
 あれ? ……隣に、有希がいる。
 いまもかわいいけど、このころの有希もかわいいなぁ。まだお互い、下の名前で呼び合ってて。自覚はしてなかったけど、たぶんこのころから好きだったと思う。
 子供の有希が、心配そうな顔でこっちを覗きこんでる。
 そんな顔しないでくれよ。
 情けないだろ。
 格好悪いだろ。
 俺は弱いって――思われたくない。
 こんなことなら、向かっていかなければよかったんだ。なんで俺はあんなバカなことをしたんだろう。
 あんなバカなことをしたから、俺は、ずっと、いまも、有希に、弱い男だと思われて……………………

     *

『おい。おいっ』
 ガーティスの呼びかけで、亮介は夢から覚めた。
「あ、ここは……」
 夢がやけにリアルだったせいか、一瞬、ここがどこだったのか戸惑ってしまう。
『交替の時間だ』
 ガーティスの声は、変わらず硬い。
「ん。わかった」
 亮介が返事をすると、すぐに意識が入れ替わった。
 最初に、背中の感覚が戻った。木肌のごわごわがさがさした感触が、体との繋がりを亮介に実感させる。
 次に右手。手のひらにビニールシートの、ひんやりとした冷たさ。
 亮介は両ヒザを立てて抱え、三角座りの姿勢になった。そして口をヒザにつけ、顔を奥の闇に向ける。
 見据える暗闇は、果てがなくどこまでも続いているように思えた。変化のない闇を前にして、ただ時だけが変化を刻み続けていく。
 なんでいまごろ、あんな昔の夢を見たんだろう。
 亮介の疑問に答えてくれる人はなく、ただ虫だけが、ずっと亮介に話しかけていた。


第四章

 空は、文句のつけようのない見事な秋晴れだった。まだ薄く白んでいるものの、その青はすでに充分、深みを持っている。太陽も、いつも通りに東から顔を出してくる。
 亮介は周囲を確認し終えると、それから道路に踏みだした。有希もあとに続く。昨日登ってきた坂を、ふたりは下り始める。
「今日は、あれだね。買出しに行かなきゃ。近くにスーパーでもあればいいんだけど」
 有希がなにか言っているが、亮介の耳はそれをとらえられない。
 心の奥に、まだかなり黒いものがくすぶっていた。一晩ずっと考えて、不安に駆られて、それでも黒いものがなくなるなんてことはなかった。
 自然と、ため息がこぼれる。夜からずっと、こんな調子が続いている。
 亮介は足もとの石ころを、つま先でこつんと蹴っ飛ばした。小石は下り坂を転がっていく。かつかつと飛び跳ねながら、意外と遠く、下のほうまで行って止まる。
 ようやく止まった小石から視線を上げると、見慣れた格好のやつらと目が合った。グリーンの体が、昇ったばかりの朝日に鈍く光っている。
 亮介がなにかを言う前に、ガーティスが素早く体を取って代わった。この作業も、すっかり慣れたものになってきた。
『こっちです!』
 ガーティスが叫ぶそばから、爆ぜる音がいくつも届いてきた。視界の風景が、いま歩いてきたほうに引き戻る。
 昨晩泊まった林を過ぎ、そこからさらに坂を登ると、ほどなく道は行き止まりになった。突き当たりには工事現場にあるような黄色と黒のフェンスが張られていて、その向こうには鬱蒼とした雑木林が広がっている。雑木林の地面は暗く、不吉な予感を抱かせる。
 しかしガーティスは、それを無視した。あっさりとフェンスを跳び越えて林に入る。遅れて、フェンスのひしゃげる、ごゎあんという音がした。きっと球の当たった音だろう。
 目が慣れてくると、林の地面は一面、枯れ葉と木の根っこだらけだとわかった。走りながら、ちろちろとガーティスは足もとを確認する。かさ、と葉を踏む音もする。
 地面は緩やかな下り坂になってきていた。それを利用して、ガーティスは速度を上げる。
『なんだか……今朝は簡単に見つかっちゃったね』
 唐突に、シュリアがそんなことを言った。
『そうですかね。昨日の夜からずっと、このあたりを張ってたんじゃないですか』
『そんな単純に考えていいのかしら。ひょっとすると、包囲網はもうとっくにできあがってて、捕まるのは時間の問題なんじゃ――』
『そのようなお考えはなさらないでください』
 ガーティスの諌める声は、昨日の夜、亮介に皮肉を言ったときと似ていた。
『でも、だんだん見つかる間隔が早くなってるじゃない。やっぱり、無理なのよ。逃げ切って帰るだなんて』
『シュリア様!』
 叫ぶようにして、ガーティスはシュリアの言葉を遮った。あまりの強い調子に、シュリアは肩をビクつかせる。
『あのときの決意はどうなさったのですか? ともにウィレールに帰り、王家を再興させると言った気持ちは。ここで弱気になっては――弱気になったほうが負けですよ!』
『それは、うん、わかってるけど、ね……』
 はっきりとした返事はせず、シュリアは語尾を濁した。
 それが、亮介には、なぜだかわからないけれど、引っかかった。
 原因を探ろうとして口を開きかけた瞬間、隣の木の枝がまとめて球にへし折られた。球は細かくばらけて、そのうちのいくつかが目の前に踊り来る。ガーティスは体を捻ってそれを避ける。
 やがて、遊歩道のような細い道が見えてきた。坂の終わるライン――谷底に沿って、一本走っている。幅は一メートル半ぐらい。舗装はされてないけど、草は刈られていて木の根はひとつもない。いかにも走りやすそうだ。
 当然、ガーティスはそこに足を踏み入れた。
 左の奥――いままでとは全然違う方向から、ものすごい速さの球が飛んできた。
 ガーティスは身を投げ出して、シュリアを地面に押し倒す。
 球は、空気を貫く音をたてて、視界のすぐ横をかすめていった。
『なかなかいい反応をしているじゃないか、ガーティス』
 そこへ、やけに見下した調子の声が、左手から現れた。伏せた姿勢のまま、ガーティスは声のほうへ顔をやる。
 黒っぽい青、ダークブルーとも言える色をした体の男がいた。例のグリーンをした四人を従えて、悠然と近づいてくる。さらに、さっき自分たちを追っていたやつらも合流する。
 これで、合計七人。七人で包囲されたら逃げられるわけはない。
 終わった。亮介は素直にそう思った。あとは囲まれて捕まってしまうだけだ。いつ輪を広げるのかと、こわごわ、ガーティスの見ているものを追いかける。
 しかし、敵は包囲の隊形を取らなかった。集まった敵は皆、ブルーのうしろについてしまっているだけだ。そしてなにをするでもなく、突っ立ってこっちを見下ろしている。
『そんな顔をするな。わざわざお前のために追跡隊に志願してやったんだから』
 ブルーの口から、流暢な日本語が出てきた。じゃなくて、ウィレール語か。ガーティスによると、自分たちはウィレール語を聞くことはできるようになっているんだから。
 どうやらこのブルー、ガーティスとは知り合いらしい。
『ギレーキ、なんでお前が――』
『意外だったか? おれが来たことが。お前がおれにしてくれたことを考えたら、そう不思議なことでもないと思うがな。……しかしあれだな。こんな辺境の星に逃げこむなんて、お前もなかなかしつこいと思ったが――まさかこんな野蛮な現地人の中に入るとはな。くくく……』
 ダークブルー――ギレーキの口もとが、大きく吊り上がって歪められた。見ていて不愉快な笑いかただ、と亮介は思う。
『ノコノコ出てきて――なにが狙いだ』
 敵意を剥きだしにして、ガーティスは訊ねる。
『狙い? なに、おれは親切な人間だからな。現地人に、お前らの言ってないことを喋ってやろうと思ったわけよ。どうせお前ら、現地人に言ってないだろう? 例えば、なぜ、王家はクーデターを起こされなければならなかったのか。……知りたいとは思わないか?』
 ギレーキが、覗きこむようにしてガーティスを――いや、その奥の亮介を見てくる。見透かされるような感じがして、亮介は気持ち悪くなった。
「あなたたち宙軍が権力ほしさにクーデターを起こした、ってことなんでしょ。しかも圧政を敷いて、自分たちだけに都合のいいような政治をやってるって」
 と、毅然とした声で、有希がそう言った。いや、でも、日本語で言っても通じないんじゃ……
『くくくくく……こいつはとんだお笑いだ』
 ところが、ギレーキは体を折り曲げて、激しく笑いだした。
 すごく、気分が悪くなってくる。笑った顔だけじゃなくて、笑いかたそのものが気持ち悪いのか。ガーティスも同じだったらしく、見上げていた視線を下へ戻した。
『ギレーキ、お前この星の言語まで習得したのか』
 吐き捨てるように、ガーティスはつぶやく。
『ああ。お前に復讐するのに便利かと思ってな。しかしまさか、こんな面白いかたちで役立つとは思わなかったよ。――圧政? 家格に基づく序列化のどこが圧政だ。それを圧政と呼ぶのは、たいした身分でもないのにだめな兄貴に続いて特務隊に入った弟か、貴族改革と称して自分たちの地位を護ろうとした王族の人間ぐらいの』
『やめなさい! 火司《イルス》のグァバンジとして恥ずかしくないのですか! 
グァバンジ=イルス=ココ=ギレーキ!』
 シュリアが怒声をあげて、ギレーキの言葉を遮った。叫びながらも、凛とした声だ。
『恥ずかしい? あなたの存在のほうが、よっぽどウィレールにとって恥ずかしかったのですよ。レピンニの飾り姫様。それにもう、火司《イルス》でもありませんよ。王家は滅んだんですから』
 どうやら、その言葉はシュリアにとってかなり屈辱的な言葉だったらしい。それっきり、シュリアは言葉を失う。
『王家はまだ滅んでない!』
 変わりに、ガーティスが叫んだ。
 ギレーキは屈みこんで、ガーティス――亮介の顔を見据えてくる。
『血筋は消えてないかもしらんが、実態はすでになくなっているだろう。滅ぶ≠チてのはそういうことだろうが。……それにしても、お前も随分と落ちたもんだなぁ。訓練学校でおれにさんざやってくれた男が、こんな役立たずの王女に尽くした挙句……くくく……。どんな優秀な男でも、道筋を誤るとこんなことになってしまうのだなぁ。まったく、怖ろしい話よ』
 ねっとりとした声で、ギレーキは語りかけてくる。胃はないのに、亮介は吐き気を感じた。自分に力があったなら、絶対にこいつを殴っているだろう。
 しかしガーティスは、そんなギレーキにいっさい構うことなく、自分のための行動をしていた。手を腹の下に置いて、足首を立てる。両のつま先を地面につける。
 そして、ギレーキと目を合わせたかと思うと。
『喋りたいだけなら、行かせてもらうぞ!』
 シュリアを――有希の体を左腕で抱えると、斜め上に向かって跳び上がった。手近な枝に、着地する。こんな狭いところに、まったくどうやって足を置けたんだか。
『逃げられるとでも? この人数相手に』
 同時に、ギレーキの背後にいたグリーン四人が駆けだしてくる。それを見下ろしつつ、ガーティスはさらに上へ跳ぼうとした。
 その足が、滑った。
 慌てて右手で枝をつかむが、つかんだそばからその枝の根もとへ球が飛んできた。枝は乾いた音をたてて、脆くも折れる。
 そのまま、地面に落ちるしかなかった。四人に素早く、まわりを取り囲まれてしまう。ガーティスも遅れることなく、棒を作りだして構える。
 シュリアに目で、その場で屈んでいてくれ、と指示を出す。シュリアはうなずきを返す。
 それを見ると同時に、ガーティスは正面に向かって飛びこんだ。ガーティスの視線の焦点が、敵の胸から足に移る。
 薙ぎの一撃を、ガーティスは放った。敵ふたりはうしろへ跳んで、それを避ける。棒はしなりながら、右手のほうへ過ぎてしまう。
 ガーティスは体を右に沈みこませると、さらに間髪いれず左足を前に踏みこませた。同時に棒を切り返し、斜め上に振り上げられる。
 右側の敵の首に、それは見事にヒットした。相手はそのまま、仰向けにふっ飛ぶ。
 ガーティスは最後までその様子を見ることはせず、棒をしならせながらうしろへターンした。視界に映る林の木々が、右から左へ流れる。
 流れの終わりに、敵の姿が目に入った。
 ただし、それは倒れる寸前のものだったけれど。ガーティスの棒は、襲いかかろうとしていたそいつの顎を直撃していた。
 やはり倒れるのを確認せずに、ガーティスは下がって間合いを取り直す。下がりながら、シュリア――有希の奥襟をつかみ、自分よりうしろに行かせる。そこで再び、構えを取る。
 お互い、動かなくなった。
 急に、世界から音がなくなっていく。ガーティスが息を整えている音だけがしている。ほかはなにもない。
 ガーティスの呼吸のテンポが、だんだんゆっくりになってきている。手もとを細かく動かしながら、相手の出方をうかがっている。
 相手の目も、こっちをとらえている。ふたりとも、感情を持たず、ただ打ち据えて捕まえることだけを考えているような、そんな目をしている。
 そうして、焦れるような時間が続いて。
 今度は、向こうが先に動いた。それも、ふたり同時に。
 わずかに遅れて、ガーティスも動く。右側の敵に向かって、間合いを詰める。右足で前へ強く踏みこむ。
 けれど、初動の遅れは、そのまま先手争いに大きく響く。
 こっちが手を動かす前に、目の前の敵は棒を振り下ろしてきた。
 ガーティスはステップして避けようとする。視界が左へスライドする。
 しかし今度は、左側の敵の姿が目に映った。ガーティスはいらだって、喉を鳴らす。思っていたより跳びすぎてしまったんだ。それで左の敵に近くなってしまった。
 隙を見逃さず、そいつは棒を打ち下ろしてきた。
 ガーティスは両手を体に引きつけて、なんとかその攻撃を受け止める。止めた位置が位置だけに、腕に充分な力が入らない。押される。腕が体に、さらに近づいてくる。
 タイミングを計って、ガーティスは上体を捻った。相手の棒が弾かれ、少し浮く。
 その一瞬を利用して、ガーティスは相手のヒザに左足を乗せた。そして蹴る。相手の体を利用したバックステップだ。
 また、間合いが開く。
 今度はお互い、そこで止まりはしなかった。
 ここがチャンスとばかりに、左の敵は踏みこんできた。
 ガーティスも体を沈みこませる。目の焦点は、相手の左ヒザ。
 そこへ、一閃。
 ヒザを抱えて、相手は倒れこんだ。
 もちろん、ガーティスの目はすぐにそこから離れる。すぐに右に跳ぶ。もうひとりの敵の顔が、視界の中央に来る。
 ガーティスは止まらない。両腕を肩のうしろに引きつけると、棒を倒して先端を相手に向けた。
 そのまま、喉もと目がけて、突きを繰りだす。
 相手は突きを予想していなかったのか。反応しきれず、まともに喰らってしまった。いやな声を出して、その場に前から倒れてしまう。
 そしてガーティスは、さっきヒザを砕いた敵のもとへ歩み寄った。無言で、そいつを見下ろす。そいつは痛がるばかりで、こっちが近づいたことに気づいていない。
 首の裏筋に、棒を打ち据えた。
 そいつの体が、ぐったりとなって動かなくなる。
 それを見届けて――ようやく、ガーティスは大きく息をついた。
『さすがだな、ガーティス。やはりこいつらでは相手にならんか。そんな体で、しかも精神がふたつある状態だというのに。たいしたもんだ』
 明らかに見下した口調で、ギレーキが言った。それに、ガーティスは言葉を返さない。
 黙って、ギレーキに向かって構えを取る。
『ほう。やる気か、このおれと』
『当たり前だ』
 そう言うガーティスの呼吸は、まだ乱れている。
『そんな体たらくで、よく言う。いまのでかなり消耗したようだな。未開人の体で、しかも二心状態でいるから、あの程度の相手で息を乱すんだ』
 そしてギレーキは、視線をシュリアのほうに向けた。顔には満面の笑みを浮かべている。
『統合してしまえよ。ガーティス。せっかくお姫様がいるのだから。くくく……』
 本当によく笑う男だ。それも人を不快にさせる笑いばかり。こいつとこれ以上同じ空間にいたら、気が変になりそうだ。
 でもいま、なにか変な言葉を言わなかったか? 統合≠ェどうとか……
『黙りなさい! 星民から税理を貪るような愚昧の輩が王家の名を辱めて、御尊霊様に許されると思っているのですか!』
 シュリアの怒声が、背中から飛んでくる。
『貪るとはひどい。貴族の特権ですよ。家格の優れたものが民の上に立ち、導いていく。当然の摂理です。貴族制は御尊霊様が始められ、確立させられていったものですから、かえってお喜びになられることでしょう。そもそも、いまウィレールを治めているのは我々なのですよ? 我々の舵取りあってこそ、内乱に乗じて干渉してこようとする外部の星系を抑えられているんです。能無しの王家のことなんて、もうほとんどの星民が忘れ去ってしまったのでは? 飾りひ――』
 言葉が最後まで紡がれるのを待たず、ガーティスはギレーキに飛びかかっていった。
 ギレーキは少しも慌てず、流れるようにして腕を伸ばすと、手のひらに瞬時に棒を作りだした。まったく力んだ様子もなく、棒を体の前に出す。そこにこっちの棒がぶつかる。
 そのまま、押し合いになった。
『いまのお前ごときがおれに勝とうだなんて、認識不覚も甚だしいわ。愚かしい』
 見上げるギレーキの顔は、笑みこそ浮かんでいないもののやはり余裕に満ちている。全身どこを見ても、力みというものが見えない。
 だというのに、こっちが徐々に押されてきている。
『……つまらん』
 と、ギレーキはあっさりガーティスを突き放した。ガーティスは地面に尻もちをついてしまう。
 ギレーキはくるっと、背中をむけた。
『おい。あいつの相手をしてやれ』
 そして、うしろに控えていたグリーンふたりにそう告げると、そのまま奥に歩いていってしまった。まるでこっちに関心がないかのように。
 新たな敵となったふたりは、ほぼ同時に棒を作りだす。すぐに間合いを詰めて、こっちに跳びかかってくる威勢だ。
『シュリア様! 走って!』
 しかしそこで、ガーティスは意外なことを叫んだ。そして立ち上がり敵に背を向け、全速力で走りだす。平らな遊歩道のおかげで、すぐ充分な加速に乗る。
「なんだよ。倒すんじゃなかったのか?」
『ああ言えば、うしろを塞がれることはないと考えた! ここは真っ向戦うより、逃げたほうが生き延びられる』
 返事を聞いているそばから、道の脇に立っていた木の枝が数本まとめて粉砕された。近くにいた鳥が驚いて飛び立っていく。今回も向こうは数を撃ってくる作戦のようだ。
 ガーティスは一度もうしろを振り返らない。前を行くシュリアをかばう位置に立って、ひたすら逃げている。
 あるいは、振り返る余裕さえないのか。
 息がまた、激しく乱れている。いつもならきょろきょろと目まぐるしくまわりを確認するのに、いまは目の前のシュリアだけしか見ていない。
 あのガーティスが、ここまで追いこまれている。
 言葉が、ない。
 たぶん、これが本物の必死≠チてやつなんだろう。いままで生きてきて、自分は一度もこんなふうになったことがない。それはもちろん、怖がっているからなんだけど。
 だけどガーティスは、いままさに必死≠ノなって目的を果たそうとしている。
 失敗することが、怖くないんだろう。
 やっぱり、勇気を持てる人とそうでない人とは生まれつき分かれているのだ。だって自分がこのガーティスが同じ心を持つだなんて、到底ありえないんだから。
 と、ここで初めて、ガーティスがうしろを振り返った。
 いつの間にか、敵の姿がなくなっていた。さっきから攻撃が減ってきたなとは思っていたけど……
「撒いた、のか?」
 あんまり期待せず、おそるおそる、亮介は訊いてみる。
『そうらしい……』
「でもなんか、おかしくないか。いつもはもっとしつこいと思うんだけど」
 なんだか、わざと退いたような気さえしてくる。さっきのギレーキのこともあるし、亮介にはそう思えてならない。
『さあな。……どのみち、こちらにできることは逃げることだけだ』
 ガーティスはその疑問を一蹴した。確かに、相手がわざと追ってこないのだとしても、こっちの行動は変わらない。逃げて、地球を脱出することだけだ。
『もうちょっと進んでから、少し、休憩しよう』
 そう言って、ガーティスはまた走りだした。自分から休もうだなんて、言ったことなかったのに。かなり疲れてるんだろうか。体を返されたときが怖いな、と亮介は思う。
 いや、それよりもまず、気になることがある。クーデターを起こされなければならなかった≠フ話でギレーキが爆笑した理由とか、統合≠ニか――まだこっちに話してくれてないことがあるらしい。
 でもたぶん、訊いても答えてくれないだろう。話す気があったら、これまでにもう言ってくれてるだろうから。
 だんだん広くなってきていた道は、さらに土からアスファルトの舗装に変わった。ぼこぼこした汚い舗装だけど、それでも見栄えはぐっと増す。ガーティスはその道を、軽く跳ぶようにして走る。
『ねえ、ガーティス』
 と、そのとき、前を行くシュリアが口を開いた。
 いままでになく思いつめた声に、亮介はなにかいやなものを感じる。
『なんです?』
 ガーティスが訊き返すが、シュリアはなかなか言葉を返さなかった。
 一分ぐらい、そうして走っていただろうか。
『もうだめ。わたし、これ以上あなたに迷惑をかけられない』
 言って、シュリアは完全に立ち止まってしまった。視界のうしろへ、有希の姿が置いていかれてしまう。
 ガーティスはすぐに止まって、シュリアのほうへ向き直った。
『いったい、なにがどうしたと言うのです』
『わたしは、ギレーキの言うとおり、無能な、ただのお飾りの王女でしかないのよ。あなたは特務隊だったから、その責任感でずっとわたしについてきてくれたんだろうけど……。もう、いいの。こんなわたしのせいで、あなたが迷惑を受けてしまうなんて理不尽すぎる。だからわたしは、これ以上逃げるなんてできない』
 シュリアはうつむいて、話を続ける。
『見たくないの。あなたがわたしのせいで苦しむのは。わたしには、あなたを苦しめていい権利なんかないのに……』
 シュリアの声はだんだん小さくなり、最後には消え果ててしまった。場が急に、静かになる。木々が風にざわめく音だけが、耳に届いてくる。
 ガーティスはしばらく、黙っていた。視線をあちこちにさまよわせながらも、口をなかなか開かない。かけるべき言葉を、探しているのか。
『ご自分のことを、無能だなんて言うのは、やめてください』
 やがて、ガーティスは声の調子を抑えて、口を開いた。
『確かに、今までの王はみんな能力がありました。その意味では、あいつらの言い分も外れてはいないのかもしれません。でも、それがなんだって言うんですかっ! 王家の人間として果たすべき責務――それを果たすのに、能力は関係ありませんっ』
『……やっぱり』
 シュリアが、ゆっくりと顔をあげた。
 そこにあったのは、悲しみと怒りがない交ぜになった表情だった。
『あなたはいつもそう。口を開ければ、王家の責任だ責務だ、って。それしか言わない。わたしが無能な時点で、みんなはわたしを王としては認めないし、だから責任だって果たせるわけがないんだから。あなたがどれだけ頑張ってくれても、わたしがこんなだから……どうにもならないのよ!』
 そして、シュリアは身を翻して、林のなかへ走っていってしまった。
 完全に、ガーティスは不意を突かれた。あとを追えない。
『シュリア様!』
 呼びかけても、もちろん止まってくれはしない。あっという間に、シュリア――有希の姿は木々の奥に見えなくなってしまった。
 ガーティスはただ呆然と、消えていった林を見つめる。頭上では、カラスが間の抜けた声で鳴いていた。それがやけに、心の不安を掻きたてさせる。
「お、おい。追わないのかよ?」
『ん、あ、ああ……』
 亮介に言われて、ガーティスはようやく足を動かした。道路を降りて、林に分け入る。
 話の背景が、さっぱり見えてこなかった。王女様とガーティスがケンカしたのはわかる。でも、その前のギレーキとの会話の意味がわからないから、そのケンカの原因がちっともわからない。
「なあ。お前らは言いたくなかったのかもしれないけど……。こんなことになった以上、なにも言わないってのはナシだと思うけどな」
 思いのほか、声にいらだちが出てしまった。亮介は頬の裏を噛んで、反省する。
『特に、隠したかったわけじゃ、ない。ただ、シュリア様の前でこんな話をするのは、御気分を害されるから……』
「ああ、べつに責めてるわけじゃないんだ。言いたくないことのひとつやふたつ、あったっておかしくないんだから。ましてや俺たちは、事故で偶然同居することになった、行きずりの関係みたいなもんだし」
『……すまない』
 なんだか、場の空気が重い。このままずぶずぶと沈んでしまいそうな気さえしてくる。鬱蒼と葉を繁らせた林の薄暗さが、さらにその雰囲気に輪をかけている。
「じゃあ訊くけど。まず、統合≠チてなんだ?」
 なるべく明るく聞こえるように、亮介は言った。
『ひとつの体にふたつの精神が入っているとき、よりスムースな体の制御・行動のために、ふたつの精神をひとつにまとめることができるんだ。ただこれは、ふたり分の大きさをひとり分にするというだけのことではなくて、人格の統合をも伴うものだから、普通はやらない』
「人格の統合って?」
『簡単に言えば、統合していくほうの人がこの世からいなくなる、ということだ』
 なるほど。そりゃあやらないだろう。
「でもなんだって、そんなことができるんだよ。お前らは。もともとふたり分入れること自体が、異常なことなんだろ」
『異常ではあるが、メリットもあるしな。ふたりがそれぞれ持ってた能力ソフトを、ひとりで持てるんだ。体内における処理速度も速まるし。統合≠ノついては、現在、初等教育の段階で教えられている。ああもちろん、精神統合が一般常識として確立したのは、統合したものを元通りに切り離す方法の存在がわかってからだぞ。ただ、だからといって、人格を一時的にでも失くすことの恐さは変わらないがな。みんな恐いから結局やらないし』
 ガーティスは一気にまくしたててくれたけど、亮介には話の半分も飲みこめなかった。ガーティスの普段生きている世界ってのがわからないから、それに基づいて説明されてもちんぷんかんぷんだ。
 突っこんで訊いてもたぶん理解できそうにないので、とりあえず次の質問に進む。
「じゃあ次。さっき散々言ってた、能力≠チて、なんだ?」
 その問いに、ガーティスは答えなかった。前方斜め下をベースに、左右に激しく焦点を揺らしている。
「べつに、言いたくないんならそれでいいけど……。先に、違う質問をするから。クーデターを起こされなければならなかった≠チて、どういう意味だ?」
 なおも、言葉は返ってこない。ガーティスは立ち止まって左右を見やり、シュリアの行った方向の見当をつける。
 右手奥のほうへ、足を向けた。依然として、木々の深さは変わらない。
 やっぱりまだ、言いたくないのか。
 亮介はあきらめて、前にいるはずの有希のうしろ姿を探すことに集中しようと、視界に意識を傾けた。
『そのふたつは、ひとつの線で繋がっている』
 と、ようやくそこで、ガーティスは口を開いた。
『さっきは、シュリア様が御気分を害されるから、と言ったが、このことは私にとってもかなり気が重いことなんだ。だから』
「言えないってわけ、か」
 先を予測して、亮介は言葉を継ぐ。
 しかし、その予測ははずれた。
『いや、このことは亮介にも言っておかなければならない。むしろ、こうなるまで言わなかったことを責められても仕方がないくらいで……』
「そんな責めるとか、そういうことはしないけどさ。さっきも言ったけど、言いたくないことぐらい誰でもあるんだから」
 重要なのはこれまでの経緯じゃなくて、いまそれを教えてくれることだ。
 ガーティスは短く感謝の言葉を言ったあと、ニ、三度咳払いをして、それから静かに、話を始めた。
『少し長くなるが、まず国の体制について話をする。最初に私が名乗ったときのことを憶えているか?』
「あ、ああ」
『あのとき、私が言った国名は、どうだ?』
 亮介は記憶を巻き戻す。会ったのは三日前のことだ。神社の裏から山のなかに入って、そこで……
「確か、ウィレールの前になにかついてたよな。よく、憶えてないけど」
『祖導ウィレール王国、だ。祖導≠ニは、自分たちの先祖によって国が導かれている、という意味なんだが、このことにさっきの質問の答えがあるんだ。これから、それについて話をする。……先祖によって導かれている、というのは、なにかの例えや抽象ではない。本当に、導かれているんだ』
「導くって、どういうことだよ」
 ガーティスは、具体的に言う前に抽象的なことを言うことが多い気がする。おかげで話を理解するのに、ワンテンポ遅れてしまう。
『それを説明するには、まず我々の習慣や思想について話さないといけない。――我々が近代になってから、体を取り替えるようになった、ということは話したな? そうなると、普通はそこから体と精神は別のものだ、という精神独立の考えが発生してくることになるんだろうが……我々は近代以前から、体と精神は別のものだということを知っていた』
「はあ」
『ある一族に、そういう分離≠フ能力があったからだ。自分の精神と体を分離する能力。分離して、精神だけで世界に留まれる能力。近代に入ってからはさらに、統合した精神を元に戻す分離≠烽ナきるとわかった。その一族というのが、王族なんだ。むしろ、その能力があったから、王族として国を治められたと言うほうが正しい』
「じゃあ、さっきの能力≠チて、それのことか?」
『ああ。そしてシュリア様は、その能力を事故で喪失してしまっているんだ』
 喪失。
 ガーティスはさらりと言ったが、その単語は亮介の心に鋭く突き刺さった。失うことは、それ自体が恐怖を呼び起こす。
『ウィレールの王族は、自分の精神を自力で分離して外に留まり、その状態で祖霊の託宣を受けることができる。祖霊というのは、過去に国を治めていた王族たちで――生前、精神体だけの状態になることのできた方々だから、死してもなお、意識体として存在し続けられるらしい。そして意識体になると、星を取り巻く運命の流れが、見える≠轤オい。……このあたりのことは、歴代の王族が語ってきたことで、私が実際に御尊霊を拝見させていただいたわけではないからよくわからないのだが……。それでも、その導きに従って、これまでなんとかうまくやってきたのは確かだから、私は歴代の国王陛下が仰られてきたことは、すべて真実だと信じている』
 長い説明を、一息にガーティスは喋りきった。口のなかに唾が溜まりすぎたらしく、足もとにそれを吐き捨てる。
 霊魂とか託宣とか、そういうオカルトなことは亮介はあまり信じていないのだが、ガーティスの言うことを疑う気は起きなかった。そもそも、こんな宇宙人と体を共有してること自体が、ほとんどオカルトみたいなものだし。
 むしろそれより、亮介はあることに気になった。
「運命が見える≠チてんならさ、なんで、クーデターを防げなかったんだよ?」
『……わからない』
 答えたガーティスの声は、地の底から引っぱり上げてきたような声だった。
『それこそが、やつらにしてみれば自分たちの行動の正当性を主張する根拠になっているんだ。歴史を顧みれば、ウィレールはすべての危機を順当に回避してきたわけではないから、御尊霊にも、わかることとわからないことがあるのだ、と私は思う――』
 最後は自信なさそうに、ガーティスは声をすぼめた。これ以上この話題を続けると、また勝手にひとりで落ちこんでしまいそうだ。亮介は話題を切り替えようとする。
「まあ、能力のことはなんとなくわかったよ、いまので。それじゃあ、クーデターを起こされうんぬん、っていうのは――」
『それは』
 こっちの質問を積極的に遮ったわりに、ガーティスはなかなか次の言葉を継がなかった。また、目の焦点がせわしなくさまよう。有希の影は、まだ見えない。木漏れ日が地面に、白い模様を描いている。
 十秒も走って、それからようやく、口を開いた。
『宇宙交流時代を迎えてから、ウィレールには王制・貴族制の廃止を唱える人々がぐっと増えた。と言っても、私の曽祖父が子供のころの話だけども。特にどういう階層や職業にそういう人間が集中していたということはない。貴族のなかにも王制は民主的でないと言う人がいたし、一般星民においては王制を支持する人のほうが多い。ただ、宙軍だけは例外だった。他の星のことに触れる機会が多いから、そういう思想の影響を受けた人間が、他より多くなったんだと思う』
「それで?」
『ことの発端は、シュリア様が六歳のときのことだ。初めて公式の場で精神を分離をさせ、正式な王家の一族として認められるという、そういう儀式があるんだが、そこでシュリア様は分離のさなかに、留守だった体のほうを廃王派に襲われた』
「それが、事件?」
『そうだ。戻る場所を失いかけるという恐怖を味わったシュリア様は、そのことが元で能力の一切を喪失してしまった。すると廃王派が、王女は王族たらん資格を持っておらず、このまま無資格者が国政を執る事態となるのはおかしい、と言い出して……。それが彼らの言う、クーデターを起こされなければならなかった≠ニいうところの意味だ』
 ようするに、国のシステムを変えたかった人たちが、自分たちで事件を起こして、その結果起こった幸運に乗っかったってことらしい。でも、事件以降にその人たちが言ってることだけを聞くと、どことなく納得できてしまうところがある。
「で、でも、原因を自分たちで作ったことは別として、国王になるには、その、託宣を受けられる力が要るんじゃないのか? だからそいつらの言うことも一理」
『国王としての責務を果たすのに、能力は関係ないっ!』
 ガーティスに激しく怒鳴られ、亮介は自分の精神がすくみあがったように感じた。
『託宣はもう、あくまで補助的な機能にすぎないんだ。それを政治の中心にしていた時代なんて、ずっと大昔のことだ。だから、そんな能力なんかなくたって、国を治めることはできる! できるんだ。なのに――』
「もういい、いいから。俺が悪かったよ。わかってもないくせに相手の肩持つようなこと言って」
 そうだ。託宣がなくても国を治められるなら、力はなくても構わない。ガーティスは宮廷にいたんだから、おそらく政治の実情を普通の人より詳しく知っているんだろう。
 でも、だとすると。
「それじゃあ、なんで王女さんは走って逃げたりまでするんだよ」
『それは――』

     *

『ガーティスは、わたしがこんなのであるにもかかわらず、まだ王家としての責任を果たせると思ってるの。でも、王家の責任っていうのは、能力があってはじめて果たせるものだから――能力のない人間を人々は王族だと認めないし、王家が王家であることを示すものは、能力以外にはないんだから。それがないわたしには、いくら言われてもどうすることもできないのよ』
 林の奥深くで、シュリアはすでに歩いていた。
 繁る枝葉に覆われて、あたりはどことなく薄暗い。葉の間からこぼれて地面に映る陽光が、やけにまぶしい。シュリアは目を細める。あたりに立ちこめるこの星独特の匂いが、鼻の奥を刺激する。これが植物の匂いなのだと思うと、なかなか感慨深い。
 こんなときでなければ、もっとこの植生を堪能できるのに。ウィレールのどこにも、これほどまとまって植物があるところはない。体の自由をもらうときはいつも逃げているときだから、こんなふうに植物の群れのなかを歩くことなんてできなかった。
 したいと思っていたことをようやくできたわけだけど――シュリアの心はもちろん、晴れやかになったりしない。
 有希は黙っている。いまちょうど、能力のことについてひと通り説明をしたところだ。なにか言葉を返してくれてもいいのに、なにも言ってこない。
 その沈黙が、いまのシュリアには堪える。
 なんでもいいから、なにか喋ってほしい。なにか喋って、自分の口を塞いでほしい。でないと、心のなかで行き場を求めているものが、膨れ上がって外へ弾け出してしまいそうだから――
「でも、ガーティスさんのこと、嫌いじゃないんでしょ?」
 そこでようやく、有希がなにかを喋ってくれた。
 けれどその内容は、シュリアの予測とは大きくはずれていた。シュリアはまごつく。
『あ、当たり前じゃない。ガーティスは、なにかと蔑まれることの多いわたしに、ずっとよくしてくれてきたんだから。たぶん、お兄さんのことがあるからだと思うけど……』
「お兄さん?」
「え、ああ。言ってなかったわね』
 訊き返されて、シュリアはそのことに思い当たった。一度に多くのことを説明したために、なにを言ったか自分でも混乱してしまっていたらしい。
『わたしが襲われたとき、ガーティスのお兄さんはわたしの警備担当だったの。でも襲撃を防げなかったことで責任を問われて、離宮に飛ばされてしまった。そのあたりのことをガーティスは気にして、それで……』
 ガーティスは、お兄さんの失敗の償いのために、わたしに尽くしてくれているだけなんだ――シュリアはそう考えていた。
 でも、それを思えば思うほど、シュリアの胸はいつもなぜか苦しくなっていく。いまも、そうだ。なんでそうなってしまうのか。いつも、そうなるたびに考えるのだけれど、シュリアにはさっぱりわからない。
 そして、わからないと思い知らされるたびに、いらだちが募っていく。いらだって、ガーティスにたしなめられるようなことをわざと言ってしまう。
 でも、今回のことは完璧にトドメだろう。たしなめられる程度じゃおそらくすまない。
『これでガーティスも、わたしに愛想が尽きたでしょうね。痛いところを突かれたからって、あんなに簡単に逃げちゃったんだから』
 シュリアは、自分をメチャクチャにしてしまいたい衝動に駆られていた。
 問題に対して、面と向き合う勇気のない自分。
 ガーティスの気持ちを知りながら、逃げだしてしまう自分。
 それを変えなきゃいけないって、わかっている。何年も前から。ずっと前から。ガーティスと出会う前から。――変えなきゃ、って思っている。
 でも、そこまでわかっていても、シュリアのなかの結論が変わることはなかった。
 能力がなければ、王家としての責任なんか果たせない。だから、たとえ立ち向かっても結局ムダに終わる。
 どうしてウィレールは、ここまで王制を保ってこれたのか。それはひとえに、能力≠フおかげだ。能力のおかげで人々は危機を避け、平穏な暮らしを続けられた。そして人々は、能力によってそれをもたらしてくれた国王を支持した。
 なら、能力を持たない王族は――どうなる? どう思われる?
 そんな国王を支持する人々というのが、シュリアにはまったく想像できない。
 この年になるまで約十年。自分なりに努力はしてみた。冥想室を設けてそこに一ヶ月篭ってみたり、わざと二心状態にして体が空っぽににならないようにしたうえで試みてみたり。怪しい薬もいくつか飲んだし、怪しい寝具も取り寄せてみたりした。
 どれも、なんの効果もなかった。能力は戻ってこなかった。
 あきらめの悪いことは、ときに不幸な結果しかもたらさない。シュリアがこれまで生きてきて得た、最大の教訓だ。ガーティスも自分の意識改革をあきらめなかったから、理不尽にも追われる身になってしまったのだ。教訓は、いつも真実からはずれない。
「それはわからないよ。これで愛想が尽きるかどうかなんて。あなたたちにしてみれば、ほんとに遠いところまで来たんでしょう? この星まで来るのに。だったら、もうガーティスさんは覚悟を決めてると思う」
 有希の声で、シュリアの意識は引き戻された。
『覚悟、って?』
「これぐらいのことは、予想の範囲内なんじゃないか、ってこと。能力がないと責任を果たせないって考えも、こんなふうに逃げることも、全部見透かされてると思うよ」
 シュリアはその言葉に対して、答えられなかった。
 ガーティスがそこまで、すべて自分のことをわかったうえで、それでもなお、こんな自分のことをなんとかしようとしてくれているのだとしたら。
 シュリアは恥ずかしい気持ちになって、そしてすぐに怖くなった。自分の幼さと、ガーティスがそこまで自分にしてくれているかもしれない、ということに。
 自分はガーティスの覚悟を、舐めていたということなのか。ガーティスのほうをまったく向かず、自分の思いこみだけでガーティスのことを決めてかかっていたということか。
「まあいろいろ、あなたにもまわりからのプレッシャーとか、そういうものがあったと思うよ。それが苦しい気持ちは、わかるけどね。……わたしもね、まわりの期待に苦しんだときがあるんだ。わたしね、ひとりっ子だから、親の期待っていうのが集中してくるの。もちろん、親は口では好きなことをやらせてあげたい≠チて言ってくれるけど、なんていうか、そのうしろにある隠された期待っていうか――そういうものが見えちゃうんだ」
 足もとから、くしゃっという乾いた音がした。枯れ葉を踏んだ音だ。
「それにわたし、なまじ勉強ができたから、みんなから優等生に見られることもあって……それが辛かった。まわりの思い描くわたし≠ニ、わたしが自分で思っているわたし≠ニが、ずれちゃってるんだよね。だから、いまのあなたの気持ち、わたしにはわかる。みんなのわたし≠ノなろうとして、でもどうしてもなれなくて、そのうち、本当のわたしはそうじゃない、こうなんだ――って叫びたくなっちゃうんだよね」
 そういうことなんだろうか、とシュリアは思う。自分のやってることは、そういうことなのか。
 みんなの期待する王族になろう、という気持ちは、たぶんまだ心の深い奥底でくすぶっていると思う。能力が戻ってきてくれるなら、それはすごく嬉しいことだ。
 けど、そうでなく、能力≠フない自分――この自分そのものを見て評価してほしい、という気持ちもある。でも誰も、そういう見かたはしてくれない。能力なしの、ただ飾ってあるだけの王女か、不幸な事故で能力を失ったかわいそうな王女か――どちらかの見かたをする人間しか、自分のまわりにはいない。
 ただひとり、ガーティスを除いて。
 ガーティスは同情もしないし、無能だとも言わない。自分そのものを見てくれているからこそ、能力がなくても王族の責務を果たせるのだと言えるんだろう。
 そんなガーティスに対して、自分のしたことといえば。
 勝手に拗ねて、勝手に逃げてきただけじゃないか。
 なんて、無様なんだろう。
『謝らなきゃ、だめかな』
 ぽつりと、口からそんな言葉が漏れた。
「うぅん。やっぱりこの場合、そうすべきよね」
『……うん』
 そうだ。謝らなきゃいけない。いますぐ取って返って、これから頑張って責務を果たすから、と言えばいい。
 でも、本当に能力なしで、責務を果たせるんだろうか?
 能力がなければ、王家の責任なんて果たせない。その答えは、この十年の苦痛とともに、しっかりとした重みを持って自分の心に居座っている。
 ガーティスの気持ちには応えたい。でもこの答えも、自分にとってはずっと思い知らされてきた真実なのだ。
 ふたつの反する想い。どちらの想いも、シュリアのなかでは真実だった。
『わからないよ。わたし、どうしたらいいか、どうしたら……』
 頭のなかがぐちゃぐちゃになっていく。自然と、足が止まった。シュリアはその場でしゃがみこんでしまう。
「誰だって、答えは知らないんだよ。間違ってるかどうかさえ、だいぶあとになってからじゃないとわからないことも多いんだから。だからさ、とりあえず先に行こ――」
 有希の声が、中途半端に途切れた。
 もちろん、シュリアももうその理由に気づいている。
 林の奥。木々の重なり合っているところ。そこに、見慣れすぎたライトグリーンの人間がいた。
「――――ッ!」
 有希が悲鳴をあげる。
 シュリアはもちろん立ち上がって、すぐに体をターンさせた。自分には戦闘能力がない。早くガーティスのところへ行かないと――
 走りだそうとしたそのとき、目の前にあった細い木の幹が爆ぜた。シュリアの足が止まる。視界の端には、光の残像が残っている。自分の目では球の飛来を見切れない。このまま飛びだしたら避けられない。
 瞬時に、シュリアは手近な幹の裏へ身を隠した。
「ねえ! 早く、早く逃げないと! 捕まっちゃう!」
 必死な声で、有希が叫ぶ。
 そうだ。ここにいても一時的な球避けしかできない。でも出たら当たる。出なかったら捕まる。
『そんなこと言ったって、言ったって――』
 幹からそっと、顔を出して様子を見る。敵はシュリアの予想をはるかに超えて、すぐ近くまでやって来ていた。
 いやだ。捕まるのはいやだ。当たったほうがまだいい。
 考えるままに、シュリアは斜め前の木の裏へ移動しようとした。
 左足のすぐ横の地面が、くぐもった音とともに噴き上がった。掘り返された土が足にかかる。
 下半身に、力が入らなくなってしまった。へなへなとお尻を地面につけてしまう。
 敵はもう走るのをやめている。追い詰めるのを愉しんでいるのか、手に棒を持って、ゆっくりゆっくり、こっちに迫ってきている。シュリアはお尻をつけたままあとずさる。
 背中が、なにかに当たった。
 うしろを見ないでもなにかわかった。背中に感じる、このざらっとした感触は、この星の植物の表面のものだ。
 とうとう、敵はあと五歩ほどのところまでやって来た。興奮しているのか、笑顔が震えている。
 そいつが、大上段に棒を構えた。
 シュリアは目をつぶる。
 心のなかで、たったひとりの名前を呼びながら。
 ――ガーティス……!
 そして――頭のすぐ近くで、ものすごい音がした。

     *

「間にあったか?」
 叫びながら、亮介は目を凝らして林の奥を見つめる。
 敵は吹っ飛んで、木の幹に体を激突させていた。運よく当たってくれたらしい。ガーティスはさらにそこへ、第二撃を投げつける。今度は大きくはずれて、敵の上の枝をこそぎ落としただけだった。
 敵はしこたま体をぶつけたらしく、まだ立ち上がれないでいる。ガーティスは一気に林を駆け抜ける。手にはいつのまにか、七色に光る棒が握られている。
 勢いを殺さず、ガーティスは敵に躍りかかった。
 しかし相手も、不利な体勢ながらそれをなんとか受け止める。ガーティスはそこから力押しの勝負に出た。こうなると、倒れたままの相手には、どうすることもできない。
 ガーティスは相手の棒を撥ね上げ、続けて自分の棒を切り返した。
 鳩尾に一撃、叩きこむ。
 相手は瞳の色をぐるんと回して、それっきりぐったりとなった。
『まだ仲間が近くにいるかもしれません。ここを離れましょう』
 ガーティスはそう言って、まだへたりこんでいたシュリアを立たせると、さらに林の奥へと走りだした。

 十五分ぐらい走ったころ、林は唐突に切れた。目の前を左右に、片側一車線ずつある道路が貫いている。
 道路の向こう側には、公園があった。たいして広いものではなく、隣にある家の影に全体の三分の一が覆われている。遊具はジャングルジムと滑り台、それから砂場しかない。
 ガーティスがまわりをきょろきょろと見渡す。同じような造りの家が建ち並んでいる。閑静な宅街といったところか。昼下がりの、赤みを帯び始めた光に照らされて、家々はどこか幻想的な雰囲気を纏っている。この道に車が来る気配が、まったくしない。
 やがてガーティスは、林と道路の境に渡されている低い鉄柵を越えた。改めて左右を確認したあと、車道を突っ切って公園に入る。
 公園を進んでいくと、右手の奥にベンチがあった。ベンチの真ん前には大きな木が植えられて、道路からは死角になっている。ガーティスはそのベンチに向かう。
 ヒザが、ベンチの端に触れた。うしろの足音も、連れて止まる。
 しかし、ガーティスは座ろうとしなかった。その場でじっと、立ち止まっている。
 お互い、口を開かない。沈黙が続く。言いたいことは山ほどあるはずなのに、ふたりとも、なにも言おうとしない。
 シュリアはきっと、ガーティスの背中を見つめているだろう。ガーティスもその視線は感じているはずだ。お互いがお互いを、激しく意識し合っている。
 だけど、なにも言わない。
 風が吹いた。枝葉がざわざわと揺れている。いま初めて、あの道路を車が通った。それも一瞬のことで、また、静かになる。
 しばらくして、ようやく、シュリアが口を開いた。
『あ、あの……えっ、と……』
 けれど、なかなかちゃんとした言葉にならない。
『その、あ、わたしね……』
『シュリア様』
 最後まで言われるのを待たず、ガーティスはシュリアの言葉を打ち切った。そのまま振り返る。景色が流れる。
 そして――冷たく乾いた音がした。
「なっ」
 亮介は自分の目を疑う。
 ガーティスは、シュリアを平手で打ったのだ。
『言いわけなど聞きたくありません。いいですか、こんな、どこから狙われるかわからない状況で、勝手に飛びだしてしまうなんて、ご自分がどういう御立場にあるのか、わかってらっしゃるんですか』
「あの、一応これ、わたしの体だから。あんまり叩くとかそういうのは」
 興奮するガーティスに、有希がおそるおそる頼みこむ。
『あ……すまない』
 言われて初めて、ガーティスはそのことに気づいたらしい。まったく、とんでもないことをしてくれる。一応、王女様を叩くつもりでも、手加減はしてると思うけど。
 打たれたシュリアは、頬を押さえてながら鋭くこっちを睨みつけている。その目は潤んで、そこからいくつもの涙の筋が頬を伝う。あとからあとから、涙は尽きない。
 ガーティスも、その目を見つめ返す。
 そのまま数分、ふたりはお互いを見据え続けた。
『……わかってないのは、そっちのほうじゃない……っ』
 やがて、ギリギリで聞こえるぐらいの小さな声でシュリアはそう言って、そこで目線を切った。
 身を翻して、木のうしろに回ってしまう。
 ガーティスは息を漏らすと、ようやく目線を正面から動かした。それから、ベンチに腰掛けようとする。
 ――視界が、急に狭まった。
 同時に、全身の力が抜けて、勢いよくベンチに尻が落ちる。勢いは止まらず、体はさらに下にずり落ちそうになる。
 ガーティスは両手をベンチについて、なんとかそれを押し留めた。
「おい、いまの――」
『なに、さっきから戦闘が続いたから……休んでいればなんとかなる……』
 亮介の心配に、途切れ途切れの息でガーティスは答える。
「なんとか、って」
 いままでそんなこと、一度もなかったのに。さっきよりももっと戦闘が続いたときだってあったけど、なにもなかったし。でもじゃあ、これは。
『いいから。気にしなくて。本当に大丈夫だ』
 気丈にそう言っているが、明らかに様子が尋常ではない。
 おそらく、溜まった疲れがピークに達したんだろう。激しく動き回る場面は、全部ガーティスがやっている。体は共有物だからともかくとして、戦闘時の緊張が長いこと続けば、精神のほうが疲れてくるのは当たり前だ。
「なんなら、今日の見張り、俺だけでやろうか?」
『だから、気にしなくていいって。この程度のこと、心配されるようなことではないから』
「……わかったよ。そんなに言うんだったら気にしないでおいてやる」
 根負けして、亮介はそう言った。ガーティスは頑なだ。使命に一途だから、自分のことなんてまったく省みていない。それに、こっちの精神のことを信用してもないから、余計に自分がやらなきゃ、って気になってるんだろう。
 ……そもそも、ガーティス自身がだいじょうぶだって言ってるんだ。自分の体のことなんだから、わかってないはずなんてない。そうだ。きっとそうだ。これは本当に、なんてことないことなんだ。
『このこと……くれぐれも、シュリア様には言わないでくれよ』
 ガーティスが、そんなことを念押ししてくる。
「ああ。いいよ」
 亮介がそう返事をすると、すぐに、目に映る公園の景色が歪んだ。あいまいになった意識が不思議な力に引っぱられて、宙に浮かんでいる感覚にとらわれる。
 気がつくと、手のひらに冷たいベンチの感触があった。さっきまで箱のなかから覗いていた景色が、いまは確かな近さをもって目の前にある。
 目の前の木には、シュリアが体を預けている。その肩が舟を漕いでいるのが見えた。眠ってしまったらしい。
 こうなると、見張るほうも意識を引き締めないといけない。起こしてから逃げるのは、余計に時間がかかるんだから。より早く敵に気づかないといけない。
「なんか、王女さん寝ちゃ――」
 そのあたりのことをガーティスに確認しようとして、亮介は異変に気づいた。
 ガーティスが、もう眠っているのだ。さっき入れ替わったばかりだというのに。
「まじかよ……」
 そこまで、疲れていたらしい。
 でも、しっかり寝て休めば、本人の言うとおりまた普通に動き回れるはずだ。心配することはない。ガーティスはここまで、何光年か知らないけど逃げてきた経験があるんだから。自分の現状を間違えたりするわけがない。
 ただ、いまここに敵がきたら、ちょっとまずいだろうけど。
 亮介は手を腹の上で重ね、唇をきつく引き結んだ。自分にはただ祈ることしかできない。
 目に力をこめて、まっすぐ前を見つめる。そうすれば、なんだかこの祈りの力が増すような気がした。なんの根拠もないけれど。
 木の裏で座っているシュリアは、相変わらず首を大きく揺り動かしている。落ちそうで落ちない微妙さが、見ていて面白い。
わかってないのは、そっちのほうじゃない
 ふいに、さっきの言葉が亮介の脳裏に甦った。
 王女様がわかってほしかったものは、さっきガーティスから話を聞かされたから、なんとなくわかる。それは自分の気持ち――自分がなんで逃げたりなんかしたのか、その気持ちをわかってほしいんだと思う。
 でも亮介には、それに同情する気は起きなかった。だって王女様は、能力のないことを理由にして、問題から目をそらしているだけじゃないかと、思うからだ。
 つまり、逃げているだけ。向き合うのが怖いから、逃げているだけ。
 そこまで考えて、ハッ、と亮介は顔を上げた。体の芯が勝手に震えだす。両手で自分を抱いてみても、震えはさらに激しくなるばかりだ。
 怖いから、逃げる。
 同じじゃないか。王女様のやってることは。この自分の弱い心と。同じだ。
 自分はビビりだ。失敗するのが怖いから、失敗しそうなことからほとんど逃げてきた。
 王女様はたぶん、何度も失敗したんだろう。その結果、失敗に疲れて、向き合おうとする気力をなくしたんだ。
 このまま、自分も逃げ続けていったら、いつか立ち向かおうとする意思そのものがなくなってしまって、王女様のように、なるんだろうか。
 そんな人間には、なりたくない。
 だれど、このまま行けば……自分は確実にそうなってしまう。
 ――どうすれば、どうすればいいんだよ、どうすれば……
 亮介の頭のなかを、焦りの言葉が跳ね回った。跳ね回るだけで、そいつらは答えを連れてこはない。
 震えは、しばらく収まらなかった。

     *

 ぽつねんと一本ぼっちで立っている蛍光灯は、連夜の虫の音楽祭をバックに、仕事場である公園をけなげに照らし続けていた。しかし、彼がいくら頑張っても、公園の隅にあるベンチは暗がりから解放されることはない。
 その暗がりのなかで、亮介は両手を天に突き出した。大きく、伸びをする。ガーティスほどじゃないが、亮介もかなり疲れを感じていた。ぶっ倒れる前に、ガーティスたちの支援者が来てくれればいいんだけど。
 さっき食べたばかりのクッキーバーの箱を、リュックのなかに押しこむ。山吹色の箱は押しつぶされて、荷物の隙間にすっぽり収まった。亮介は腕を組んで、視線を目の前の木の枝葉に送る。
 あのあと結局、亮介たちはそのまま公園で夜明かしすることになった。
 気を使うな、と言ったガーティスは、一度も起きてこない。起こすのもためらわれて、亮介はずっとひとりで見張りをしている。
 まぶたが重い。気を抜くとすぐにでも寝てしまいそうだ。亮介はまぶたをつねって、必死に眠気を散らそうとする。
 ふと、有希の寝顔が目に入った。木の裏にいる有希は、首から上だけを幹の影からはみ出させている。もう何日も有希の寝顔を見てきたけど、いまだに慣れない。あまりに無防備すぎるその顔に触れたくなる欲情を、毎日なんとか、抑えつけている。
 けれど、今日はそういう欲情は起きなかった。
 自分はやがて、この寝顔を壊してしまうのだ。護りきれなくて。心が弱いせいで。
 心が強くなれば、強くする方法さえわかれば、有希のことを護ってやれる。そばにいられる。ずっと、強くなりたいって、思ってきた。強くなりさえすれば、自分は有希のそばにいてもいいんだって、思ってきた。
 だけど、その方法が、わからない。
 亮介の口から、ため息が漏れた。息はお腹の上で重ねた手にかかって、冷たい強張りを和らげる。
 そのとき、物音がした。
 亮介は身を引きつらせて、全身の神経を音のしたほうへ集中させる。まさか敵が来たのか。いま来られたらかなりヤバい。どこだ、どこにいる――
「……清水くん、のほうなの?」
 その声とともに、寝袋の影が横に膨らんだ。
「なんだ。脅かすなよ」
 物音の正体を知って、亮介は緊張を解く。額にかいた、いやな汗を袖で拭う。
「ごめん。なんだか寝つけなくて」
「こいつらに、何回も寝入りっぱなを起こされたりしたしなぁ。それで、寝つきにくくなってるんじゃないか」
「そうかも」
 納得したのか、有希はそう答えた。もっとも、いまの亮介は眠くてキツい状況なのだが。充分疲れていれば、寝つきの悪さは関係なくなるらしい。
「王女様は? 寝てるの?」
「うん。あっちはこういうの、慣れてるのかもしれない」
 有希が体勢を、完全にこちらに正した。闇のなかで、黒目がちの瞳がまっすぐ自分を見ているのが、かすかにわかる。
 気恥ずかしくなって、亮介は目をそらした。
「なんだか、あのふたり抜きで話すの、ひさしぶりだね」
 さらに有希が言ったひとことに、亮介の心臓はきっちり反応した。顔がかあっと、熱くなってくる。
 考えてみれば、こうしてふたりだけで話をするのは、あの夕方以来だ。あのときもうまく話せないで、家まで行ってしまったんだっけ。
 なにを話したらいいのかわからないのは、その時とまったく変わっていない。頭のなかに候補が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。どんな話をすれば、有希は喜んでくれるんだろう。
「それにしても、どう?」
 候補が纏まらないうちに、有希のほうから話しかけてきた。
「どうって、なにが」
「いや、ね。いきなり宇宙人とか出てきて、こんなことに巻きこまれて――どう思ってるのかな、って」
 改めてそう言われてみると、最初に感じていた怒りはもうなくなっていた。現実離れした展開のラッシュに、頭がついていけなくなってしまったのかもしれない。
 ただ、いまは、怖さだけが心を占めている。
 けれど、それを有希に言うわけにはいかない。だから亮介は、当たり障りのないことを口にした。
「宇宙人だなんて、いくらなんでも現実離れしすぎてるよな。三日前までただの高校生だったのに」
 ようやくさっきの恥ずかしさも収まって、亮介は有希に向き直る。暗くて顔がはっきり見えないこともありがたい。
「うん。わたしも、まだこれって夢なんじゃないか、って、思ってる。遠い星から来た、追われてるお姫様とか、そういうところがすごくお話っぽいし。でもこれって、現実なんだよね。聞いたことのない星から来た宇宙人も、追われてることも、こんなところで寝てることも、戦ってることも」
 有希の声が、途中から硬いものになった。戦いのことを考えると、自分が死んでしまうかもしれないということを、無視できないからだろう。
 どうしてこんなことになってしまったのか。死ぬとか殺されるとか、そんな現実とは自分たちは無縁だったはずなのに。
 いっそこれが、夢だったらどんなにいいだろう。
 でも、これは現実だ。まだ動かすと痛みが走る左手も、ずっと好きだった幼なじみと一緒に行動していることも、その幼なじみを自分の弱さのせいで危険にさらしてしまっていることも、すべて現実だ。
 ふと視線を落とすと、寝袋の端が見えた。
 ほんのすぐそばに、話を聞いてくれる誰か≠ェいる。自分の話に、必ず耳を傾けてくれる人。たったふたりぼっちの夜だから、自分に手を差し伸べてくれる人。でも喋ったら、頼りないやつだと思われてしまうだろうか。嫌われてしまうだろうか。でも、でも――
「俺さ、戦ってるときすごく、怖いんだ」
 気がつくと、亮介の口から言葉が漏れてしまっていた。一度漏れだしたものは、なかなか止まらない。
「当たったらすごく痛いってのが、この左手のせいでわかったし。それだけじゃなくて
、なんか、相手の気迫が怖いんだ。倒してやるっ、潰してやるっみたいな敵意を向けてきてるのがビシビシ伝わってきて……」
「でもそれは、ガーティスさんだって同じでしょ? 相手がどうなってでも、自分の護りたい人を護る。自分の目的を果たしたい、って思ってるんだよ。人を傷つけるのは確かによくないけどさ、ガーティスさんは目的のためならなんでもするんだ、って覚悟を持ってるんだと、思う」
 有希のまなざしが、亮介の体を貫く。
 それは、つまり、自分にもその覚悟を持てと、有希は要求してるのか。
「そりゃあ、あいつはプロの護衛だから持ってるかもしれないけどさ。こっちはただの高校生なんだぜ。しかも、人より臆病だし。……このまま怖がってばっかりじゃ、みんなに迷惑をかけちゃうってのはわかってる。わかってるけど、それでも俺、怖くて、逃げたくて――このままじゃ俺、絶対に早瀬のことを」
 その先の言葉はなんとか、口から出る寸前で止めた。本人の前で、絶対死ぬとか言えるわけがない。
 そこでお互い、会話が途切れた。また音楽祭の演奏が、耳に届くようになる。フィナーレまでまだ数時間もあるパーティは、一層の盛り上がりを見せている。
 風が頬に当たった。十月の夜風は冷たい。亮介は制服のボタンをもう一個かける。
 お互い、なにも喋らない。
 行き場のないいらだちに駆られて、亮介は自分の足を自分で踏みつける。
 そのときだった。
「ねえ。憶えてる?」
 突然、有希がそんな問いかけをしてきた。
「なにを?」
 亮介の言葉に答えず、有希は寝袋から抜け出して、すっと立ち上がった。
「……隣、座っていい?」
 亮介の体温が、一瞬で頂点に達した。そんな、近くに来られるなんて。もうずっと何年もないことなのに、いきなりそんな。
「あ、ああ……い、い、いいよ」
 しどろもどろになりながら、なんとか亮介は答える。
 有希はベンチの端に、遠慮がちな動きで腰かけた。それを見て慌てて、亮介は逆の端に寄る。微妙な距離が、お互いの間に開く。
 亮介は有希のほうを向けない。さっきまでは陰のなかだったからまだ見れたけど、この近さと明るさじゃ有希の顔が全部見えてしまう。
 もちろん見たい気持ちはある。っていうか見たい。ずっと見ていたい。でもじろじろ見たら変に思われるかもしれないし、それに心のほうがドキドキに耐えられ続けない。
「昔、公園でさ……場所のことでケンカになったこと、あったじゃない」
 そんな、亮介の葛藤に気づく様子もなく、有希はおだやかな声で話し始めた。
「そ、それって、いつごろのこと?」
 訊きながら、すでに見当はついている。自分がしたケンカは、それだけしかない。
「小学校に入ったばっかり、ぐらいだと思う」
 有希の返答で、それは確定した。
「あ、ああ。憶えてるよ」
 おびえながら、亮介は答える。なんでいまさら、有希は負けた話を聞かせようとするんだろう。まさか、お前は生まれたときから弱かったんだから、悩まずさっさとあきらめろ≠ネんて言いだすんじゃ。
「高学年の男の子たちが、あとから割りこんできたんだよね。わたしたち、まだぜんぜん小さかったから、勝てるわけがなくて。子供だったから、その時はまだ自分の感情とかよくわかってなかったんだけど……いまから考えると、あの時わたし、すごく悔しいって思ってた」
 有希の声は、どこか遠くの出来事を幼い子供に語って聞かせているような感じだった。
「でもね。そのとき、清水くんが言ったの。ここは先に俺たちが使ってたんだ、って。結局、ケンカになって、思いっきり負けちゃったんだけど。でも、意外だった。わたしそのときまで、亮介っておとなしい子だと思ってたから」
「ばっ――」
 喋ろうとしたが、口が回らなかった。
 体じゅうに、変な汗がいっぱい出ている。夜風が寒い。頭のなかで、わけのわからない言葉がいっぱい飛んでいる。
 それでもなんとか、亮介は口を開こうとする。
「こ、ここ、子供のころじゃないんだから、そんな、し、下の名前で呼ぶなよ。……恥ずか、しいし」
 最後のほうは声が小さくなってしまった。
「ご、ごめん。昔の気持ちに重ね合わせちゃってたら、つい……」
 有希の声も、尻すぼみにトーンが落ちる。
 亮介は制服の上着の胸前を摘まんで、パタパタさせた。熱くて熱くてたまらない。
 いまさら、期待を抱かせるような物言いはやめてほしいのに。有希はずるい。叶わない恋は早くあきらめなきゃいけないのに、そんなアメを落とすなんて。
「だいたい、そ、そんな昔のこと、いまさら持ちだして……なんなんだよ」
 気持ちを打ち消すように、亮介は有希に突っこみ返した。
「それは――清水くんは、ホントは立ち向かえる人間だってことだよ。わたし、ずっと憶えてたんだから。いま話したこと。だから、清水くんの心が原因で危ない、とか言われたときだって反論したし、清水くんのせいで死んだらどうするって聞かれたときも、そんなことあるわけないって思ってたから、答えられなかった」
「え? あ、あれは、俺に遠慮して、言いにくそうにしてたんじゃ……」
 驚いて、亮介は思わず――恥ずかしさも忘れて、有希のほうを見てしまった。有希はううん、と首を横に振る。
 それから顔を、亮介のほうへまっすぐ、向けた。
「だから、もっと自分のこと、信じてあげて」
 目が合う。丸い瞳が、暗さのなかで浮かび上がって、輝いているように見える。心臓から鼓動があふれて、指の先まで脈打ってる気がする。必死に抑えてきたものが、外に向かって暴れだそうとしている。こんなこと言われたら、勢いづくのは当たり前だ。
 有希に触りたい。あのやわらかそうな体を抱きしめてみたい。抱きしめて、有希が自分の耳もとで吐息とともに漏らす動揺の声を、聞いてみたい。
 亮介は、ポケットに突っこんでいた左手を出そうとした。
「――ッ」
 ひりつくような痛みが走った。
 それをきっかけに、わきあがっていた感情が波のようにさあっと引いていく。
 替わりに黒い陰が、心を覆いだした。
 有希が持ちだしてきたケンカの結末がどういうものだったか。亮介ははっきり憶えている。それは、好きな子の前でプライドをずたずたにされた記憶だ。
 自分が初めて、失ってしまうということの意味を、知ったときの記憶だ。
 やらなきゃよかったと何度も思って、けれど取り返しのつかないこともあるのだと、思い知った日の記憶だ。
 そう、あれは、立ち向かうことの、踏みだすことの、挑むことの――恐ろしさ、怖さ、たまらなさ、取り返しのつかなさ。それらを自分に刻みつけてくれた出来事だ。
清水くんは、ほんとは立ち向かえる人間だってことだよ
 違う。
 あのころの自分は幼すぎて、怖い≠ニいうことを知らなかっただけなんだ。ただ、好きな子にいいところを見せたかっただけの、バカで愚かな子供だったんだ。
 それなのに、有希はあのときのことを持ちだして、こんな自分のことを信じている。
 だけど、その気持ちに応えられなくて、それどころか、迷惑をかけた≠カゃすまないことになってしまったら。……自分は、なんて言えばいいんだろう。
 いつか必ず、有希は自分に失望する。あとになればなるほど期待は大きく膨らんでいって、その失望は大きくなるだろう。
 それなら、いっそ。
「そんな昔のこと持ちだしてきてもさ、人間、歳を取れば変わっていくもんじゃねえか。あれから、十年たったんだぜ。十年前の俺といまの俺が、同じなわけないだろ? あのころは確かにそうだったのかもしれないけど。でも、いまはそうじゃないんだよ。……あいつらに入られたときだって、俺、あんなにビビってわめいてたんだし」
「違う」
 強い調子で、有希は亮介の言葉を否定した。
「亮介は弱くなんかない。入られたときだって、あきらめるのが早すぎるわたしに代わってひとこと言ってくれただけじゃない。それにもし、亮介の言うとおり、あのころといまがホントに違うって言うんなら……それは亮介が持ってる強さ≠ノ、違うものが積もっているだけ。だって、あのとき上級生を睨んでた目つき、いまでもときどき、してるじゃない」
 有希は気持ちが高ぶっているのか、また、名前で呼んでしまっている。
「おい、また名前――」
 有希は、首を左右に振った。
「いいの。わざとだから。あのころといまが変わりすぎた、って言うんなら、変わってしまったものをすこしずつ戻していけばいいんだよ。だから、名前で呼ぶことにする。だいたい、わたしのなかにある気持ちは、十年間、すこしも変わってないんだから」
 そう言って、有希は頬を緩めた。
 自分にだけ向けられた好きな人の微笑み。さっきよりも、さらに強烈なエサが亮介の心に投げこまれる。
 にもかかわらず、心はさっきのように燃え盛らなかった。
「そんなのは……名前で呼ぶのは、お前の好きなやつのために取っとけよ。もったいないだろ」
 冷たい心から出てくるのは、ぞんざいな口調の言葉だけ。
「そ……そうだ、ね」
 有希は、ぎこちなく言葉を発して、それっきり、うつむいてしまった。やはり有希には、好きな男がいるらしい。高校生なんだから、いてもおかしくないけれど。それでも、かすかにあった希望が完全に絶たれてしまったことを、意識しないわけにはいかない。
 まあでも、そんなことはとっくの昔に覚悟していたことだ。ショックもない。いま考えなきゃいけないことは、ほかにある。
「違うものが積もっているだけだとして、その積もっているものが、取り除けないぐらい厚かったら? 結局、同じことだろ。今度はそれが、新しい本当の心になっていくんだ。清水亮介って人間も違う人間に変わっていく。いつまでも古い層のときのことを信じてるなんて、そんなの、意味がないよ」
 自分でも信じられないくらいの、冷たい皮肉が口から飛びだした。亮介は自分の言ったことに驚いて、口を真一文字に閉じる。
 有希はなにも言ってこない。ただ手を膝の上に置いて、じっと耐えているように見える。
 見ているのがつらくて、亮介も視線を正面に戻した。これで完璧に、嫌われただろう。それを考えると、正直落ちこんでくる。
 それでもこの先、より大きな失望を与えてしまうよりは、ここで嫌いになってくれたほうがまだマシだと、亮介には思えた。
 ただそれは、理屈として納得しただけだ。気持ちのほうは、自分で自分を殴りたい衝動であふれかえっている。
 有希は、自分のことを信じてくれていたのに。その気持ちを裏切って、さらにはあんな皮肉まで。
 最低だ。自分は。ビビりのうえに、人の気持ちまで踏みにじるなんて。生きている価値もない。
「でも、その層だって掘り返すことはできるじゃない。確かに新しい層が積もれば違う人間になるのかもしれない。でも、それで古い層がなくなるわけじゃないでしょ? だから――」
 有希はまだ、そんなことを言ってくれる。
 しかし、その言葉を素直に受け止める余裕は、もう亮介になかった。
「もういいよ。どれだけ言ってくれても、俺は変わらない。昔の俺が、仮に早瀬の言うとおりだったとしても――そのころに戻ったりなんか、できるわけがない。時間は、戻らないんだから。……もう寝なよ。明日も早いんだから」
 そして亮介はベンチの端に寄って、体ごと有希からそむける。
 しばらく有希は動かなかったが、やがて立ち上がって、寝袋に戻っていった。
 自分に対する怒りと絶望が収まらないまま、亮介は朝までずっと、ベンチに座り続けた。
 虫の音楽祭は、明け方近くまで続けられた。

     *

 薄暗い空間に、いくつもの星が、光っていた。
 いや、星に見えたのは、計器についている無数のランプだった。正面、左右、斜め上……明るい緑や赤の星が、いくつかのかたまりになって輝いている。
 その星々に囲まれた中心に、一枚のモニターがあった。モニターに映っているのは、数字の列ばかり。その行数は多すぎて数えきれない。数字の列は数秒ごとに刻々と変化している。
 計器類の稼動する、小さなウーンという音だけが、空間に響いている。
 そこへ突然、空気の弾かれる音とともに、何者か入ってきた。足音と影から察するに、進入者はふたりいるようだ。
 背の低いほうが、モニターの前で立ち止まった。そして、モニターの下にあるスイッチを触る。
 画面が切り替わった。
 そこには、青い惑星が、映っていた。
 小さな星々が瞬いている宇宙をバックに、その全景をさらしている。バックの黒色とのコントラストで、惑星の青が余計にきわだって見える。それはまさに、吸いこまれてしまいそうなほど。
「この星か」
 その姿をじっと見つめていた、背の低いほうがつぶやいた。
「外部モニター越しの映像でも、この美しさ。なるほど、ここに逃げこんだのもうなずけるな」
「そうですかね」
 もうひとりの、背の高いほうが、その意見に疑問を呈する。
「この程度の青色惑星、珍しくありませんよ。イグン=ヨーム星系の第三惑星とたいして変わらないじゃないですか。あそこだって海洋星ですし」
「まあそれはそうだが……お前は、この星を見てなにも感じないのか?」
「はあ。特になにも」
 背の高いほうは、低いほうを見下すように息を吐いた。
「言葉ではうまく言えないが――この星を見ていると、なんだか強い力を感じるというか。希望とか、生命力とか、そういう感じの……もどかしい、当てはまる言葉が浮かばん。ともかく、そういうものを含んでいるが故の美しさみたいなものを、おれは感じるんだ」
「よくわかりませんが……まあ、綺麗な範疇に入る星だということは、私にもわかります」
 そのまま、ふたりはしばしモニターを見つめ続ける。
 カメラはわずかずつ、青い星に近づいているようだった。星は両極に白い冠を抱き、その間には濃い青の海と赤茶けた大地、白い雲をたなびかせている。
「それにしても、ここまで長かったな」
「そうですね。こんなところまで来ることになるとは思いませんでしたよ。よくも、これほどの道のりを逃げられたものだと」
「まったくだ。それも、こんな星に――」
 言って、背の低いほうは改めてモニターに食い入る。
 緩やかに、青い星は回る。何者の意思にも影響されない高貴さと、見る者を魅了する優雅さを漂わせながら。
「ところで一応、確認しておくが、もう返信はしたのだな?」
「はい」
「……そろそろ、着陸に備えよう。惑星表面に直に着陸するなんてやったことないからな」
 そしてまた、モニターの画面が元に戻る。
 ほどなくして、彼らは退室していった。
 艦橋の小さな宇宙は、これから起こることをなにも、知らなかった。


第五章

 夜の風に、砂ぼこりが巻き上げられている。月の光にそれはさらされ、砂金のようにキラキラと光っている。
 それを気にすることなく、ガーティスはじっと、青黒い空を見上げている。
 郊外の採石場に、亮介たちはいた。
 というのも、今朝、救難信号の返信が届いたのだ。返信の内容は、今夜にも地球に着陸できる、というものだった。
 亮介は、心の底からほっとした。これでやっと、もとの平穏な生活に戻れると思うと、嬉しすぎて叫びたいぐらいの気分だった。
 ガーティスも有希も、とにかく大騒ぎした。あんまり騒ぎすぎて、近くの家のおじいさんに窓から怒鳴られてしまった。
 ただシュリアだけは、複雑な表情をしていたけれど。
 支援者はさらに、宇宙船を着陸させるために、広くて人気のないところの確保を求めてきたので、すぐにコンビニでこのあたりの地図を調べた。
 そして見つけた、山中の採石場で、こうして待っているわけなのだ。
 ガーティスは立ちっぱなしで、ずっと空を見ている。会ったときのことを考えて、すでに精神は入れ替えてあった。
 満月が、いよいよ南天に迫ろうとしている。採石場は、静かだった。街の喧騒は遥かに遠く、風に石が転がる音と森のみみずく、それに虫の声だけしか聞こえてこない。やかましい生活に慣れた亮介は、その静寂に不安を感じずにはいられない。
「……遅い、な」
 怖くなって、ガーティスに話しかける。ガーティスはなにも返さない。
 そうやってしばらく待ち続けて、やがて。
 空の色が、変わった。紺青の夜空はみるみる陰って、真っ黒に変貌していく。はっきりと瞬間的に変わったわけじゃない。ただ、ずっと見ていれば、色が濃くなっていくのがわかる。そんな変わりかた。
『来た』
 ガーティスが短く、けれど喜びに満ちた声で言った。
「えっ? どこ、どこだよ?」
『船は肉眼では見えないようにしてあるんだ。光の屈折率を変えて、な。この星を混乱させるわけにはいかないし』
 なにかすごい技術を使って、見えなくしているらしい。あまりにぶっ飛んだ話すぎて、亮介にはよくわからなかった。
 だんだん、空がうねってくる。吹きつける風が強くなってくる。ガーティスはじっと、そのうねりの中心を凝視している。
 うしろで座っていたシュリアも、ようやく立って横に並んできた。
『シュリア様』
 興奮を隠さず、ガーティスは声をかける。が、シュリアなにも答えなかった。
 空気のうねりはだんだん下に移り、最後には地上にまで達した。そして達すると同時に、風が収まる。
 なにもない宙に、光の線が走る。空間を長方形に切り取り、その長方形が前に倒れてくる。倒れてできた間から、光があふれてくる。
 完全に扉が開くと、そこにはふたりの人間が立っていた。ふたりとも、朱色の体をしていた。
『ゾイ! あなただったの』
 いままで反応の乏しかったシュリアが、初めて声をあげる。
『ええ。遅くなりました。シュリア様』
 ゾイと呼ばれた背の高いほうが、できたばかりの階段を降りてくる。出会ったときのガーティスたちやギレーキと同じく、彼らも二メートルを越えている。
『しかしまさか、本当に現地人の体にお入りになられていたとは。おいたわしい……』
 ゾイは、シュリアの――有希の頭に手を触れようとした。自分たちを見下した物言いに、亮介はムッとくる。
「再会のあいさつもほどほどにしとけよ。見つかるとまずいだろ」
 そう亮介が毒づくと、ゾイのうしろにいた背の低い――といっても亮介よりかなり高い――男が、顔をはっきりと顰めた。
『なんだ、現地人の声か? なんと言ってるのか知らんが、下品な声だな』
『あ、その、早くしないと見つかるんじゃないかと心配してくれたのですよ。それに彼はウィレール語は話せませんが聞いて理解することはできますよ』
『そんなことはどうでもいい。低級な民族には、傷つけるに値する品格などないだろうが。この星の環境は保護するに値するがな』
 汚らしいものを見る目つきで、こっちを見ている。なんだこいつは。
『話はそれぐらいにして、早くやることをやりましょう。本当に宙軍が来たら大変だしね』
 亮介がまたなにか言ってやろうとした寸前、気を利かせてくれたのか、シュリアがそううながしてくれた。朱色のふたりは顔を見合わせ、それからうなずき合う。
『わかりました。それではガーティスから先になかへ』
 ゾイに言われるまま、ガーティスは足を踏みだした。入口を見据えながら、近づいていく。やっとこれで、平和な生活に戻れる――
 そのとき、鈍い音がした。
 しなるもので、なにかを打ち据えた音。
『シュリア様!』
 ガーティスは振り返る。しかし、なにもかも遅すぎた。
 シュリアはぐったりとなっていて、グリーンのひとりに抱えられていた。そのまわりにさらに数人、敵がいる。いつの間にこんな近くに迫っていたのか。グリーンたちは有希の額に、亮介の腕ぐらいありそうな太いチューブをつけようとしている。
 ガーティスは手に棒を作りながら、そいつらに飛びかかろうとした。
『慌てるなガーティス。動くと、姫様の安全は保障しないぞ』
 そこへさらに、暗がりから見覚えのある影が現れた。満面の笑みを浮かべながら、こっちに歩いてくる。体のダークブルーの色が、月光の下、徐々にあらわになる。
『ギレーキ、お前、なぜ……』
 ガーティスは、声を震わせながら問いただす。
 視界の端で、なにかが怪しく輝いた。有希の額に当てられているチューブの吸い口だ。光はそこからするすると滑らかに、チューブのなかを移動していく。
『なぜ? もう気づいているくせに』
 ギレーキの視線がガーティスの背後を示す。ガーティスもあとを追って目線を向ける。
 そこにはもちろん、朱色のふたりがいた。
『悪く思わないでくれ、なんてことは言わない。誰がどう見てもこれは裏切りだものな』
 ゾイはこっちを見つめ、はっきりとした口調で言った。
『ただ、これだけは知っておいて欲しい。私は王家のこともシュリア様のことも、嫌いだったわけじゃないんだ。時流が少しでも違えば、そちら側にいたかもしれない。ただ、私には、先祖が築きあげてきたタフィーツ家を絶やしても構わないという選択が……できなかった。国の政治形態《かたち》が変わっても、一族は絶えることなく続いていけるんだから』
『そもそもお前さんは、世渡りがヘタすぎるんだ。時流を見ればあの時点で、どっちが勝つか明らかだったろうに。忠義と信念なんてものに惑わされるからそうなるんだ』
 ゾイの隣の男が、さらにそうつけ加える。
 ガーティスは、なにも言い返さない。いますぐこいつら全員ぶちのめしてほしいのに、なにも言わない。こんなことをしておいて、そのくせ自分は悪くない≠ネんてことを言うなんて。ふざけてるにもほどがある。一秒でも早く、こいつらを殴りたい。
『お。そろそろいいみたいだな』
 場違いに明るいギレーキの声で、ガーティスはまた視線を戻した。
 ギレーキの手には、鉄のカタマリが下げられていた。剥きだしの冷たい鋼色をしていて、縦に長い炊飯ジャーのようなかたちだ。真ん中からやや上に、半球のランプがふたつある。有希の体は、ギレーキの足もとに倒されている。
『まあこうして、お姫様は拘束されてしまいました、というわけだ。どうだガーティス。おれの演出は』
『演出、だと?』
『そうだ。希望の絶頂から、絶望の底へ落とされる。最高だろ? このために昨日はわざと見逃してやったんだからな。くくく……』
 ギレーキはあの、不快な笑いをこぼした。
『あとは帰って、公開処刑という段取りなんだが……しかしあれだな。もしこのお姫様に能力があったら、こういう拘束の仕方はできなかったということを考えると、これもなかなか皮肉な結末だと』
『ギレーキ――っ!』
 相手のくどい喋りを吹き飛ばすように叫びながら、ガーティスはギレーキに踏みこんだ。
『せっかちだな。話は最後まで聞け』
 ギレーキはうしろにステップした。ガーティスの攻撃は空を斬る。両脇に控えていたギレーキの部下たちが、さっ、と目の前に立ちふさがった。
『このままお前を無視してウィレールに帰ってもいいんだがな。ただ、それじゃあこんなところまで来た意味がない。愉しいことがなにもない。そこでだ。おれとお前、一対一の勝負でケリをつけようじゃないか』
『なんだと?』
『お前が勝てばこの星から退いてやる。お姫様も返そう。――悪い話じゃないだろう? どのみちお前もウィレールを目指しているのだから、ここから出ても宙軍の網からは逃れられないしな。ここを退くぐらい、たいした損失じゃない。もっとも、二心状態で力の落ちたいまのお前がおれに勝つなんてことは、万にひとつもありえないだろうがな』
 ギレーキは余裕を隠そうともしない。ゆったりとした歩調で、宇宙船の横のスペースに出る。歩きながら、棒をすらりと出現させている。
『訓練学校のころから、おれがどれだけお前を恨んでいたか、知っているか? 貴族に媚も売らず、そのくせ成績優秀で生意気で――挙句はおれが入るはずだった特務隊のポストを横取りしやがった。おかげでおれは宙軍なんていう、煩わしい部隊に入るはめになったんだ。お前の存在は目障りなんだよ!』
 そして、構えを取った。武道の心得のない亮介から見てさえ隙がないとわかる、完璧な構え。
『勝手なことを……』
 ぎり、と自分の奥歯が鳴るのが聞こえる。ガーティスの怒りが、亮介の心にまで響いてくる。暴れ回っているのがわかる。
『亮介』
「なんだよ」
『これで最後だ。だから、頼むから、なにも考えないでくれ』
 一瞬、どう答えたらいいか、迷った。
「……わかった」
 それでもなんとか、そう返事をした。怖がるなと言われてもできないことは、自分でわかっている。でも、ガーティスが勝つ可能性が少しでもあるんなら、せめてやる気を削がせるようなことはやめよう、と思った。
 ガーティスが腰を落とし、構えを取る。正面から、ギレーキの鋭い視線が刺さってくる。
『お前にひとつ感謝することがあるとしたら、これだろうな。宙軍は実戦形式の訓練が多くてな。いまのおれの力は、おそらく普段のお前をも上回っているずだ』
 ガーティスはムダ口にいちいち反応しない。にじり寄るように間合いを詰めていく。
 世界が、ふたりだけの空間に閉じていく。
 木々のざわめきも虫の声も、なにもかもが遠ざかっていく。
『ガーティス、ここがお前の墓場だっ』
 お互い、ほぼ同時に跳躍した。二本の棒が閃き、ぶつかり合う。鮮やかな光の粒が散る。
 そのまま、押し合いになった。
『ぐっ……』
 ガーティスが、うめき声を漏らした。ず、ず、と少しずつ相手に押されていく。背中を反らしながら上半身を必死に揺すって、ガーティスはなんとか耐えきろうとする。ギレーキはどんどん上体を押しつけてくる。
 ついに耐えきれなくなって、ガーティスは左に跳んだ。顔の真横を相手の棒が通過する。
 ガーティスはさらにうしろに跳んだ。構えは解かない。
『逃げてもムダだ!』
 ギレーキは素早く追いついてくると、こっちの頭目がけて、上段から振り下ろしてきた。
 棒を寝かせて、ガーティスは受け止める。受け止めながら、さらにうしろに下がる。ギレーキも遅れず追ってきて、攻撃を繰りだしてくる。
 右肩を狙ってきた突きを、ガーティスは棒の下端で受け流した。顔面に向かってギレーキが切り返してくると、急いで腕を引き戻してそれを防ぐ。力勝負になりかけると、ガーティスは手もとの動きで相手の棒を撥ねのけ、うしろへ下がる。
 前に踏みだす余裕が、まったくない。ギレーキは圧倒的に強い。
 それでもなぜか、亮介は負ける予感がしなかった。ガーティスの動きにも、これまでで最高のものを感じているからだ。それに、あんなひどい裏切りを受けてそのうえ負けるだなんて――そんな悲惨な目にガーティスは会っちゃだめだ。こんなに頑張ってる人間が報われないなんて、あんまりじゃないか。
 ガーティスの後退が、なにかにぶつかって急に止まった。視界が横を向く。そこには、高い岩肌の絶壁がそびえ立っていた。追いこまれてしまった。
『やれやれ。失望したよ、ガーティス。お前なら、ハンデを乗り越えて、おれを愉しませてくれると思っていたんだがな。まあいい。ここで未開の星の塵になれ』
 ギレーキは舌でべろりと口のまわりを舐めると、顔を愉快そうに歪めたまま、大上段に構えを取った。
 そして、一気に振り下ろしてきた。
 ガーティスは体勢を低くすると、一瞬の隙をついて相手の膝へ横薙ぎの一撃を放った。ギレーキは跳び上がって、それをかわす。
 降ろしている最中に跳んだ結果、ギレーキの攻撃は自分たちの頭の上にはずれてくれた。岩肌は細かく削れ、ぱらぱらと小石になって落ちてくる。
 着地に若干失敗したギレーキをよそに、ガーティスは斜め前に跳んだ。
 もちろんギレーキもすぐに立ち上がって、追いかけてくる。
『そうだ、それでこそだ! それぐらいやってくれれば、俺ももっと愉しめ――』
『うるさい。少しは黙れっ』
 ガーティスは開《ひら》けたほうへ、さらに後退する。しかし後退と前進では速さに差があるため、すぐに追いつかれてしまう。
 ギレーキの体が突然、視界から消えた。
 いや、身を沈めて、こっちの足を払いにきたのだ。
 ガーティスは少しも慌てず、その場でジャンプした。そしてそこから、相手の側頭部に狙いを定めて、棒を打ち下ろした。ギレーキの頭はがら空きだった。
 しかし、ギレーキは頭を守りにいかなかった。それどころか、棒を切り返してこっちのわき腹を叩きにきている。それも、ほとんど同時に当たりそうなタイミングで。
 ガーティスは右手だけに棒を持ち替えると、手首を返してわき腹の前へ棒を伸ばした。そこへ相手の攻撃がぶつかる。
 片手だけで受け止めきれるものではなく、ガーティスは大きく吹っ飛ばされた。なんとか左手で、受身を取りにいく。
『ぎ……』
 ガーティスが苦しげに、うめき声を漏らした。やっとマシになってきていた左手が、これでたぶん、使い物にならなくなっただろう。
 それでも、痛がってるヒマなんてない。ガーティスはさっと立ち上がると、素早く構えを取った。結構な距離が、ギレーキとの間に開いている。かなり飛ばされてしまったのか。視界が細かく、上下に揺れている。
『お前は相打ちだと思ったのかもしれんが、いまのはお前のほうが少し早かったぞ。確かにあのままいけば、お前のアバラも砕けただろうがな。現地人の体の心配などするなんて、ぬるすぎるぞガーティス。くくく……』
 ギレーキの言葉に、亮介は、はっとさせられた。ガーティスはこの体を、なるべく傷つけまいとしながら、戦っていたのだ。
 向こうはきっと、予備の体ぐらい持ってるはずだ。ということは、防御にもかなりの意識を払わなきゃならないぶん、こっちが絶対的に不利になる。
 初めて、亮介の心に黒いものが差した。
 亮介は必死に振り払おうとする。いま弱気になったらだめだ。こんなところで迷惑なんかかけられない。絶対に、ガーティスは勝たなきゃいけないんだ。だいたいはじめから、この戦いは不利だってことはわかってたんだから。いまさらその要素がひとつ増えたってどうってことない。
 理屈がなんとか通ったせいか、津波のように迫っていた陰は勢いを失い、そこで引いていった。亮介はそれにほっとする。やっと、まわりの状況に気を配れる余裕ができる。
 風が、規則正しいリズムで吹いていた。相変わらず、視界は上下に揺れ――えっ?
 亮介は、ようやく異変に気づいた。
 ガーティスは激しく、顔が上下するほど喘いでいた。風と聞き間違えたのは、ガーティスの吐く息だったのだ。
「おい。お前、その息――」
 小声で、亮介は話しかける。
『案ずるな。すぐ終わる。終わらせてやるから……』
 そう言われても、心配しないわけにはいかない。
『頼むから、心配するな。私は、大丈夫だ』
 が、ガーティスが言い加えたそのひとことで、亮介はそれ以上声をかけられなくなった。
 心配する、なんていうマイナスなことを頭に浮かべてしまうと、それがとっかかりになって体に影響を与えるかもしれない。それをガーティスは危ぶんでいるのだ。
 結局、地球人で部外者な亮介にできることは、黙って信じること。それだけだった、
『だいぶ、疲れているようだな、ガーティスよ。そんな体では、さすがについてこれないか。お前は確かに、技量ではいまでもおれより上かもしれん。だがな、実戦でものをいうのは技術じゃない。思ったとおりの動きを続けるための体力だ』
 ギレーキは、緊張感が薄いのか、相変わらずよく喋る。普段の勤務からこんな感じなんだろうか。こいつの部下が哀れでならない。
 ガーティスはそんなくだらない喋りを無視して、再び相手に向かって駆けだした。
『ちっ』
 もっと話すつもりだったのか、ギレーキの対応はわずかに遅れた。胸に近いところで、こっちの攻撃を受け止める。
 勢いに任せて、ガーティスはさらに踏みこんでいく。
 まずは首へ。天を突くように。
 次は顔面を。大上段から振り下ろして。
 さらに腹を。小脇に棒を抱えて押しこむように。
 ガーティスが攻めるたびに、ギレーキはうしろへ下がっていく。もしかしたら、ガーティスは一気に勝負をつけるつもりかもしれない。やっぱり、さっきの息はヤバかったのか。
 と、下がり続けていた。ギレーキが、尻もちをついた。バランスを崩したらしい。初めて、こっちが見下ろすかたちになった。
 ガーティスは、ギレーキの胸を片足で踏みつけた。棒を逆手に持ち直し、狙いを、真下の顔に定める。
『ま、待て。もう勝負はついた。おれの負けだ。お姫様は解放してやる。な? だからもういいだろ?』
 ギレーキは、なんと命乞いをしてきた。自分の情けなさにしょちゅう呆れる亮介でさえ、その様子は見苦しすぎて吐き気がした。
『その、手に乗るか。お前の、性格は、よく知っている――』
 さっきよりもさらに息が苦しいのか、ガーティスは途切れ途切れに喋る。それでもなんとか、相手の喉に真っすぐ突き下ろすべく、手を目の高さにまで上げてきた。
 これで、終わる。もうこれで逃げなくてすむ。
 亮介の心は、すでにこのあとのことに関心が移っていた。
 が。
『が、ぐがは……が――』
 なにかが喉に詰まったような声を出したかと思うと、ガーティスは腕の力を抜いた。勢いもなく、棒はギレーキの喉に落とされる。
『げごっ』
 それでも、かなりダメージがあったらしい。ギレーキはガーティスの足から抜け出すと、喉を押さえてあたりを転げまわった。
『あ、ああ――くぐぐが――ぁ』
 しかしガーティスはそれをまったく見ず、顔を両手で覆いながらギレーキの声とは反対の方向へ走りだした。
「おい、どうしたんだよ? おい!」
 亮介の叫びにも、なにも反応しない。棒はいつの間にか消えている。
『ぎ、ぎ……がっ、あ――ん――』
 足がもつれて、前のめりに倒れてしまった。なんとか手をついて受け身はとったけれど、おかしな様子はいっこうに収まらない。
「おい! なんか言えよ!」
 不安になって、亮介は叫ぶ。せっかくあと一歩まできたってのに、こんなわけのわからないことでパーになるなんて、そんなことあってたまるか。
 再び襲いかかってきた黒い陰を、亮介は強い言葉で必死に追いやろうとする。しかしもはや、起こっていることの衝撃がきつすぎて、亮介の抵抗は風前のともしび同然だった。
「いったい、どうし――」
『亮……介』
 ようやく、ガーティスの口が開かれた。自分の名前だけだったが、その言いかたがひどく切迫したものだったので、なにも訊けなくなってしまう。
『いいか、よく聞け……これからお前が、戦うことになる……』
「は?」
 言っている意味が、よくわからない。戦うのはガーティスの役目で、自分は単なる体の持ち主のはずだ。
『無理が、たたった。ふたつも心があっては、容量オーバーするに、きまっているんだ……。だから……統合、する』
統合
 それがどういうことだったか。亮介ははっきり憶えていた。そして瞬時に、戦うことになる≠ニいう意味の真意を理解する。
「でもそれってお前、いなくなるんじゃ」
『私は、いいんだ。助けられ……る、なら』
「そんなこと言ったって――」
 ガーティスが、自分と統合する。統合とは、人格を統合すること。統合された人格は、ないものとなる。人格についていた、その人の記憶も経験も。
 それはつまるところ、このあとの戦いは、この清水亮介≠サのもので戦わなければならないということだ。
『攻撃は……精神の、力を物理、に転換して……行う。ただ、念ずれば、いい』
 ガーティスは、簡単なことだと言わんばかりに、言葉を絞りだしてくる。
 無理に、きまっている。自分にはできない。
「そんな……できるわけない。俺には、あいつに勝つだなんて」
 もう、心に降りた陰を払うことはできなかった。払う気力もわかなかった。まわりすべてを黒く塗られて、世界のすべてが恐怖でいっぱいになっていた。
 しかし、ガーティスは、怒るでもなく呆れるでもなく。
『頼んだ……』
 ただ、それだけを言い残して。
 いきなり、目の前が真っ白になった。意識がどんどん、うしろに飛ばされていく。光に包まれた世界は亮介を奥へと運び、その道中、自分のまわりに次々と赤紫色の小さな球が集まってくる。
 意識の境界が、溶けるようにあいまいになって、わからなくなっていく――
 ――殺気を感じて、亮介は反射的に飛び退いた。
 いままでいたところに、もうもうと土煙が上がっている。
 見れば、遠く向こうにいるギレーキが、なにかを投げ放った格好になっていた。左手はまだ、喉を押さえている。
 意識が表に、出てしまっていた。それも、いままでとは全然違う入れ替わりかたで。なにが起こったのか。考えなくてもわかってしまう。
 ただそれでも、どうしても認めたくなくて、亮介はガーティスに呼びかけようとした。
「お――」
 出かかった声を、慌てて閉じる。
 もしガーティスがいなくなったことがばれたら、相手に絶対つけこまれてしまう。たぶん勝てないとは思うけど、それでもできるところまで粘らないといけない。ガーティスから、あんな頼まれかたをされたんだから。
 亮介はまっすぐ、相手を見据えた。ギレーキもこっちを睨み返してきた。怖れなど微塵も含んでいない、強い眼光が刺さってくる。
 亮介は思わず一歩下がった。地面の感覚がまるでない。足の裏に力が入らないのだ。
 それでもなんとか、亮介は右の手のひらを天へ向ける。頭のなかに、棒のイメージを必死で浮かべる。
 ――出ろ、出てきやがれっ!
 すると、手のひらの真ん中で、光の輪が回り始めた。輪は回りながら、上へと昇っていく。昇りながら、輪と手の間に円柱型の光の膜を残していく。
 その長さが竹刀ほどにまで達したところで、筒の中身が壁からあふれてきた。瞬時に筒は詰まり、一本の棒になる。
 棒は見た目よりも重量感があった。そのかわり、表面は手に吸いついてくる感触があって、どれだけ振り回しても飛んでいかないようになっている。
 左手をおそるおそる、棒に添える。手首から先は動きはするものの、もうなんの感覚も残ってない。皮がめくれても皮膚が裂けても、たぶんわからないだろう。なんとか両手に持った体勢にして、亮介は構える。ガーティスの構えよりも相手側に倒して、軸先をまっすぐ相手に向ける。
『構えを変えたな。姑息な作戦でも浮かんだか?』
 ギレーキはまだ気づいていない。自分たちの間を風が吹き抜ける。月光のせいで青白くなった砂ぼこりが、ふわぁと舞い上がる。
『さっきのはなんだかわからんが……お前なりの意趣返しか? そんなにおれの演出≠ェ気に入らなかったか。相変わらず面白くないやつだ』
 もしこっちが勝てる可能性があるなら、それは統合がばれる前に勝負をつけられたときだけだろう。――それならば。
 亮介は構えたまま、相手に向かって飛びこんだ。
 狙いは、さっきダメージを受けた、首。
 しかしギレーキは、棒を傾けるだけでそれをを受け止めてしまった。棒のぶつかった感触はよくわからないけど、硬い感じはしなかった。
 勝負は、押し合いに移行する。体格差があるから、この勝負はこっちに絶対的に不利だ。常に上から押さえつけられる体勢になる。
「う……」
 上からの圧力に、亮介の背骨が悲鳴を上げた。支えている腰も足も、だんだんきつくなってくる。
 辛抱たまらず、亮介はその場に尻もちをついてしまった。
 ギレーキと、目が合う。亮介は瞬時に転がってそこから離れた。
 けれど、予感とは裏腹に、ギレーキは攻撃してこなかった。亮介の体を、舐めるように見てくるだけだ。不審に思いながらも、亮介は立ち上がって棒を構える。
『お前、現地人か?』
 ギレーキは、いともあっさりと崩壊の言葉を口にした。
 亮介は声をあげない。喋ればその時点で、向こうの疑問が解決してしまう。
『……答える気はない、か。まあ、喋れば声でわかるしな。だがな、ガーティスがあの程度のことで、腰を落としてしまうわけがないんだよ……!』
 ギレーキの凄みに、全身の肌が泡立った。しかし、ここで折れるわけにはいかない。亮介は手にに力をこめ、棒を強く握り締める。
『しかしなぁ。こんなところまで来てやったのに、最大の愉しみが勝手に統合するとは。まったく愚かだ。ふざけている。こんな星の人間と統合なんて――く……ふふふあはーっはっははははははは!』
 突然、ギレーキは気が触れたように笑いだした。
『お前にはお似合いだよガーティス! バカはやっぱり最期までバカなんだな。お姫様、聞いてますか? ガーティスはあなたのせいで死んだんですよ。あなたを助けようとして。あなたが無能でさえなければ死ななかったんですよ! ふははははははははは!』
 ギレーキは鉄のカタマリを指して、さらに高らかに笑う。
 亮介は体が震えるのを感じた。怖いからではなく、怒りで体が震えるのを。ガーティスがここまで言われる筋合いなんてない。あいつはただ自分の信じたことに一途で、そのために正しいと思う行動をしただけだ。他人が笑い飛ばせることじゃない。
「お前、日本語、わかるんだっけ?」
 なるべく低くなるように意識して、亮介は声を出した。
『なんだ未開人。お前たちは見逃してやってもいいんだぞ』
 ギレーキのその言葉が、甘い誘惑となって亮介に襲いかかってくる。この数日ずっと、平穏な日常が戻ってくることだけを願っていたんだから、その言葉に従わない道理はない。
 でも、このままじゃガーティスが浮かばれない。なにより、自分の気持ちもすっきりしない。ずっと、見捨てて逃げたっていう罪悪感が残り続ける。
 亮介はちらりと、有希を見た。有希はギレーキの部下たちに囲まれ、地面に横たえられている。
 ――ごめん。俺のせいでもう元の生活に戻れなくなるかもしれないけど……死なせたりなんか、しないから。
 心のなかで有希に謝って、それから、大きく息を吸った。
「さっきからごちゃごちゃうるせえんだよ。お前みたいな、人をバカにすることしかしてこなかったやつに、ガーティスを笑う資格なんてねぇんだよ。命を懸《か》けて行動したこともないくせに、偉そうにすんじゃねぇ」
 ギレーキの愉快そうだった表情が、一瞬にして消え失せる。
『ふん、そうか。そんなに死にたいのならさっさと殺してやる。お前も、そこに倒れている女もだ。ふたりぐらい殺しても、どうとでもごまかせるからな』
 そして、その目に力が篭められた。明確すぎる殺意が、亮介の全身にびりびり伝わってくる。ガーティスのことがなければ、いますぐ逃げだしたい気分だ。
 それでも、やらなきゃいけない。せめてやれるところまで、やらなきゃいけない。
 おぼつかない手で棒を握り、構えた。思考がギレーキ一色に染まっていく。見えているものだけしか、意識にのぼらない。
『どいつもこいつも、ふざけやがってぇ!』
 叫びながら、ギレーキが突っこんできた。ガーティスと戦っていたときと比べると、動きが大きい。勢いに任せている感じ。
 そんな突進でも、亮介にはかわすことができない。速さもそうだが、なにより、どこへ動いても攻撃が届いてきそうで、足を動かせないのだ。
 かろうじて、亮介は攻撃を受け止める。
 筋力は、ガーティスがいなくなっても変わらないから……ガーティスにできたことは、亮介にもできるはずだった。でも、あの勢いを紙一重でかわせるラインを判断する力はない。だから、ガーティスみたいに避けまくって相手の隙をうかがうなんてことはできない。
 攻撃を止められたギレーキは、しかし今度は押してこなかった。素早く腕出を引き戻し、すぐに棒を振り下ろしてきたのだ。最初は左肩、次は右わき腹、さらには脳天、太もも――全身のいたるところへ、棒がしなって飛んでくる。
 亮介の手は、亮介自身が思うより早く、棒をそこへ合わせていった。当たりたくない気持ちが、手を動かしてくれているのか。 ぶつかるごとに粒子が散って、闇に煌めく。
 ひとつ防ぐごとに、足がうしろに下がっていく。前に出なきゃ、踏みこまなきゃ勝てないってわかっているのに、足は下がり続けるだけばかりだ。
 ギレーキの体が、大きく見える。実物も大きいけど、それよりさらに大きく。こんな相手に向かって、逆に飛びこんでいったなんて。あいつはどれだけの覚悟で、ここに立っていたんだろう。
 左のこめかみを、相手の攻撃がかすめた。かすっただけなのに、えぐられたような激痛が起こる。
「う……」
 亮介は思わず体を縮みあげてしまった。バランスが崩れる。その隙を、ギレーキは見逃さない。
 左肩へ、鋭い一撃が襲いかかってきた。
 亮介は体を右へ投げだす。
 しかし、遅かった。最後まで元いた場所に残った左の足首が、爆発した。
「じ、ぎっ……」
 かゆいぐらいの痺れと痛みが、じわじわと広がっていく。亮介はとっさに左足首を押さえる。手がぬる、と滑った。血が出たらしい。裾が破れてボロボロになったズボンに、すごい勢いで染みが広がっていっている。
 こんなものにいちいち構ってたら、また攻撃を喰らってしまう。亮介はそこから手を離して、立ち上がろうとした。
 足が叫び声をあげて、それをいやがった。歯を食いしばってそれを無視する。右足だけに体重をかけて、亮介は棒を構える。
 こんな状態で構えたって、役には立たないかもしれない。それでも、こけおどしになってくれるのならそれでいい。
 左の頬を、なにかが流れていく。肩を持ちあげてそれを拭うと、やっぱり血だった。かすっただけだと思っていたこめかみは、ずっとずきずきと疼いている。もちろん左足も、鼓動と同じリズムで疼いている。
『威勢がよかったわりには、戦いかたが臆病だな。さっきの勢いはどうした?』
 ギレーキの言葉に、亮介のなかのなにかが反応する。
 臆病? 違う。確かに自分はずっとそうだったけど、いまはこうやって戦いの場に立ってられてるじゃないか。自分は臆病じゃない。違う。違う――
 気がつくと、亮介は駆けだしていた。
「わあああああああっ」
 体勢も気にせず、本当にただ突っこむだけの安易な攻撃だった。相手を欺こうとか、テクニックでなんとかしようとかいっさいなく、足の痛みも忘れて真っすぐに向かっていく。
 上段から、亮介は棒を叩きつけた。
 が、亮介にとっては渾身の一撃だったそれを、ギレーキは難なく受け止めた。ギレーキの胸のあたりで、粒子の花が咲き乱れる。
『弱いな。本当に同じ体か? まあ経験の差は、統合でも如何ともしがたいものなんだろうな。つくづくアレもバカな男だ』
 そしてギレーキは、棒を合わせたまま亮介の持ち手の近くまで滑らせながら、同時に自身も身を屈めた。
 そして、下から上へ、棒をすくい上げるように押しこんできた。
 よろよろと、亮介は後退する。左足に体重がかかって、また激痛が走った。急いで右足に体重を移し、倒れるのを堪える。
 できない。
 さっきと筋力は変わっていないけど、でもやっぱりガーティスみたいには戦えない。
 自分が、弱いせいだ。この心が弱いせいだ。
 ギレーキもいま言ったじゃないか。本当に同じ体か、って。体は同じでも心の強さが違えば、相手から見てさえ劇的に弱くなるのだ。
 亮介はもう、抑えようとは思わなかった。どころか、抑えるということ自体がどういうものだったか、忘れてしまった。体じゅうをいやな汗が流れていく。息が上がる。どれだけ息を吸ってもまともにならない。
 自分は、殺される。
『もう、いいか。あんまりお前、面白くないしな。ここらで終わりにするか』
 ギレーキは大きく息を吐くと、一段、握りを強くした。

     *

 シュリアは、一連の戦いをすべて見て、そして聞いていた。
 統合。人格の吸収、収束。それがどういうことか、いまさら、考えなくてもわかる。
 シュリアの頭のなかを、いろいろなことがよぎっていく。
 ――はじめて会ったときから、すごく真面目だった。崩していいよって言ったのに、ずっとガチガチだったんだもの。
 ――いつも、自分のそばにいてくれた。護衛のために、わたしの前に立ってくれて……。あの背中を見ると、なんでもできるような気になれた。
 ――わたしのこと、ちっとも見下した目で見なかった。飾り姫なんて陰口を言われるぐらいのわたしに、ただの一度も、そんな目をしなかった。
 ――けっこう、厳しいことも言われたっけ。わたしに真正面からなにか言い返してくれるのはガーティスだけだったし。
 とめどなくあふれて、想いは止まらない。もうガーティスは戻ってこないと思うと、あとからあとからわき出てくる。なんで、統合なんかしたんだ。ガーティスさえ生きていてくれたら、ほかにはなにも要らないのに。
 そこで、シュリアは気づいた。
 ガーティスが統合したのは、自分が能力を取り戻してもとに戻してくれると信じていたからなんじゃないか。それなら確かに、行動に納得できる。
 同時に、さっきよりも大きな悲しみが、シュリアの心を襲った。助けられるはずだった者を、助けられない。自分に力がないせいで。こんなときまで自分を信じてくれてた人を、助けられない。
 ――信じる?
 そうだ。ガーティスは最期まで自分を信じてくれたのだ。一度も、ガーティスの励ましにまともに応えようとしなかった、この自分を。
 その気持ちを、このまま闇に葬り去っていいんだろうか。
 いいわけがない。
 だから、やるしかない。
 もちろん自信なんて、これっぽっちもない。やりかただっておぼろげだ。だけど、ここまでガーティスがしてくれたのに、自分が努力もしないであきらめてしまうなんて。
 そんなの、許せない。
 信じてくれたんだから。ずっと、信じてくれてたんだから。
 ここで応えなきゃ、もう二度とチャンスはない。
 なにより。
 ――もう一度、会いたい。
 与えてもらうばっかりで、まだなんにも、自分はお返しをしていない。
 だから。
 ――――行こう。

     *

 下げた足のかかとが小さな段差に乗り上がって、亮介の心臓がビクンと跳ねた。うしろを、一瞬だけ振り返る。
 もう絶壁まで来てしまったのかと思ったのだが、まだいくぶん、距離があった。それでも、あそこに達するのは時間の問題だろう。
 なんの打開策もなく、亮介は徐々に絶壁へ追い詰められつつあった。反射神経だけで、かろうじて相手の攻撃を防いではいるが、反撃はまったくできないでいる。
 鼻先に、錆びに似た臭いがしている。拭っても垂れてくるもんだから、さっきからこめかみの傷はほったらかしにしている。
 足の痛みは、なんだかどうでもよくなっている。立って構えなきゃいけないってことばかり考えてるうちに、足のことなんて意識からなくなってしまった。
 息はずっと苦しい。どれだけ吸っても吸い足りない。少しでも気を抜くと、自分がいまなにをしているのかわからなくなりそうになる。
 殺されるのはわかっているのに、自分はなんだってこんなムダなことをしているんだろう。構えを取って、相手の攻撃を防いで――それがなんになるんだ? 自分はなんのために……
 背中にどすんと、衝撃が走った。とうとう、絶壁まで達してしまった。
『もっと泣き喚いてくれたりすると面白かったんだがなぁ。――つまらん』
 ギレーキは勝手なことを言っている。手で棒を弄びながら、タイミングを計っている。
 亮介の脳裏に、いろんな人への言葉が駆け巡った。
 ――父さん母さん。出来の悪い息子ですいませんでした。おまけに先に死んじゃって……。稲城。妬んで悪かった。かわいい彼女と幸せに暮らせよ。王女様とガーティス。あんまり役に立てなくて悪かったな。あの世で恨み言は聞くから。それから……有希。俺が弱いせいで死んじゃうけど……だめだ、どんなこと言ってもフォローにななんかならないよな。ごめ――
 そのとき、視界の端に、白い閃光が噴出した。
 幾筋もの光芒が、目の前を右から左へ貫いていく。
 そこへさらに、ギレーキの部下たちの怒声が加わる。驚きとパニックだけを主張する、言葉を成さない叫びだ。
『なんだ、騒々しい』
 いらだたしげに、ギレーキが振り返る。
 全員の視線が集中する先には、有希の体があった。
 そしてその体が――上半身を起こした。痛そうに首の裏筋を押さえて、顔を顰めている。
「有希!」
 亮介はそばに駆け寄ろうとして、すぐに自分の置かれていた状況を思い出した。ギレーキに激突する寸前に、なんとか体をもとへ戻す。
『ふん。現地人が起きただけでなにを騒いでるんだ。お前ら、早く片して』
『あ、そっか。亮介にしてみれば有希が気になるもんね。だいじょうぶ。気絶してるだけだから』
 その声は、有希ではなくシュリアのものだった。シュリアは首をこきこき回しながら、その場で立ち上がる。
『なっ』
 今度はギレーキが驚いて、動きを止めてしまった。呆然と有希の――シュリアのほうを見る。
『なんで、どうやって抜け出した?』
『どうやって? そんなの、言わなくてもわかるでしょ』
 毅然とした声で、シュリアは言う。
『しかし、そんな、能力が戻るはずは』
 うろたえているのか、ギレーキは言葉をうまく紡げない。
 もちろん、亮介にとってもシュリアの脱出は意外なことだった。あんなに逃避して、ガーティスとケンカまでしたのに。信じられない。
 でもそれより、いまは先に訊くべきことがあった。
「ほ、ほんとにだいじょうぶなのか? その……」
『ええ。有希の命に別状があったら、こんなふうに動けないから』
 シュリアは肩を左右交互に大きく動かして、体の万全をアピールしている。
『なぜだ! なぜ戻った? 十年も戻らなかったのに――おれたちをずっと、騙していたのかっ』
 ギレーキの大声が、採石場一帯に響き渡った。小刻みに、ギレーキの手は震えている。
『騙すメリットなんかないわ。本当にわたしは能力が使えなくて、たったいまそれが戻った。それだけよ』
『ふざけるなっ。こんなタイミングよく戻るなんて、ふざけている! お前ら、早くそいつを捕まえろ』
 ギレーキはシュリアをそいつ呼ばわりしながら、指で差した。もちろんシュリアもぼうっとしていたりはしない。グリーンたちのいないほうへ、瞬時に駆けだす。
 が、そこへ、物陰からふたり、新たなグリーンが現れた。行く手を阻まれたシュリアは、あえなく捕まってしまう。
『やめなさい! わたしを拘束したら、あなたたちの体に入るわよ。……二心状態なんて、なりたくないでしょう?』
 自分の手をうしろで抱えたグリーンふたりに向かって、シュリアはそんなことを言った。部下たちの目が、ギレーキのほうをうかがう。
『我々のうちの誰かに入ったら、その体の持ち主――現地人の女を殺しますよ。いざとなれば、現地人の女もろともあなたを殺すことも、我々にはできますしね』
『はじめから亮介たちは殺すつもりだったくせに、それを取り引きの材料にするの? それに、あなたにはわたしをここで殺せないでしょ。わたしをみんなの前で殺さないと、王制派の動きを沈静化させる効果とか、星民意識を急転させるための演出とか、できなくなるんだし。ましてやあなたの性格を考えたら。……あなたが特務隊に来なくて、本当によかったわ』
 もとのところへ、シュリアは引きずられて戻ってくる。抵抗こそしていないが、目は死んでいない。
『こうも見事に人を欺ける殿下に仕えなくて、こっちも運がよかったですよ』
 ギレーキの皮肉に、シュリアの顔はさらに力みを強める。
『だから、騙すメリットなんかないって言ってるじゃない! わたしは、ガーティスの言おうとしていたことに、やっと気づけたの。だから、戻った』
『はぁ?』
 ギレーキが、わからない、という声を出した。体の向きはこっちに向いているが、気持ちはすっかりあっちに飛んでいるみたいだ。
『わたしは気づいたのよ。ガーティスがわたしの復活を信じて統合したんだってことに。それでやっと、わかった。ガーティスがいつもなんで、能力はなくても王家の責務は果たせるって言えてたのか。――自分に向けられている信頼ってものに、人は応えなきゃいけないんだわ。王家が向けられている国民からの信頼。ガーティスがわたしに向けてきた信頼。どっちも、同じことなのよ。応えなきゃいけない、って意味で』
 淡々と、シュリアは語る。
『ガーティスはわたしが能力を取り戻すって信じて、そして亮介が勝つって信じて、統合したのよ。だからわたしたちは、それに応えなきゃいけない。もちろん、自主分離がうまくいったからって、肝心の統合分離もできるとは限らないけど……。でも、わたしにはできる。絶対に。――もちろん、亮介も勝てる』
 そしてシュリアは、亮介に向かって微笑みかけた。有希の顔でそういう表情を見せられると、本人じゃないとわかっていてもドキッとしてしまう。
 しかし、その動揺はすぐに亮介の胸から消えた。
自分に向けられている信頼ってものに、人は応えなきゃいけないんだわ
シュリアの言葉が耳の奥で繰り返されて、心のいたるところに響き渡っている。胸に深く、突き刺さっている。それどころか胸をえぐって、底に溜まっていたヘドロみたいなものも一緒にかき回している。
 どんなに自分ではだめだと思っても、信じて励ましてくれる人がいる。
 自分ではとっくにできないと思っていることでも、できると言ってくれる人がいる。
 王女様の場合はガーティスだった。ガーティスは王女様を信じて統合し、それを受け取った王女様は、それに応えたいと思った。
清水くんは、ほんとは立ち向かえる人間だってことだよ
亮介は臆病なんかじゃない
 有希の言葉。昨日の夜、有希は自分のことをわざと名前で呼んでまで、信じていることを伝えようとした。そのときに、言われたコトバ。
 あのころからずっと、そう思ってくれていたんなら。
 自分のどんなに情けないところを見ても、そう思ってくれていたんなら……
 ――なるほど。王女様の言うとおりりだ。
 これに応えなきゃ――俺は自分を許せない。
『くだらない。信じるだの応えるだの、精神論的な話を持ちだすだなんて。この宇宙時代に……くだらない』
 ギレーキは露骨にシュリアを軽蔑している。ギレーキの意識は、こっちに向いていない。
 迷いなく、亮介はそこへ飛びこんだ。
『なにっ――』
 明らかに、ギレーキの反応は遅れた。いままでで一番体に近いところで、こっちの棒を受け止めている。
 亮介はそこでさらに、足に力をこめた。相手を押すように、前へ、前へと出る。ギレーキの体はたいした抵抗感もなく、簡単にうしろに下がっていく。
 が、それも数歩だけのことだった。ギレーキの体が突然重くなって、ビクともしなくなってしまう。
 ギレーキと、目が合う。月明かりだけの薄闇のなか、目の光だけがはっきりと見える。
 亮介は、目をそらさない。そらせばその瞬間、一気につけこまれる。
 重ね合わせている互いの棒が震える。腕の、いや、全身の力のすべてを、お互いに一本の棒に注いでいる。左手がかゆくなってきたけど、それには構ってられない。
 と、先に、ギレーキが動いた。
 腕を体に引き戻し、うしろにステップする。
 相手が急に力を抜いたので、亮介はよろっと前のめりになってしまった。
 そこへ、ギレーキの棒が飛んでくる。狙いは、顔面。
 亮介は、首を左に傾けるだけで、それをかわした。ずっと相手から目を離してないので、攻撃してくるタイミングや、どの角度からどこを狙ってくるのか、ある程度わかる。
 右耳の近くで、髪が焦げる音がした。かすってしまったらしい。どうでもいいことだ。のめったことで体勢が低くなっているのをいいことに、亮介はそのまま相手の足もとへ払いの一撃を見舞いにいった。
 ギレーキは、またも軽やかにバックステップを刻む。亮介の棒が、ギレーキの前を通過していく。
 そこでギレーキは、体の勢いを反転させてきた。間合いを急激に詰め、亮介に迫る。
 横に跳んで、亮介はなんとかそれを避けた。素早く立ち上がって、棒を構えようとするが、その前にギレーキはもう迫ってきていた。肩口のあたりで、攻撃を防ぐ。対応が遅れたせいでかなり棒の根もとの位置で、受け止めてしまった。
「ぐ……ぎぎぎ」
 亮介は腕に力をこめ、押し返そうとする。口のなかに唾があふれてくる。
 ギレーキはどんどん体重をかけてくる。背中が悲鳴を上げ始めた。押し返そうにも、だんだん力が抜けてくる。
 なにか、手はないか――必死になって、この状況を切り抜けるための手段を考える。頭のなかには少しも、あきらめるという発想はない。
 ――さっき、急に引かれて、バランスを崩されて……だから……
 勝利を確信しているのか、ギレーキの目がすうっと、細められた。重みが、さらに増してくる。
 亮介は目線を切ると、自分の棒を肩口の奥に――背中のほうに、倒した。
『うっ』
 ギレーキの棒が、その傾きの上を滑っていく。同時にギレーキは、バランスを前に崩した。よろよろと足をよたらせて、前進してくる。
 亮介は、その足にタックルをかました。放課後、校庭でラグビー部が練習しているのを見たことがある。そのときのかすかな記憶を頼りに、足に喰らいついていく。
 ギレーキは、背中から地面に倒れた。完全に形成が逆転する。
 亮介はすかさず、相手の顔面を叩きにいった。
 ギレーキは左に転がって、それをかわす。亮介はさらに追いかける。今度は胸のあたり目がけて、棒をしならせた。
 が、胸に届く前に、ギレーキの足が立ち塞がった。足の裏に、棒はヒットする。
 ギレーキの顔が、歪んだ。戦闘用の体でも、直に当たるとやっぱり痛いんだろうか。
 そんなギレーキの表情に気を取られているうちに、亮介は右手をつかまれてしまった。しまった、と思ったときにはもう遅い。
 そのまま、巴投げの要領で、宙に投げ飛ばされた。
 受身も取れず、背中から地面に叩きつけられる。一瞬、息が止まる。投げられる前から息があがってたから、肺が尋常じゃない勢いで空気を求めだす。
 それでも次の瞬間には、ふらつきながら、亮介は立ち上がった。無防備に寝てる余裕なんてない。
 ギレーキは、目前まで迫っていた。
 重い一撃が、棒にぶつかってくる。光の粒子の花が空中に咲く。亮介の足が、押されてうしろに滑る。
 そこから、ギレーキは素早い連携攻撃に打って出てきた。
 手首を返して、こっちの棒を撥ね上げたかと思うと、すかさず腰へ棒を振り下ろしてくる。お腹を引っこめて、亮介はそれをかろうじて避ける。
 返す勢いで、ギレーキは横っ面を叩きにきた。今度は防御が充分間に合う。棒を、顔の前に差し渡す。
 しかし、棒と棒がぶつかり合う直前、ギレーキは軌道を変えた。こっちが出している棒よりさらに下――脇腹へ目標が移る。フェイントだ。
 亮介はとっさに、腕を下へ衝き下ろした。棒の下端が、ギレーキの攻撃を弾く。
 そんなところで弾いた結果、大きく、亮介はよろめいてしまった。左手が棒から離れ、片手だけで持った状態になる。
 ギレーキは休まずさらに襲いかかってきた。繰り出してきた突きの狙いは、自分の右手。
 手を引き戻して亮介はそれをかわすと、うしろへステップした。ギレーキとの間に、距離ができる。
 ギレーキは、今度は追ってこなかった。互いに構えたまま、対峙する。
 世界の音がほとんどなくなった。あるのは、互いの足音、息づかい、それだけだ。そのふたつが一定のリズムで変わりなく、自分たちのまわりを巡っている。
 亮介は改めて、ギレーキとの力の差を痛感していた。体格のことも、もちろんある。でもなにより、力の差を決定的なものにしてしまっているのは経験だった。咄嗟の判断――その、一秒にも満たない領域の感覚の有無が、ギレーキとの差を決定的にしている。
 ならば、経験の薄いこっちが勝つには、どうしたらいいか。どうしたら勝って――有希を護れるか。
 まず考えられるのは、相手の予想してないタイミングで攻撃することだろう。不意打ちなら、反応が遅れるはず。それでもだめなら――――捨て身、しかない。しかも、一撃でしとめなきゃいけない。
 勝つためには、こっちも相当の傷を覚悟しなければならない。
 最悪、死ぬ。
 亮介は棒を握りなおすと、ぐっと力をこめた。
 ――俺が死んだら……俺が自分を護って死んだって知ったら……あいつ、泣くかな。
 唐突に、亮介はそんなことを思った。有希の泣き顔が、脳裏に浮かぶ。
 ――泣かれるのは、いやだな。でもきっと、俺が死んでも、あいつの生活はなんにも変わらないんだろうな……
 これまでと同じように暮らして、有希なりの幸せを見つけていくんだろう。
 その光景のなかに自分がいれたら、と思う。それもここで死ねば、永遠に叶わない。
 また、亮介は棒を持ちなおした。そして、腕が震えるぐらい、強く握りしめる。
『意外とお前、愉しめるじゃないか』
 と、そこでギレーキが口を開いた。どうせどうでもいい話なので亮介は答えない。
『なにがどうなったのか知らんが、さっきまでと動きが変わったな。やはりおれは、あのクーデター以降ずっと運がいいみたいだ。ガーティスを殺せたし、未開人は愉しませてくれるし。一部の急進派がことを起こしたと聞いたときは早まりやがってと思ったもんだが……くくく……』
 唇の端を歪め、愉快そうにギレーキは笑う。いいかげん、こいつの話につき合ってるのも鬱陶しい。
「うるせえ。さっさと来やがれ! お前の話は自分のことばっかりで、ぜんぜんつまんねぇんだよ」
 亮介はわざと、相手を挑発した。向こうが冷静さを欠いてくれれば、そのほうがチャンスが広がる。おそらくカウンターでしか、こっちの一撃は決まらないんだから。
『ふん。死に急ぐか。ガーティスもお前も、つき合いが悪すぎる』
 ギレーキは、仕掛けてはこなかった。こっちを見据えたまま、微動だにしない。
 体の奥の、鼓動を感じる。それは正確なリズムを刻み、その一刻みに合わせて、体全体が震えている。握り締めている指先も。大地を踏みしめている両足も。相手だけを見るために固定されている首も。震えている。
 お互いに、相手の出るのを待っている。ギレーキの足が、じり、じり、とかすかに砂を噛み始めている。そろそろ来るのか――と、思った瞬間だった。
 ギレーキは、踏みこんできた。
 カウンターの隙なんて、微塵もない、完璧なかたちで。
 それでも、受けるだけならできる。亮介は棒を寝かせると、きちっとそこへ当てさせた。防がれたギレーキは、そこから棒を押しこんでくる。最後は慎重に、自分に有利な力勝負に持っていくつもりか。
 亮介は、自分からうしろに下がった。ここでムキになって対抗しても意味はない。なんとかして、こいつに、たった一度だけでいいから、隙を作らせなきゃいけない。その一度で、勝負を決めることができる。
 けれど、ギレーキはまったく隙なんて見せない。腕は伸ばさずコンパクトに締め、腰は適度に落とされている。構えた手の位置は、いつでも頭への攻撃に対応できる位置だ。さながら、隙間のない鎧を纏っているかのように思えてくる。
 こっちがいくらうしろに下がっても、その鎧は剥がれない。完璧に着こなしたまま、ギレーキは攻撃を繰り出してくる。
 亮介は必死でそれらを受け止め、下がって、また受けて、また下がって。何回防いで何回下がったかわからなくなるくらい、それを繰り返した。
 と、突然背中に、重い衝撃が走った。
 確認するまでもない。絶壁だ。さっき追い詰められた場所とは、ちょうど向かいあった位置になる。
 もう、下がることはできない。賭けるしかない。隙とか関係なく、飛びこむしかない。
 亮介はひときわ強く相手を睨み、口を真一文字に結んだ。奥歯をきつく、噛み締める。
『やれやれ。やっと終わりか。ガーティスをこの手で倒せなかったことは残念だが、まあそれなりに面白かったからよしとしよう。……ここが正式に開星したら、真っ先に植民星にしてやるか。幸い、環境はいいみたいだしな。観光資源としてそれなりに活用できるだろう。くくく……』
 ギレーキは完全に勝利を確信している。
 亮介は相手に気づかれないように、少しずつ姿勢を低くしていった。
『なにか、言い残すことはあるか?』
 ギレーキは余裕ぶってそう言いながら、すっ、と構えを取る。亮介は答えない。
『なし、か。まあそれがお前の生き様ならいいだろう。いま楽にしてやる!』
 そして、ギレーキの腕が、大上段に振り上げられた。
 ちょっとだけ、大きい。振り上げの、幅が。大きい。
 ――いまっ!
 狙うは一点。相手の首へ。ガーティスが、最後にギレーキにダメージを与えたところ。おそらくまだ痛みは残っているはず。そこへ目がけて、亮介は体を躍らせる。
 しかし、ギレーキは慌てたりしなかった。こっちが飛びこんでいくことなんて、わかっていたのかもしれない。両肘をくっつけて隙間を埋めると、それを首の前へ降ろしてくる。
 こっちが遅い。間に合わない!
 でももう、引っこめることなんてできない。これがはずれたらアウトなんだから。自分はどうなってもいいから、どうなってもいいから……
 ――頼む! 届け、届いてくれ!
 頭のなかが、たったひとつの想いだけになる。
 強く、強く、ただそれだけを願っている。
 そして。
『ごばっ』
 ギレーキはいやな声を出して、仰向けに倒れた。白目を剥いて、完全に生気が失われている。
 亮介は数十秒、呆然とそれを見つめる。
 自分でも、信じられない。間に合うタイミングじゃなかったし。ただ、自分の見たものが間違ってなければ……
 あの瞬間、棒が伸びた。
 こっちが遅いと思って、そのすぐあと。棒は、確かに伸びたのだ。そのおかげで、ギレーキに攻撃が当たった。
 亮介は、まだ手のなかで煌めいている棒を不思議そうに眺める。七色の光は一瞬ごとに色合いが変わり、蠢いているようにも見える。
 でも、納得できないのは、なんでこんな相手の不意をつく便利な機能があるのに、ガーティスもギレーキも使わなかったのか、ということだ。特にガーティス。これを知ってたんなら、統合するとき言ってくれればよかったのに。
 ――まさか、言わなかったのは、知らなかったから……なんてことはないよな。
 その可能性に思い当たるも、即座に亮介は否定する。なぜなら、ガーティス本人が言った言葉を、憶えているからだ。
攻撃は……ただ、念ずれば、いい
 この棒は、念じる気持ちで作られているのだ。だから、当たってくれと念じたおかげで、棒が伸びた。ガーティスたちがこれを使わなかったのはなんでか、それはよくわからないけど……まあ、どうでもいいか。
『さ、約束よ。あなたたちにはこの星から退いてもらうわ』
 まだ捕まったままのシュリアが、普段よりも毅然とした口調でギレーキの部下たちにそう告げた。
 が、それに反して、部下たちはシュリアを引っぱっていこうとする。
『ちょ――ちょっといいの? あなたたち、グァバンジ家のおこぼれほしさにくっついてるんでしょ。ここであいつを助ければ、目をかけてもらえるかもしれないのよ?』
 部下たちの動きが、ぴたっと止まった。
『早くしないと、亮介があいつを殺しちゃうかも?』
 そして大げさな調子で、シュリアはさらに被せる。亮介はそれに合わせて、棒でギレーキの顔面に向けた。
 それが、決定打になった。
 部下たちはシュリアを放りだすと、全員がわれ先にとこっちにやってきた。亮介は棒をギレーキから離すと、その場から遠ざかる。
 そそくさと、緑たちがギレーキを回収していく。
 同時に、暖かい空気が立ちこめてきた。どういう成分が含まれてるかは知らないけど、これがなんであるかは、なんとなくわかる。宇宙船が、飛び立つ準備をしているのだ。部下たちの走っていくほうからすると、ギレーキは採石場に自分たちの船を持ってきていたらしい。つまりこの場には、二隻の船があるということだ。
 そこで亮介は、ハッと妙案を思いついた。即座に走って、ゾイの腰をつかむ。
「おい、お前のは置いていけよ!」
 叫びながら、顔に棒を突きつけた。
 彼らがギレーキたちのに乗って帰れば、こいつらのは置いていける。そしたら、それでガーティスたちは帰ることができる。
 が、つかまれたほうのゾイは、困惑の表情でこっちを見下ろしている。
 ――あ。日本語、通じないんだっけ。
 慌ててシュリアに通訳を頼む。シュリアは一瞬、驚いた顔をしたが、反対はしなかった。
 そうして亮介の意思は伝えられ、ゾイはそれに従った。もし戦いを選択されたら、かなりマズかったんだけど……そうしなかったのは、攻撃能力が備わっていなかっただけなのか、あるいは、裏切りを気にしていたのか――
 やがて音もなく、一機の宇宙船が空に飛び立っていった。
 急に人気のなくなった採石場には、優しい虫の声が響いていた。

     *

 宇宙船のなかに入った亮介とシュリアは、さっそく艦橋に向かった。
 しかし、いきなり目論見ははずれた。なんでも、船には固有の起動コードというものがあり、それがわからないと動かすことができないらしい。
 亮介は気落ちしたが、すぐに頭を切り替えた。まあ近々、ガーティスたちの支援者が地球に来ることになるだろうし。ギレーキたちが退いたってことは、支援者が地球に近づきやすくなったってことなんだから。
 次にふたりは、居住区に向かった。居住区は思っていたより狭く、亮介の部屋の二倍ぐらいしかなかった。部屋の真ん中にテーブルとソファのような横長の腰かけがあり、その奥には収納スペースがあった。収納のなかには、いくつものウィレール人の体が吊るされていた。それを、シュリアにあてがった。
 有希から出たシュリアは、どこからか治療キットを見つけてきた。シュリアは亮介に体を見せるよう迫ってきたが、亮介はそれを拒んで有希のほうを指差した。
 意識を取り戻した有希は、事態が解決したことを知ると、とたんに泣きだしてしまった。いろんな思いが、緊張が解けたことで噴き出してしまったんだろう。
 その間に、シュリアが亮介の傷を見た。足とこめかみの処置は、なんか得体の知れない、丸一日貼っとけば傷が塞がるとかいう湿布みたいなものを貼られただけだったが、左手は皮膚のなかのことなので、このキットでは治しきれない、とのことだった。
 時間が経つにつれて、亮介は身も心もどんどんほぐれていった。さっきはわかなかった実感が、胸のなかでいっぱいになってくる。本当に、自分たちは勝ったのだ。嬉しくなって、自然と笑みが浮かんでくる。
 ――あとは、ガーティスを戻すだけだった。

 宇宙船に入ってから、一時間……過ぎただろうか。
 亮介は、下を向いていた。
 隣で有希も、同じようにうつむいている。表情をうかがうことはできない。
 荒い息づかいだけが、部屋のなかで響いている。聞いているのがつらくて、亮介はソファの生地を強くつかんだ。体に合わせてフィットするように沈みこむ不思議なソファは、正確に自分の指のかたちを写し取る。
 それでもやっぱり様子が気になって、そうっと、亮介は視線を持ち上げた。
 正面に座るシュリアは、一時間前とはまったく別人になっていた。肩で息をして、必死に喘いでいる。目の焦点は、強く結ばれたりまったく合わなかったり。どこを見ているのか、あるいはなにも見えてないのか。
 もうずっと、この状態が続いている。
 とうとう耐えかねて、亮介は口を開いた。
「ほら、たぶんまだ能力が戻ってから時間が経ってないからなんだよ。それか、この船で見つけた体に原因があるとか――」
 結局最後まで言えず、途中でやめる。いくら言葉を繋いでも、いまのシュリアにはなんの慰めにもならない。できるかできないかという結果自体にしか、意味がないんだから。
 王家の血統に付随する能力には、二種類ある。
 ひとつは、自己精神分離能力。自分の精神を、体から引き離して空中に放つもの。この世界において精神単独で居れるのは王族だけであり、その状態で彼らは託宣を受ける。
 もうひとつは、統合精神分離能力。ひとつの体のなかで統合された精神を、再びもとのふたりに戻す能力。こっちは近代に入ってから発見された。
 さっき、シュリアが脱出できたのは、前者の能力を発揮したから。そして、前者の能力が回復したとなれば、後者も回復した、と考えるのが普通だろう。当然、シュリアも亮介もそう思っていた。
 しかし、ガーティスの精神は戻ってこない。
 何度試みても、反応は返ってこないのだ。
 始める前から、不安要素はあった。シュリア自身が、これを行うのが初めて、ということだ。先代や先々代、それからまわりの王族がやっていたのを記憶を頼りに思い出しながらやっているが、それでどの程度正確な効果を発揮できるか、わからない。
『やっぱり、無理なのかな』
 ぽつりと、シュリアはそうこぼした。堪えきれずに、漏れてしまったような言いかたで。
「だめだって。弱気になっちゃ。ガーティスさんの気持ちに応えたいんでしょ? まだ時間はいくらでもあるじゃない」
 有希が即座にフォローする。が、シュリアは有希のほうを見ず、足もとの同じ一点に視線を落としている。
 気まずい。
 ギレーキを倒せた運のよさからして、ガーティスもすぐに戻せると亮介は思いこんでいた。しかしその予想はこうして大きく裏切られている。いまごろは落ち着いて、お茶会でもやってたかもしれないのに。
「ねえ。その、ここまでつき合ってきて思うんだけど。どうして、この星まで逃げてきたのが、ふたりで、なの?」
 重い空気をなんとかしようと思ったのか、有希がそんなことを尋ねた。シュリアは顔を上げ、一瞬、有希のほうを見たが、すぐまた目線を下げてしまう。
『……本当は、私邸に攻めこまれたとき、わたしはそこで死ぬつもりだったの。王家と親しかった人のなかには、宇宙に逃げだした人もいたけど……わたしはそんな気になれなかった。父様も母様も殺されて、自分だけむざむざ生きるだなんて……。それに、能力のない無能はさっさと死んだほうが……なんて考えも、あった』
 はっきりとした喋りではなく、音が口から漏れてくるような感じだったが、それでも耳によく通った。
『でも、特務隊の隊長さんが、むりやりわたしたちを脱出用ポッドに押しこんじゃって……。あなたは生きて、生き延びてください。それが私たちの果たせる最期の仕事です≠チて。みんなは戦っているのに、自分たちだけおめおめ逃げだして――すごく、悔しかった。窓からウィレールを見たとき、能無しのくせに星を捨てて逃げるのか、って、星に非難されてる気がしてきて……。ガーティスのほうが、そういう悔しさは強かったと思う。裏切らず特務隊に残って、無事だったのはガーティスだけだし……』
 こいつらがどんな想いで故郷を出たのか。予想してはいたけど、それでもかなりハードな話だった。亮介は口を結んで、視線を下げる。
「なんで、ガーティスが選ばれたんだ?」
 それでも、いまのこの調子を崩したくなかったので、さらに質問を続けた。
『それはわからないけど……たぶん、一番信頼があったからだと思う。真面目だし、任務を投げ出さないし……。ウィレールから逃げだしたことはつらかったけど、ガーティスと一緒にいられるのは――ちょっと、嬉しかった。わたしのことを、蔑みも同情もしなかったのはガーティスだけだったから』
 ガーティスのシュリアに対する態度については、亮介もここ数日でよくわかっていた。
 あいつは本当に、王女様そのものを見ていた。そして王女様を助けるためにどうしたらいいかを、いつも考えていた。
 だからこそ、ガーティスを戻してやりたいと思う。このふたりを、こんなことで引き離してはいけない。
「ふたりは、長いつき合いなの?」
 そんなことを考えている自分をよそに、有希がさらに話を被せる。
『会って三年ぐらい、かな。ガーティスがはじめて来た日のことはいまでも憶えてる。ガチガチに緊張しちゃってて、おかしいったらなかったわ。でも、他の貴族出の隊員にはない真面目さだけは、すごくよくわかった。それに……わたしをすこしも見下さなかったし。でもはじめはずっと疑ってた。だから、その演技を剥いでやろうって思って、いろいろひどいことをガーティスにしたんだけど……ものすごい剣幕で叱られちゃって。わたしを叱る隊員もはじめてだったわ。それで、ああ、この人は本気なんだ――って、わかった』
 シュリアはヒザに乗せた手を、ぎゅっと固めた。まるで、なにかに耐えるように。
『ガーティスと会えたから、いまのわたしがいる。どんなにまわりから蔑まれたり同情されたりしても、ガーティスと会ってから平気になった。ガーティスがちゃんとわたしを見てくれてるんだからって、自分に言い聞かせて。わたしは、ガーティスがいたから……』
 声が、弱々しくなっていく。地球人が泣く寸前のときと同じように、シュリアも肩を震わせている。宇宙人もこのあたり、自分たちと同じなんだろうか。
「好きなんだね。ガーティスさんのこと」
 と、有希がいきなり、そんなことを言った。
 亮介の体温が、急角度で上昇する。いきなりそんな話題出されて、どんな対応をしたらいいのかわからない。
 しかしシュリアは、きょとんとした顔で有希を見つめているだけだ。
『ええ、好きよ。当たり前じゃない』
 シュリアの口から出てきたのは、そんな素っ気ない言葉だった。
 なにか、すごい食い違いがある気がする。
 そのへん、有希はさすがというか、その正体にすぐに気づいていた。
「そうじゃなくて……なんて言ったらいいかな。友だちに言う好き≠ニ、特別な誰かに言う好き≠ヘ違うでしょ? わたしが言いたいのは、特別な好き≠フほう。わかる?」
 説明を聞いてるだけで、拷問を受けている感覚になる。自分にとっての特別な誰か≠フ口から、特別な好き≠ノついての解説をされるなんて。恥ずかしすぎて死にそうだ。
『え、あ――』
 肝心のシュリアは、みるみる顔に動揺が走っている。
『そう、なのかな。わたし、そういう好き≠チて意識したことないから……』
 自分でも意識してなかった図星を言い当てられて、かなり慌てている。見ていて、ちょっと面白い。
『でも、言われてみれば……そうなのかも、ね……。ガーティスはお兄さんのことがあって、それでわたしによくしてくれているんだから、深い気持ちを持っちゃいけないんだ、って、自分で歯止めをかけていた気が』
「あいつは」
 そこで亮介は思わず、シュリアの話を遮ってしまった。いまの話を聞きながら、言うべきか黙っておくべきかを考えて迷っていたのに、口のほうが勝手に先走ってしまった。
 言いかけた以上、もうごまかすことはできない。亮介は、話してしまうことにした。
「あいつは、自分の兄貴のことで、王女様によくしてたわけじゃないんだよ。最初は、確かにそうだったらしいけど。だんだん王女様そのもののことが気になって。それで、その……」
 内容が内容だけに、かなり恥ずかしい。最後はしどろもどろになってしまった。亮介は軽く咳払いしてごまかす。
『え……』
 シュリアは目を見開いて、口をぽかんと開けてしまった。顔全体が呆けてしまっている。
『それじゃあ、ガーティスは、なんの義理も関係なく、わたしに――』
 その先は継がれなかった。シュリアはヒザに乗せている拳を激しくわななかせ、顔をうつむける。
 ソファに、丸い滴が落ちた。滴は連なって、いくつもいくつもこぼれてくる。
『わたし、ずっと、ガーティスに迷惑しかかけてなかった。でも、ガーティスがお兄さんのことを償うために特務隊にいるんなら、それでもいいかななんて思って甘えて……わたし、わたしっ』
 シュリアの嗚咽が、部屋に響く。この船は機密性が高いのか、声が普通より反響している。そのせいで、よけいに切なくなる。
 亮介は居たたまれなくなって、唇を噛んだ。
「これからそれを返していけばいいじゃない。ほら、これで拭いて」
 有希がハンカチを差し出しながら、シュリアに寄り添う。やっぱり有希は強い。自分にはこんなふうに、すぐに慰めたりできない。
「戻ってほしい気持ちが強いほうがいいんだろ? だったらもう充分あるじゃねぇか。俺ならまだ、いくらでもつき合うからさ」
 それでも、できる限りの言葉をかけてみる。
『うん……』
 シュリアはおずおずと、亮介に手を伸ばしてきた。額に、ひんやりとしたシュリアの手が触れる。滑らかな手のひらが、かすかに髪のほうへ動かされる。
 潤んだ瞳と、真正面で向き合った。シュリアは亮介の奥を覗きこむように、見つめてくる。亮介も視線をそらさず、その目を見つめ返す。
 目の上、額のあたりから、淡い黄金色の光が漏れてくる。さっきから何回も見ているものだ。光に導かれるまま、亮介は目を閉じる。
 目を閉じると、この部屋のなかの音がダイレクトに届いてきた。右手のほうで起こった衣擦れは、有希が姿勢を変えた音か。
 どういう理屈かわからないけれど、統合された人格はこの黄金色の光を頼りに、他人の人格という迷宮を抜け出てくるのだという。ガーティスが出てこないのは、単にまだ明かりを見つけてないからなのか、それとも明かりそのものが弱すぎるからか。
 自分の心なんて、他の人より単純にできてるんだから、ガーティスなら簡単に出てこれると思うんだけど……それでもやっぱり、人間の心である以上、出てくるのは難しいのか。
 だんだん焦れてきて、亮介は唾を呑みこむ。有希が大きく息を吐いたのが聞こえる。
 そうして、長い時間がすぎて。
『やっぱり――やっぱりムリだ。できない。できない。……十年も能力が戻らなかった無能には、やっぱり片方だけしか戻せなかったのよ……!』
 シュリアは、弾けるように亮介から離れた。目からこぼれたものが、亮介の手に落ちる。
 ソファに顔を埋めると、シュリアは声をあげて激しく泣きだした。初めて見る生の慟哭に、亮介は目をそらしてしまう。見ていられない。
 けれど有希は逆に、シュリアの肩へ手を回した。そして顔を、シュリアの耳もとへ近づける。
「まだだいじょうぶだって。時間はたくさんあるんだから」
『わたしだって、できるって信じたいよ! でも、もしできなかったら、このままガーティスは……』
 ソファでくぐもった声で、シュリアはわめく。言葉が引き鉄になって、さらに泣きかたが激しくなる。
「できるって信じたら絶対できるんだから。さっき自分で証明したんでしょ? だから、ほら、弱気にならないで」
 有希は、自分よりはるかに大きな体を抱いて、優しく声をかける。
『わかってる、わかってるけど、わたし、ガーティスがいないと――』
『いないと、どうなんですか?』
 全員の時間が、一瞬、止まった。
 その声は待ち焦がれていたもので、だからこんなにあっさり突然に来るなんて誰も思っていなくて。なにが起こったのかを理解するのに、普段の数倍の時間がかかってしまった。
 そして、呼吸さえするのを忘れたその数秒間のあと、亮介のなかに、ふつふつと感情が沸きあがってきた。
 やっと、あのバカ、こんな単純な心を脱出してきやが――
『ガーティス!』
至近距離から全力で、シュリアは飛びかかってきた。体が大きいので、こっちは弾き飛ばされる。
「ちょっ、いだ――王女様痛いって、痛い!」
 ソファの下で亮介は抗議するが、まったく聞き入れられない。
『もっと早く出てきてよ! わたし、わたし――』
 シュリアは顔をぐちゃぐちゃに崩して、勝手なことを言っている。
『はぁ』
 ガーティスは事態を飲みこめていないのか、気の抜けた返事をした。
『もう絶対、こんな危ない真似、させないんだから! いい?』
『しかし、シュリア様を護らなければならない以上、リスクの伴うことをせざるを得ない状況もあろうかと』
『そんなことどうでもいいの! 護らなきゃならないって言うんなら、わたしの心も一緒に護ってよね! わたしの心は、あなたがいないと、いないと――』
 言ってることが恥ずかしくなったのか、シュリアの声は最後には小さくなってしまった。
 でも、ガーティスには、それで充分伝わったらしい。
『わかりました。仰せのままにいたします』
『ガーティス!』
 シュリアは、さらに強く亮介の体を抱きしめてきた。
「ぐぎゃあぁ」
 体のどこかが、ミシ、ときしみを上げる。息が苦しい。
「お、おい、とにかく先に移そうぜ、な? いや、笑ってないで早瀬もなんとかしてくれって! うぎぃぃっ」
 宇宙人による締め技攻撃は、それからさらにしばらく続けられた。

     *

 淡いオレンジ色の光のなか、電車はゆっくりと駅から離れだした。遮断機の向こうを、草緑色の車両が駆けていく。
 すべてを通りきらせると、踏み切りは甲高い声を出すのを止めた。縞々の手をしならせながら振り上げる。待ちかねたように、その下を車や歩行者が渡っていく。
 それとほぼ同時に、改札のほうからも喧騒が聞こえてきた。亮介はそっちへ視線を移す。いろんな年格好をした人たちが改札からあふれ、それぞれの方向へばらけていた。上着の襟を寄せて、みんな秋の夕方へ飛びこんでいく。
 人の波を、亮介はじっと見つめる。手を突っこんでいる、制服のポケットの感触が気持ちいい。まだ真新しい生地はざらついていて、指に不思議な感じを残してくれる。包帯を巻いている左手のほうは、布越しだからなにも感じられないけど。
 そのとき人波のなかに、すっかり見慣れたブレザーの高校生が現れた。自分と同じく買いなおされた新しい制服は色が鮮やかで、しかもそれが似合ってるもんだからたまらない。
「ごめん。待った?」
「いや、そんなに」
 有希の気づかいに答えながら、亮介はロータリーのほうへと歩きだす。
 ガーティスたちが地球を離れて、一週間が経っていた。それからずっと、こうして待ち合わせをしている。特にどちらから言いだしたわけではない。ただごく自然に、亮介は有希と帰りを合わせるようになっていた。
 バス待ちの列の脇をすぎて、ふたりは県道に出る。夕方の県道は、この日も大量の車を走らせていた。テールランプの赤が連なって、亮介たちの右手を流れていく。
「なんだか、不思議な感じがするね」
 突然、有希はそんなことを口にした。
「え? なにが」
「一週間前は、こんな当たり前の生活が送れるなんて、思いもしなかったから」
「……ああ」
 うなずきながら、亮介は苦笑を漏らした。いまとなっては、すべてが作り物のお話だったのではないかとさえ思えてしまう。
 昼も夜も関係なく、山やら森やらを走り回って。ロクでもない性格の敵と戦って。自分も有希もボロボロになって。
 いまこうして、前と同じ暮らしをしていることは、本当に奇跡だと思う。たぶん、なにかひとつでも間違った手を打ってしまっていたら、いまの自分たちはなかっただろう。
 家に着いて、なにより両親の姿にショックを受けた。目のクマの黒さと顔色の悪さ、髪のだらしなさ――あんなにやつれた父さんと母さんは、初めて見た。なんでも、公開捜査に踏みきる寸前だったとか。自分が有希を誘拐したという誤解はされてなかったみたいで、そこにはとりあえず安心したけど。
 ともかく、ふたりのあんな顔を、自分はきっと一生忘れないだろう。会った瞬間泣きだした声も、忘れない。自分にはあんなにも心配してくれる人がいる。だから自分は幸せなんだ、ってことがわかったから。
 行方不明になった理由は、目出し帽をかぶった男たちに拘束されてた――ということで有希と口裏を合わせた。警察の人は、意外なほどすんなり自分たちの作り話を信じてくれた。これから警察に、居もしない目出し帽の男≠探させてしまうことには罪悪感を感じるけど……宇宙人≠ネんて信じてもらえるわけがなかったから、どうしようもない。
「あいつらいまごろ、どこにいるかな」
 正面に見えてきたコンビ二から視線を上げ、亮介は空を見上げた。茜に染まった雲が、薄くたなびいている。
「まだ自分たちの星に戻ってないと思うけど……。幸せになれるといいね、あのふたり」
 ギレーキを倒して、ガーティスたちが亮介たちの体から抜けた次の日。今度こそ本当の支援者が来て、ガーティスとシュリアは空の彼方へ飛び去っていった。
『この星で、あなたたちに会えてよかった。この星を出られるのも、わたしの能力が戻ったのも、全部あなたたちに会えたおかげだから……』
 そんな感謝の言葉を、これ以上ないってくらいの笑顔で言って。ふたりは夜空の向こうに消えていった。
 でも、感謝の言葉を言わなきゃいけなかったのは、むしろこっちのほうだったんだ。
「なんか、きれいだね。今日の夕やけ」
 有希も自分と同じように、西の空を見つめていた。道路の対岸、そのはるか向こうに、赤い太陽が沈もうとしている。一日が終わってしまう物寂しさと、去り行くものの去り際の見事さを同時に魅せながら。
「そう、だな。本当に、きれいだ」
 まるで、一日に起きたいろんな出来事が、結晶になって輝いているように思える。地面の下に帰った結晶は、一度砕かれるんだろう。砕かれて、それをもとにしてまた違う一日が作られる。彼らは砕かれるために、空を回っているわけだ。
 けれど、彼らはけっして、砕かれることを怖れてはいないだろう。
 砕かれても、新しいなにかに生まれ変われるのを、知っているから。そしてその新しいものが素晴らしいものであることも知っているから。
 そう。砕け、壊れてしまうことを怖れていたら、新しいものは生まれない。
 コンビニを過ぎ、曲がり角に差しかかった。亮介は角を折れる。自分のすぐあとに、有希が並ぶようについて来ている。
 亮介はちらりと、有希のほうを見た。
「ん? なに?」
 微笑を浮かべながら、有希はまなざしを向けてくる。
 ――ずっと、怖かった。
 想いを伝えることは、いままでの関係をめちゃくちゃに壊してしまいそうで。だからずっと、避け続けていた。
 だけど、逃げるばかりじゃ、なんにもできやしないんだ。
 これから自分はいくつものことに立ち向かって、いくつものなにかを失ってしまうんだろう。だけど、失い傷つくことを怖れるあまり、立ち向かうことをやめてしまったら。それは失う代わりに得られるはずだったものを、永久に手に入れられなくしてしまうことだ。
 なにかを得ようと思ったら、なんにも怖い思いをしないで得るなんて、無理なんだ。
 それに気づかせてくれたのは、遠い星から来たふたり。
 だから本当は、自分のほうがふたりに感謝の言葉を言わなきゃいけなかった。出発のときの慌しさのせいで、言いそびれてしまったけれど。
「あの、さ」
 歩きながら、亮介は言葉を紡ぐ。頭のなかは緊張で真っ白になっている。顔を上げられない。地面だけを見て、足を前に動かす。
 ひょっとしたら――いやたぶん、ほかに好きな男が有希にはいると思う。
「ずっと、怖くて言えなかったんだけど――」
 でも、自分の気持ちをごまかして、この想いからずっと逃げ続けるだなんて。そんなことはもう、できない。
「俺と……つき合ってくれない、かな?」
 言って。亮介は足を止めた。
 うしろは振り返らない。ただじっと、答えを待つ。うしろでしていた足音も自分と一緒に止まっている。原付の走る音が、遠くのほうでしている。
 ごくりと、唾を呑む。
 と、なにかが落ちる音が、かかとのすぐうしろから聞こえた。
 思わず、亮介は振り返ってしまった。振り返る瞬間に、まだ答えを聞いてなかったことを思い出して、頭がパニックになりかけた。
 しかしその混乱は、数秒もしないうちにどこかへ行ってしまった。
 有希は、顔を真っ赤に紅潮させて、呆然と立ち尽くしていた。口をぽかんと開けて、固まってしまっている。
「えっ、あ……その」
 亮介と目が合ったことで我を取り戻したらしく、有希は慌ててカバンを拾い上げる。
「ずっと、って、いつから――」
「ずっとはずっとだよ。自分でも憶えてないぐらい、ずっと前から」
 一度告白してしまうと、どこか気が楽になってしまった。普段なら恥ずかしくて照れてしまうような言い回しも、簡単に口にできる。
 有希はうつむいて、黙りこんでいる。驚きすぎて、なにも言えないんだろうか。そりゃあ、いままでそんなふうに思ってもいなかった相手から告白されたら、そんなふうになっちゃうのもわかるけど。でもそれならそれで、黙っているというのはよくわからない。
 わからないけれど、亮介はただ有希の答えをじっと待つ。
 そのまま、長い時間が過ぎて。
「……わたしだって、ずっと怖くて言えなかったんだから」
 有希は、繋がりのわからないことを言った。
「はい?」
 たまらず、亮介は訊き返す。
「だって、高校入ってから、わたしのこと避けてたじゃない! それでわたし、もうあきらめてたのに……。こんなのずるいよ。そっちだけわたしを驚かせて。ずるいよ」
 有希の黒目の輪郭が、滲んでいるような気がする。
「だってそれは、俺がぜんぜんそっちとつりあいが取れてないから――だいたい、ガーティスに入られた日の夕方だって、東高のやつと親しげにしてたじゃないか。あれはなんなんだよ?」
「あれはうちの文化祭に来た人が、知り合いぶって声かけてきたの! あれも含めて二回しか会ってないのに。どうしてあれを見て誤解するわけ?」
 調子が、いつもの有希に戻ってきている。ちょっとほっとしながら、亮介はそれに言い返した。
「なんで二回しか会ってないのと、あんなに楽しそうに話せるんだよ」
「向こうが勝手にひとりで盛り上がってただけで、わたしは楽しげになんかしてない! だいたい、ずっとわたしを見てたって言うんなら、どうしてこっちの気持ちに気づいてくれなかったの? バカっ」
「そんな言いかたないだろ。怖がってたのはお互いさまじゃないか。そっちだって、気づけなかったことでは同じだし」
 路地の真ん中だと言うのに、亮介たちは大声でやりあった。亮介は有希の目を見据える。有希も同じく見つめ返してくる。
 ……やがて、有希のほうが堪えきれずに、クスっと笑いをこぼした。
「なにがおかしいんだよ」
「だってふたりとも、同じことで悩んで怖がって先に進めなかっただなんて。こんなの、笑い話じゃない。バカらしすぎて笑っちゃうわ。あははっ」
 有希は目尻を拭いながら、さらに笑い声をあげる。
 なんだか、こっちまでおかしな気分になってきた。亮介もつられて、大声で笑う。
「あはははっ」
「ははっ――ははは」
 ……ひとしきり笑ったあと、有希がこっちに手を伸ばしてきた。
「ちゃんとわたしのこと、幸せにしてよね。亮介」
 亮介の全身の血が、一瞬で沸騰する。
「バカ言え。……プロポーズじゃあるまいし」
「一緒にいる時間を幸せにするって意味なら、夫婦も恋人も同じだと思うけど? それよりちゃんと、これからは名前で呼んでよね。公園のとき、こっちから道を作ってあげたのに、亮介ったらそれを避けるんだから」
「悪かったよ。ゆ――有希」
 照れながら、なんとか亮介は口にできた。そして、おずおずと有希の手を握る。柔らかい、自分より小さな手。
「もっと昔みたいに、ちゃんと言ってくれなきゃだめ。ほら、もう一回」
「まじで? カンベンしてくれよ」
「だーめ。わたしたち、スタートが遅れたんだからね。どんどん取り戻していくんだから。ほらっ」
 有希が亮介の手をぎゅっと握り返して、早く早くと迫ってくる。
 秋も深まる日のある夕方。庭先の紅葉と同じくらい顔を赤くしたふたりの姿は長い影となって地面に刻まれ、影は太陽が沈むまでずっとその場に残り続けていた。
(終)


〔ツリー構成〕

【170】 巻島長編1あらすじ  その1 2002/7/28(日)02:47 巻島翔史 (3027)
┣【179】 巻島長編1あらすじ  その2 2002/8/1(木)01:11 巻島翔史 (4007)
┣【185】 巻島長編1あらすじ  その3 2002/8/8(木)23:03 巻島翔史 (2787)
┣【186】 巻島長編1あらすじ  その4 2002/8/10(土)01:54 巻島翔史 (3561)
┣【209】 re(1):巻島長編1あらすじ  その5 2002/8/19(月)00:55 巻島翔史 (4441)
┣【217】 巻島長編1あらすじ  その6 起承転結 2002/8/22(木)01:24 巻島翔史 (452)
┣【221】 巻島長編1あらすじ  その6 2002/8/26(月)23:48 巻島翔史 (2571)
┣【229】 巻島長編1あらすじ  その7 16分割 2002/9/1(日)03:33 巻島翔史 (1234)
┣【230】 巻島長編1あらすじ  その7 2002/9/1(日)03:34 巻島翔史 (3699)
┣【233】 巻島長編1あらすじ  その8 2002/9/6(金)03:20 巻島翔史 (1857)
┣【238】 巻島長編1あらすじ  その9 2002/9/9(月)02:53 巻島翔史 (2478)
┣【241】 巻島長編1あらすじ  その10 2002/9/20(金)01:27 巻島翔史 (2032)
┣【282】 巻島長編1あらすじ  その11 2002/11/10(日)22:22 巻島翔史 (3499)
┣【284】 巻島長編1あらすじ  その11 16分割 2002/11/12(火)22:48 巻島翔史 (780)
┣【286】 巻島長編1あらすじ  その11 64分割 2002/11/26(火)01:25 巻島翔史 (5220)
┣【314】 巻島長編1あらすじ  その11改 64分割 2002/12/24(火)02:12 巻島翔史 (5722)
┣【315】 巻島長編1あらすじ  その11改 プロット 2002/12/24(火)02:15 巻島翔史 (15676)
┣【327】 re(1):巻島長編1あらすじ  その11改 起承転結再構築?1 2003/1/8(水)00:37 巻島翔史 (1452)
┣【331】 巻島長編1あらすじ  その11改 起承転結再構築?2 2003/1/11(土)00:52 巻島翔史 (1610)
┣【342】 巻島長編1あらすじ  その11改 起承転結再構築?3 2003/2/3(月)00:46 巻島翔史 (1479)
┣【378】 削除
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