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1133 短編 サカモト「踏切の中で」
2004/11/18(木)22:21 - サカモト - 1472 hit(s)

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■0
「とにかく俺はあの踏切を通らないからな」
 木枯らしが吹きすさぶ中、少し高めの佐藤太郎の声が響き渡る。背が小さめの彼は、目の前に立つ長身の甲斐倫太郎を見上げるようにして睨んでいた。
 しかし、睨まれた甲斐の方は、全く表情を動かさずに短く切り返し、手元を見る。彼の手には、大振りのビニール袋。中には、何故かぎっしりと肉まんが詰まっている。
「却下する」
 もう一度目線を、目の前にいる太郎へと戻し、返答する甲斐。
「いやだよ。俺はいつもの道から行くからな」
 そう言って体の向きを変えようとした、太郎の小さな体が空中へと浮き上がる。とっさに後ろを向いた太郎の目に、腕を突き出す甲斐の姿が映る。
「……おいっ!」
 普通は襟首をつかんでもちあげれば、首もとが圧迫されるからすぐ気づくのだが、なぜか、後ろを見て初めて気づく太郎。
 空中に浮き上がったのは、甲斐が襟首をつかんで太郎を持ち上げていたからだった。
 甲斐の身長は190センチ。太郎の身長は150センチ。2人の制服が同じでなければ、大学生の兄が小学生の聞き分けのない弟を抱え上げている様にも見える。
「やめろ、はなせって! 俺は絶対にアノ踏切にはいかないからなぁ!」
 じたばたと暴れる太郎の手足は短く、甲斐の体に届くことはなかった。
「いつも譲歩して遠回りに同行する。今日はお前が譲歩しろ」
 甲斐は手の中で暴れる太郎に短く言い放ち、目の前の道を歩き出していった。
 

■1
 竹の棒らしきモノに黄色と黒のテープが規則正しく交互にまかれ、床屋の看板の様な模様が浮かび上がっている。その棒を支えるのはやはりしましま模様の無骨な鉄の箱。
 ソレは2人が言い争いをしていた場所から、100メートルほど進んだトコロにあった。
「わかったよ。もう、ココまできたら逃げないからはなせって。さっきからすれ違っているおばちゃんにも笑われてんだろうが!」
 騒々しい声が響き、2人が踏切の前まで歩いてきた。制服を着ていなければ小学生にも見間違えられそうな幼い顔立ちの太郎と、スーツを着ればモデルかホストの様にも見える鋭利な顔立ちをした甲斐。しかも、うち1人が首筋を捕まえられて猫の様に運ばれている図は珍しいらしい。
 すれ違う人々は驚き、次にクスクスと笑いながら通りすぎていっていた。
「そうか」
 踏切の手前まで来たところでようやく甲斐がつかんでいた襟首を放す。一瞬、太郎の体が宙に浮き、次の瞬間勢いよく尻から地面へドスンと着地する。
「いてぇ! ……お、お前、俺がお前より背が高くなった時、覚えてろよ……」
 本当に痛かったらしく、少し目尻に涙をにじませながら悔しそうに甲斐を見上げる太郎。しかし、そんな太郎の様子を冷静に見つめ、甲斐はきっぱりと言い切る。
「それは絶対にあり得ない」
「こ、こいつ……」
「お前の両親の身長を見ても、これ以上身長が伸びることはない。だが、身長が小さいくらいでは社会生活を送る上で支障ない。気にするな」
 聞こえようによっては慰めにも聞こえるセリフだったが、太郎には何の慰めにもなっていなかった。
「い、いつかみてろよ」
 拳を握りしめて青筋を浮かべるが、悲しいかな、傍目には小さな子供がだだをこねている様にしか見えない。しかも、怒りの対象の甲斐は、袋の中から肉まんをとりだして食べ始めている。
「ああ、もういいよ。ココまで来ちゃったし。さっさと帰るか」
 汚れたズボンを2・3度はたいて立ちあがり、目の前の踏切を少し嫌そうににらみつける。と、突然その目が大きく見開かれた。 いつの間にか目の前には小さな女の子が踏み切りの真ん中に立っていたからだ。
 この地方ではよく見かける黄色の帽子に真っ赤なランドセル。丁寧に編み込まれたお下げと愛らしい唇は、将来を見てみたいと思わせるだけのモノを持っている。しかし、2人を真っ直ぐに見つめる目はうつろで、その年頃の子供が持っているまぶしいくらいの輝きを見かけることができなかった。
「あの娘、どっから出てきたんだ?」
 周りは収穫が終わった寂れた畑で、見通しは良い。100メートル四方はほぼ遮蔽物がなく、田舎特有ののどかな風景が広がっていた。
 つまり、踏切の向こう側から来る人も全て見ることができるのだ。しかし、太郎は人影をみた記憶がなかった。
 ジャン、ジャン、ジャン、ジャン!
 突如、けたたましい音を立てて警報機が鳴り出した。何かの目の様にも見え真っ赤なライトが交互に点滅し、空高く掲げられていた黄色と黒の模様で彩られた竹の棒がゆっくりと2人の前を遮る。
「な、なんで、今電車が!?」
 30分に一本程度しか通らないローカル路線だけに、地元のモノはほとんど感覚でいつ電車がくるのかわかっていた。
 ギロチンの刃を連想させる踏切の棒が降りる。中には、先ほどと同じ格好のままたっている少女。少し違っているのはコンクリートと鉄のレールの間にできた溝に、その足ががっしりと鋏込まれていることだろう。
 少女は小刻みに体を上下させ、足を溝から抜こうとしている様だった。」
 2人の足下の地面からは、規則正しい地響きが感じられる。それは、一分もたたずに電車がこの踏切を通ることを示している。少女の足を線路の引き抜き、体を抱えて遮断機をくぐり抜けることを考えると、一刻の猶予もないように思えた。
「やばい! カイ、いくぞ!
 しかし、太郎の体は前に出ず、上へと持ち上がった。甲斐が肉まんを食べながら太郎の襟首を捕まえいたのだ。
「おい、ふざけてる暇はないんだぞ!」
「落ち着け」
 あくまで顔に感情を浮かべず、ゆっくりとした動作で肉まんを口に運ぶ甲斐。
「馬鹿野郎! 悠長に肉まんなんか食ってる場合じゃないだろ。早くしないとあの女の子が……。お前の力なら助けられるだろうが!」
 普段は何となく彼の考えがわかる太郎だったが、今は、甲斐の考えを読むことができない。
 必死に手を伸ばす先には、かがみ込み必死に足を引き抜こうとしている少女。口の端からは泡を飛ばしながら、何かを必死に叫んでいる。しかし、鉄とコンクリートで作られた頑丈な口はがっちりと少女の足をくわえ込み、放しそうな気配はなかった。
 ブゥワァァァーーーー!!
 聞き慣れた列車の警笛が、今は猛獣の咆吼のように響きわたる。
 じたばたと手足を振り回すのをやめ、丈夫なこと以外は何の取り柄もない無骨な制服の胸元をつかむ太郎。
 ブチブチブチ!
 金色の模様のついたボタンがはじけ飛び、金貨のようにあたりに散らばる。支えられていた体が急に重力に捕まえられ、重さを取り戻した。
「無駄だ」
 相変わらず感情を感じさせない甲斐の声が響く。踏切に向け駆け出そうとした体が、前に進まなくなった。少女の体まであと数歩の距離なのに、どれだけ力を入れても、足が進まない。
 ついに列車の強力なライトに少女が照らし出された。大きく開かれた目からは、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。何故か、声を聞くことができないのだが、大きく開いた口からあらん限りの悲鳴があがっていることはわかった。
 グジュ。
 水を入れたビニール袋を踏みつぶしたような音がして、少女の姿がかき消える。
 ゴトン、ゴトン。ゴトン、ゴトン。ゴトン、ゴトン。
 いつもの規則正しい電車の音が、響く。目の前は不気味に黒光りする車輪と、血で染め上げられたような真っ赤な車体。
「あ、ああ、あああああああ……」
 太郎の口からはひどく力のない声が漏れだす。
 自然と足からは力が抜け、地面に膝、そして両手の順に接していく。気づけば、地面も太郎の両手も、信じられないほどの血で塗れて、テラテラと光を反射していた。
 後ろを見ると、飛び散った血で顔を真っ赤に染めた甲斐が、赤く染まった肉まんを咀嚼している。クラスで一番のイケメンと評判の無機質な顔は、一切の生気を感じさせることなく、グシャグシャと音を立てながら口を動かし続けていた。
 血で真っ赤に染まった肉まんが口の中に消えると共に、轟音を立てていた電車の最後尾が通り過ぎる。
 そこには、肩から先をなくした腕と、未だに溝にはまって立っている足、そして、何かにかじられたように半分以上をこそぎとられてしまった少女の顔が、転がっていた。
「ど、どしよぅ。目の前にいたのに。あんなにちっこい手ぇ伸ばしてたのに」
「落ち着け」
 先ほどの体を止めた時と違い、いつもの調子を取り戻した慈しむような甲斐の声が響き、冷たい手が視界を塞ぐ。
「目を閉じてもう一度自分の手を見てみろ」 逆らう気力もない太郎は、いろいろな感情で爆発しそうな頭を必死に動かし、無理矢理目を閉じる。
「そのまま、大きく息を吸え」
 2・3度、しゃっくりの様な痙攣を繰り返すのどを動かし息をすると、少しだけ頭の中が正常な動きを取り戻す。
「もう一度、手を見てみろ」
 おそるおそる太郎が目を開けて両手を見てみると、そこには少し日に焼けたいつもの手が開かれている。さっきまで、べっとりと手に的割りついていた液体は影も形もなくなっている。
「……あれ!?」
 踏切の中にも、先ほど太郎が見た少女残骸はどこにもなくなっていた。
「ただの幽霊だ」
 さっきと同じように無色透明な声色へともどった甲斐の声が、呆然とする太郎の耳に響き渡った。
 

■2
 サラダボールの中に山盛りに盛られたご飯が消えていく。
「さっきあんなに肉まん食ってたのに」
 あきれたように呟く太郎。
 目の前の甲斐は、すごいスピードで箸を動かし、口の中にご飯を放り込んでいた。食卓には、空になった大皿がいくつも並んでいる。
「力はエネルギーを使う。それに、おばさんの作る料理はうまいから箸が進む」
 太郎の言葉えお聞いた甲斐が、淡々とした表情で短く言い切り、止めていた箸を動かす。
 彼の両親は共働きで忙しいため、仲の良い隣家の佐藤家で、食事をするのが通例になっていた。もっとも太郎の母も最近は習い事に忙しいらしく、食事だけ作ってあり、本人はいないことが多い。

「で、何だったんださっきのは?」
 目の前に並べられた食材を食べ尽くし、ようやく甲斐が箸を置いたトコロで太郎が切り出した。
「さっきの?」
「あの、女の子のことだよ」
 眉の一つも動かさず、器用に首だけをかしげる甲斐。少しの間その姿勢で止まり、手のひらを拳でぽんとたたく。
「あの少女のことか」
「わすれるなよ……」
「そうか? よくあることだが?」
 そういいながら、冷凍庫を見つめる甲斐。
 突如、冷凍庫の扉が自然に開き、レディーボーデンの大きなアイスカップが甲斐に向かって飛んでくる。最早、太郎にとって見慣れた光景だった。襟首をもたれた太郎が首を圧迫されなかったのも、踏切で動きを止められたのも、全て甲斐のこの力のせいだ。
「あんなのをよく見かけてたちゃたまんないよ。やっぱり幽霊なのか?」
 いつもより、力のない声で聞く太郎。あの踏切から家に帰るまで、何度も何度もおう吐し、帰ってからも、水以外、何も受け付けていなかった。
「そうだ」
 そんな太郎を冷ややかに見ながら、アイスを口に運ぶ甲斐。
「なんで幽霊が俺の前に。初めてだぞ?」
「波長が一緒だっただけだ」
「波長? なんだそれ?」
 甲斐の言うことを要約すると、どうやら幽霊を含めて存在しているモノには全て波長というモノがあり、それが近ければ近いほどお互いに影響を与えやすいとのことだった。つまり、幽霊とでも波長さえあってしまえば、霊感などなくても、姿を見たり、さわったりと言うことが可能らしい。
「ようするに、波長が似ているほど相性が良いってことなのか?」
「一概にそうとも言えんが、近いな。波長が合っている恋人は長続きする傾向があるらしい。そう、この雑誌に書いてあった」
 そういって、甲斐が足下の鞄から表紙にピラミッドの絵が描かれた雑誌を取り出す。タイトルは『月刊ムー大陸』。心霊現象などに興味のない太郎でも知っている、有名なオカルト専門誌だ。彼はその雑誌を大切そうに両手で持ち、誇らしげに太郎へと見せつける。
「いや、まぁ、お前の趣味を今更どうこう言うつもりはないけどさ。本当かよそれ?」
「本当だ。UFOや宇宙人のグレイなどはまだ見たことないが、ココに載っている超能力に関することや霊に関することは全て真実だぞ。確認済みだ」
 相変わらず顔の筋肉を一切動かすことはないが、いつもの無色透明な声色とは違い、はっきりと情熱が籠もったような声で言い切る甲斐。
「ま、まぁそこまで言うんなら、本当だろうけど。で、あの娘はたまたま波長が合った俺に、なんであんな光景を見せたんだ? 誘い込んで殺そうとしたとか?」
「決まっている。助けを求めていた」
「俺に? なんで?」
「幽霊はたいがい2つに分類される。自分が死んだことを受け入れられず、手当たり次第に生者を襲うモノ。もう1つが、彼女の様に自分が死んだときの記憶に縛られてしまい、永遠に死の瞬間を繰り返すモノ。彼女の場合はおそらく後者。しかも、なにか違う要因も加わっているようだ」
 ググっとアイスに刺さっていくスプーンと、踏切に挟まって立つ少女の足が重なる。
「あと、彼女はかなり長い間、あそこにいるらしいな」
 そう言ってさっきの雑誌を開き太郎に差し出す。
 そこには、「地方特集」という大きな文字の下に「怪奇! 踏切の中に立つ少女の霊」というタイトルが、とろけたような赤い縁取りの黒文字で描かれ、先ほど見た踏切と少女写真が掲載されていた。
「貸してやる。後ろの方に『幽霊への対処法』も読んでおけ」 
 そして、下手に波長が合う者が近づくと彼女の死の記憶に巻き込まれ、ショックで死んでしまうこともある。ああいうモノは見なかったことにして忘れてしまった方が良いと太郎に告げ、隣の自分の家へと戻っていった。

■3
 玄関を開けると突き刺すような冷気が、むき出しの顔を打つ。Tシャツの上に厚手のシャツを着込み、その上に厚手のコートを羽織っていたのだが、それでも外の空気は襟元や袖の先から容赦なく襲いかかってくる。
 腕時計を見ると短針は2の数字を指している。大きく息を吸い込むと、冷気のため喉がヒリヒリと痛む。
「よし!」
 小さく気合いを入れて、玄関のドアを閉める。鉄でできた少しぶ厚めのドアは、太郎の迷いを試すようにノロノロと閉じていき、ガチャンという音共に逃げ道をふさいだ。
「い、いくぞ」
 再び小さく気合いを入れて、夕方通ってきた学校へと通う道へと足を踏み出す。
 頭の中ではさっき読んだ記事を反芻していた。
 少女の名前は三木谷涼子。今からちょうど10年前、7歳の時に事故に遭い他界。事故の原因はやはり列車に轢かれたこととあったので、おそらく太郎が目の前で見たことそのままだったのだろう。
 そして、事故直後から何人かの人が踏み切りの中に立つ少女の姿を目撃していた。
「10年か……長いよな」
 それと同時に、帰り際の甲斐とのやりとりを思い出す。
「それだけわかってんなら何で助けなかったんだよ! お前なら持ってる力で幽霊でも助けることができるんだろ?」
「同じのがこの町内だけで何百体といる……きりがない……」
 言いながら、今日初めて表情を作る甲斐。 その端正な顔には、今まで見たことのない悲しみが刻まれていた。
 確かに、力があると言うだけで街のあちこちで人が死ぬ光景を見せられてはたまったモノではない。実際、今歩いている道路にも幽霊が苦しんでいるのかもしれないのだ。生まれてから死ぬまで絶えずそんなモノを目撃していたら、正常な精神状態を保つことすら難しいだろう。
 それに比べて、涼子の死の記憶を見て震えていただけでなく、自分の罪悪感を隠すために彼女の救出をなすり付けてしまった自分の器の小ささを考え、太郎は大きくため息をついた。
「小さいのは背だけで十分なのになぁ」
 白い息を吐きながら呟き、ともすると止まりそうになる震える足を拳で殴りつける。
 甲斐の様に強く冷酷に割り切れない太郎は、せめて彼女を救い出すしか安心できる方法を思いつかなかった。
「最低だよな。おれ……」
 足は一歩一歩、踏切に向かって歩いていく。もう少し進めば、例の踏切へと近づいていくはずだった。
 頭上では雲の間からまん丸い月が禍々し朱色の光で、太郎の行く手を照らしていた。
 
■4
 ビニールテープでグルグルに巻かれた棒。 それを支える所々のペンキがはがれ、不気味な赤茶けたサビを浮かせた機械。
 作物も収穫され荒々しい地肌をのぞかせた畑が広がる中、その踏切は弱々しい外灯の光に照らされながら静かにたたずんでいた。
 左に右にどこまでも続いていく線路の上に立ちあたりを見渡す太郎。体はすっかり冷えてしまっている。くる途中、照明の明るさに惹かれ思わず入ってしまったコンビニで購入した肉まんの袋だけが唯一の暖かさだった。「……涼子ちゃん?」
 小さく、少し遠慮ぎみに出した呼びかけの声は線路の上に覆い被さる闇に吸い取られ、消えていった。
 来てみれば向こうから話しかけてくれると考えていたのだが、踏切に到着してから数刻。あたりを見回しても涼子が出てくる気配は一切なかった。
「よわったな。どうしよ?」
 波長が合っているのだから、姿がすぐに見えてもいいものなのだが、あの黄色い帽子はどこにも見られない。
「えーと、幽霊の三木谷、三木谷涼子ちゃぁーーーん!!」
 ココで誰かが通りかかったら、絶対変な人に思われるなと頭の片隅で考えつつ、もう一度声を限りに叫んでみる。少し、息が切れ、叫んだ後は喉がヒリヒリとした感触を伝えてくる。
「時間が遅かったのかな?」
 あれだけ緊張して来たことを考え、肩を落とす太郎。そのとき、後ろから伸びてきた手がトントンと肩を叩いた。
「お、おわぁ!」
 慌てて振り返ってみると、太郎より少し背が低めの少女が立っていた。忘れようとしても忘れられないその姿は、あの踏切の中に立っていた少女・三木谷涼子だった。
 夕方と違うトコロは、無表情だったその顔に、かわいらしい笑顔が浮かんでいることだろう。
「ああ! 良かった!」
 さっき失望していただけに、小躍りしそうなくらいの嬉しさをかみしめる太郎。
 それを見た涼子も嬉しそうにクリッとした目を大きく見開く。とても、十年以上も列車に轢かれ続けている少女には見えなかった。
 ぷっくらと膨らんだ頬、スッと通った鼻筋、そして丁寧に編み込まれた三つ編み。顔が青白いことをのぞけば、どこからどう見ても普通にランドセルを背負って通っている可愛い小学生だ。
 壊れそうなほどの小さな手を触ってみると、冷たいがスベスベの肌の感触をしっかりと感じることができる。長い間、人の感触に飢えていたのか、彼女は太郎の手を両手で掴み、体温を移そうとでもするように頬をすりつけてきた。
「おい、おい」
 少し笑いながら、黄色い帽子の上から彼女の頭を優しくなでる太郎。涼子は気持ちよさそうに目を細める。
「さて、どうしようか? 甲斐の言う通りだったらしゃべれるはずなんだけど? 俺の声聞こえる?」
 コクコクと2・3度頭をお下げを揺らしながら頷き、口を開く涼子。しかし、その口からあどけない声が漏れることはなかった。
 パクパクと口が閉じたり開いたりしているトコロを見ると、本人はしゃべっているつもりなのだろうが、全く声は聞こえてこない。「え、なに?」
 少しでも声が聞こえないかと、耳に手を当てて少女の口の前に持ってくるが、口からは何の音も紡ぎ出されていない。
「うーん。ごめん。聞こえないよ」
 耳を話し少女の顔をのぞき込む。
 本来ならばかなりかがまなければいけないのだが、太郎は軽くかがむだけで事足りた。
 ついに、顔をちょっとしかめる様にして、何かを叫びだす涼子。幽霊には血の気というモノがないのでわからないが、本来ならば顔を真っ赤にしていそうな程、必死に何かを伝えようとしている。
「こまったな。こっちの声は聞こえるんだよね?」
 太郎の言葉に頷く涼子。
「ええと、こうやって俺が涼子ちゃんを見ることができるようになったのも何かの縁だから、キミを助けたいんだ。でも、俺には特別な力はないから。何か方法を知ってたら教えてくれないかな?」
 太郎の言葉を聞いて、何か考え込むように柔らかそうな頬に人さし指をあて、首をかしげる涼子。
「甲斐が、あの時、俺と一緒にいた友達がいうには、涼子ちゃんが無意識のうちに死んだときの記憶を再現しちゃってるらしいんだけど? なんとか、それを止めることができないかな?」
 驚いた表情で首を振る涼子。全く自覚がなかったのか、必死に首を振って否定の意志を表す。
「ん? そうか。急にそんなこと言われても自分じゃわからないもんね」
 10年以上も苦しんできた原因が自分にありますと言われても、普通は納得するはずない。どうやって、目の前の少女を説得しようかと必死に考える太郎。
 セリフが思いつかないまま彼女の正面に回り、両肩の上に手をのせる。
「いい? 良く聞いてねって、ん?」
 彼女の顔を良くのぞき込める格好になっ他ところで、彼女の表情に深いおびえが刻まれていることに気づく。目が大きく開かれ、全身ががたがたと震えている。そして目線は正目の太郎でなく、その遙か後ろに注がれているように見えた。
 ゴットン……ゴットン。
 地鳴りにもにたわずかな振動が、足下の線路から伝わる。後ろからは、不気味な悪魔の足音の様な重く暗い音が響いてきていた。
 急速に胸の中の不安が、肥大し、理性まで浸食し始める。
「まさか……」
 おそるおそる後ろを振り返って見るとそこには、遠くの方からゆっくりと太郎たちに向かって動き出し始めた、真っ赤な列車の姿があった。
 ズルッ。
 足下がわずかに動いた様な違和感の後、涼子に目を戻してみると、彼女はいつの間にかレールとコンクリートの足場に挟まった左足を必死に引っ張っている。
 夕刻に見た光景が再び目の前で再現されようとしていた。
 
■5
「クソクソクソクソ!」
 必死に涼子の足を引っ張る太郎。だが、引っかかっているだけの足は、少しも抜ける気配がない。
 ゴットン、ゴットン、ゴットン。
 後ろを振り返ると、夕方の時と違い、何故かじらすようゆっくりと近づいてくる電車が見える。幽霊の記憶だとしても、ぶつかれば太郎自身もどうなるのかわからない。
「そうだ。甲斐を呼べば!!」
 こんな時だけ都合がいいと思いつつ、ポケットの中を探り携帯を取り出す。 
 手にからみついてくるジャラジャラとついたストラップを払いのけながら、折りたたまれた携帯の上部を勢いよく開く。
「チクショウッ!」
 そのまま、携帯を勢いよく地面へとたたきつける太郎。地面に転がる携帯の画面にははっきりと圏外とかかれた文字が見て取れた。 後ろを振り返ると電車が徐々に速度を上げて近づいてきている。血だまりの中、涼子と一緒に転がる太郎の首が脳裏に浮かぶ。このまま手を放してあの線路の向こうに逃げれば助かるかもという思いがよぎり、少し手に込められた力が弱くなる。
 ドンッ。
 か弱く細い手に突き飛ばされ、太郎は尻餅をついていた。正面には、大粒の涙をボロボロとこぼしながら、引きつる頬を無理矢理ゆがめて笑う涼子。声は聞こえないが彼女の唇ははっきり『逃げて』という形に動いていた。
 かぁっと頭に血が上り顔が真っ赤になる。少しでも逃げようと考えていた自分に激しい嫌悪感を覚える太郎。
「ふざけるなぁっ!!」
 地面についた手のひらに力を込めて体を起こし、右足を勢いよく後ろへと蹴り出す。太郎の体は前へと押し出され、線路の前に立つ彼女の体に抱きつく格好で、小さな体を包み込む。
 ブゥワァァァーーーー!! 
 後ろで電車が咆吼をあげる。姿を見ることはできないが、足下の振動が大きく、細かくなっていることから、夕方みたように電車の速度が上がり、最後の瞬間が近づいていることがわかる。
 電車も含めて全てが涼子の一部。涼子にさわれるということは十中八九、太郎も電車に引かれ、バラバラの残骸へと変わるだろうことはカンタンに予想できる。
 小さな手が震えながら、ぎゅっと力を込めて太郎の腕を掴む。小さな爪が皮膚に食い込み血がにじむ痛も気にとめずに太郎は笑っていた。
「大丈夫。どうにかなるって!」
 何もできない自分の非力さにうちのめされながらも、唇をゆがめ笑顔を作る。自分の体をクッションにし、ぶつかった瞬間に涼子を放り投げるくらいしか救出方法が思いつかない。
 自分の胸もとに顔を埋める幼子を見つめ、もうすぐ来るであろう最後の瞬間に備えた。
「そういえば、アイツにあやまっとくの忘れてたな……」
 未だにがっちりとくわえ込まれている小さな足にそっと手を添え、少しでも早く動ける様に体中に両手と両足に意識を集中する。
 脳裏には悲しそうな目をした甲斐の顔が浮かんでいた。
 ゴトン、ゴトン、ゴトン。
 地鳴りは激しくなり、列車の風を切る音が間近で聞こえる。
 涼子の肩に置いた手と足に添えた手にそっと力を込める。
 何をするつもりなのかようやく悟った驚いた顔で、太郎を見上げる。
「いいから、他人(ルビ:ヒト)のことより自分のことだけ考えて」
 そう言って、できる限り優しい微笑みを浮かべようと頬を動かすが、うまくできているかどうかは太郎にはわからなかった。
「全くだ。そのことば、そのままお前に返す」
 突如、耳元で聞き慣れた平坦な声が響き、体がふわっと浮き上がる。
 あれほど引っ張ってもはずれなかった涼子の足もあっさりとはずれていた。
 ゴウン、ゴウン、ゴウン!
 悔しそうな風きり音を立てながら、後ろでは獲物を奪われた電車が通りすぎていく。
 およそ10メートルほど体が浮き、静かに地面へと引き戻される。
 後ろにはいつの間にか現れた、甲斐が能面の様な美しい顔を月光にさらして立っていた。
「お、お前、どうして? なんでここにいるんだ?」
「お前みたいな単純馬鹿がここにくるだろうことは予想できたたからだ」
 そう言って、太郎の横を通り抜け太郎と同じように呆けた顔をしている涼子に歩み寄る。そして、夕方、太郎にやったように彼女の襟元をひょいとつまみ、持ち上げる。
 展開についていけない涼子は抵抗することも忘れ、されるがままに空中で手足をプラプラと揺らしていた。唯一、クリっとした両目だけが自分が助かったことを理解できず、不安げにキョトキョトと動き、踏切と、太郎と、甲斐を順番に見つめている。
「お、おい、何やってるんだ」
「なんだ? 助けた相手に礼もなしか?」
「あ、ああ。ありがとう……」
 何か納得できないモノを感じながら、とりあえず目の前に立つ甲斐へと頭を下げる。
「よかろう」
 珍しく唇を歪め、いびつな笑みを浮かべる。そのまま、催促するように猫の様な感じでぶら下げている涼子へと視線を移す。
 彼女は何か言うように2・3度口を動かし、ぺこりと頭を下げた。
「わかった。だが、『綺麗なお兄ちゃん』は余計だ。わかっていることは言わなくて言い」
 笑みを消し、まじめな顔で涼子に言う甲斐。涼子は少し慌てて、律儀にぺこりと頭を下げた。どうやら、太郎と違って言葉も聞こえる様だが、太郎は驚かなかった。
「まぁ、お前はなんでも有りだからな。ああ、涼子ちゃん相手にしなくていいからね。で、俺たち助かったんだよね?」
 少し呆れて煙をよけるように手を振りながら、太郎が甲斐に声をかける。
「いや、まだだ」
 甲斐の体が少しボウっとした青白い光に包まれる。
 それと同時に、足下に、青白く光る太めのホースのような管が浮かび上がる。管の長さは涼子から踏切までちょうど10メートル程度。青白く光りながらでこぼことした表面を小さく震わせながら、何かを送っているようだ。太郎は見たことがないのでわからなかったが、それはちょうど人の腸そっくりの形状をしていた。
「なんだこれ?」
 さわると、少し生暖かく、グニュっとした弾力を指に伝えてくる。さわり心地は最悪だった。
「なぁ、甲斐。なんだよこれ?」
「太郎、いくぞ……」
「え、なにが?」
 ブチィンッ!!
 鈍い音が響き、涼子が痛そうに顔をしかめる。そして、足下の管が突如、ちぎられたミミズの様に激しくのたうち回り始めた。
 オオオオォォォォッン。
 踏切の中から、身を底から震わせる声が響く。この世にあるどれとも似ていない、獣の咆吼。
 ゴト、ゴト、ゴト、ゴト、ゴト、ゴト、ゴト。
 踏切を見てみると、すごい速度で巻き戻しのように列車が後ろ向きに横切り、先ほど出現した場所へと戻っていく。
 そして、ググっと先ほど涼子の足を挟んでいた溝の部分が盛り上がり、バカンッと勢いよく溝が割れる。割れた溝の中には、大振りカッターナイフの様な鋭いキバがぎっしりと並ぶ。高さは大人の腰くらいまで、大きさも大の大人をすっぽりくわえられるほどの不気味な口が出現していた。
「な、なんだぁ!?」
「口だ」
 当たり前の答えを返され、少しムッとしながら甲斐を見返すと、彼の前に立つ涼子が、さっきとは比べものにならない程引きつった顔で、ガタガタと体を震わせていた。
「涼子ちゃん?」
「太郎っ! 後ろ!」
「う゛ぇ!?」
 涼子に駆け寄ろうとした太郎の足に、管が絡まり体を持ち上げる。涼子より少し高いだけだった目線が上にあがる。甲斐の目線を追い越し、ついには完全に2人を足下に見下ろすまでになる。
 そして、すごい勢いで踏切の中に出現した口へと引き寄せられていく。
「おわぁぁぁぁぁぁ!」
 速度はジェットコースター並。足から真っ直ぐに、下向きで万歳をするような格好の太郎が口に向かってつっこんでいく。
「こんの馬鹿野郎がぁ!!」
 下では珍しく顔を歪めて感情をむき出しにした甲斐が、さらに早い速度で走っている。 足下を見ると嬉しそうに大きく口を開くが、獲物を届くのを今か今かと待ちかまえている。
「オオォォォォ!」
 甲斐の雄叫が上がり、さっきの青白い光が当たり一面に満ちる。見ると、踏切の周りだけ昼間の様に明るくなっていた。

■6
 ボスンッ
 予想したより遙かに間抜けな音と、緩やかな衝撃が太郎の体を襲う。そして、ゴチィンという音と共に目の中で綺麗な星がキラキラと瞬く。
 目を開くと倒立をするような形で、額からコンクリートの地面へと落ちていた。
「あれ?」
 額の痛みに顔をしかめながら顔を上げると、さっきの口に長身の誰かが立っている。 サラサラの髪が目まで目深にかぶり、普段は滅多に感情を表さない顔が、苦悩するように歪む。
「甲斐ぃ!」
 口の中には甲斐が、ちょうど顎の辺りを必死に抑えながら立っていた。鋭いキバは、半ばまで太ももの部分に食い込み、血に塗れて光っている。
 状況から見てみると、太郎が口の中へと運び込まれるより早く甲斐が飛び込み、すごい勢いで飛んできた体を受け止めたらしい。
「無事……か?」
 さすがに、足を食いちぎられそうになのは応えるのか、脂汗をびっしりとにじませながら震えた声で呼びかける。
「馬鹿野郎! お前何やって……」
 図らずもさっきの甲斐の怒声と同じような言葉を放つ太郎。
「俺はいい。それより……あの……少女を助けてやれ……」
 そう言ってぎこちなく顎で指す先には、フラフラとこっちに近寄ってくる涼子の姿があった。その目には先ほど感じた意志の光はなく、何かに操られているようにも見える。
「涼子ちゃん! こっちに来ちゃだめだ!」「無駄だ。こいつが操っている。声は届かん」
「な、なんなんだよぉ、そいつ」
「決まっている……もう一つの……幽霊……だ」
 『自分が死んだことを受け入れられず、手当たり次第に生者を襲うモノ』という言葉と、『しかも、なにか違う要因も加わっているようだ』という甲斐の言葉が脳裏に思い浮かぶ。
 頭の中で、過去と現在の歯車がかみ合い、ひとつの答えを導き出す。
「こいつが、涼子ちゃんを捕まえていたのか?」
 さっきは気づかなかったが、口を覆っていたコンクリートは吹き飛び、さっきの管の様な肉の面がのぞいている。甲斐の足をかみ切らないところを見ると、かなり弱っているのだろう。
「いそげ……電車が……今なら……逃げられる」
 ゴットン……ゴットン。
 線路の奥から、聞き覚えのある音が響きはじめ、足下がわずかに振動を始める。
 このまま行けば、涼子が戻って来て再びひき殺されてしまうのだろう。
 しかし、涼子を助ければ、今度は甲斐が無事にすまなさそうだった。困ったように辺りを見回す太郎の目が足下で止まる。
「甲斐!」
「……なんだ?」
「いつも使ってる力でそこから抜け出せないのか?」
「……だめだ、力がたりん……食った分は全て使い切った……それに……あっても……もう間に合わん」
 以前、食料を補給して超能力を使うには時間がかかると甲斐が言っていたことが、太郎の脳裏に思い出される。
 太郎はゆっくりとかがみ、足下に転がっているコンビニのビニール袋を手に取る。中には冷え切った2個の肉まん。
「……無駄だ……電車が……時間が、ない……早く、ングゥ」 
『逃げろ』と続けようとした口に肉まんのひとつを、投げつける。肉まんは見事に口の中に飛び込み、甲斐を黙らせる。
 そして、もう一つは自分で口にくわえる太郎。冬の空の下で冷え切った肉まんはまずく、香辛料のきついにおいだけが口の中に広がった。残った分は地面にたたきつけ、数歩の距離まで歩いてきた涼子の頭を優しく、ポンとたたく。
「幽霊とはつまり純粋な意志の固まりである。つまり、もし襲われたとしてもはっきりと拒絶の意志を表しぶつけることで、対抗することができる……だったな。確か」
 甲斐から借りた『月刊ムー大陸』に載っていた記事を暗唱する太郎。本来ならその後に、『ただし、それが可能なのは長く過酷な修行をくぐり抜けた修行僧などである。一般人の我々にできることは、ただ、神に祈るだけだ』という言葉が続くのだが、あえて、そこは言わなかった。
 ゴウン、ゴウン、ゴウン!
 先ほどと違い、ゆっくりとした速度で迫ってくる電車。ゆっくりになった分、逆に先ほどより圧迫感を感じる。そして、逃げられないことは先ほどと同じだった。
 自転車程度の速度で向かってくる電車へと走り出す太郎。もう踏切まで2メートルもない。
 バシィィン。
 勢いよく手が電車の泥よけの上の辺り、真っ赤に塗装されたボディへとぶち当たる。激しい衝撃が腕に伝わり、後ろに向かって体が浮き上がった。 
「ま、けるかぁぁぁっ!!」
 精一杯足を地面に伸ばして、摩擦を掴み、体を前に向かって倒していく。線路に敷かれた尖った石たちが、あっさりと靴底を食い破り、柔らかな踵にくらいついてくる。
 ザクザクと勢いよく切り裂かれる足の痛みを無視して、更に手足に力を込める太郎。ガクンと電車の速度が落ち、徒歩程度の速度へと下がった。
 肘をくの字に曲げ、外に折れ曲がろうとする腕に力を込める。焼きごてを神経に直接すり当てるような足の痛みと、ギシギシと鳴る骨の悲鳴。この2つだけが、電車を両腕で止めていると言う非常識な事態を現実だと認識させてくれる。
 ギュルギュルギュルギュル。
 不気味な音を立てながら列車の車輪が空回りする。やや、押され気味ではあるが、電車の速度はハイハイする赤ん坊程度へとさがる。
 しかし、太郎の手足も限界に達しようとしていた。
ズリズリズリと押されていた足が、踏切へのコンクリートのフチに当たる。
「駄目……じゃぁない!!」
 涼子の小さな顔と、すぐ後ろにいるはずの甲斐を思い出し、更に腕に力を込める。
 しかし、ついに、限界が来た。負荷に耐えきれなくなった両手が、肘の辺りがグシャッと嫌な音を立てて曲がる。最初は熱く、次に冷たく、鈍い違和感が両腕から脳髄に向かって送られてくる。
 ズルッっと血に塗れた足が滑り、体が前に向かって倒れていく。
 しかし、太郎の体は倒れることはなかった。か細い手が後ろから伸びてきて太郎の体を支えたからだ。後ろを振り返ると涼子が太郎の腰の辺りを掴み、彼の体を支えていた。 ビクン!
 電車からふるえが伝わってきた。
「ハハハぁ! そういうことかよ!」
 涼子に支えられながら足を前に踏み出すと、電車が押されるままに後ろに下がる。
「そうだよな。お前も涼子ちゃんの一部だもんな! やっぱり、恐怖を克服した本体にはかなわねぇよなぁ!!」
 もう一度、後ろを振り返ると、ハッキリと反抗の意志を浮かべた涼子が、太郎越しに電車をにらんでいる。
 最早、電車は恐ろしい死の記憶ではなくなろうとしていた。
 しかし、太郎の方も全身がボロボロでこれ以上は何もできない。だが、太郎の頭の中にはこの事態を切り抜ける勝算ができていた。
「いつまで待たせるんだ! もう、家でメシ食わせねぇぞ!」
 大声で叫び砕けた腕に力を入れ直す。
「……それは困るな」
 ずっと待っていた声が後ろから響き、目の前の電車が青白い光に包まれていく。
「待たせすぎだよ……」
 その一言を最後に太郎の意識はとぎれていった。
 

所要時間:62時間


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【1133】 短編 サカモト「踏切の中で」 2004/11/18(木)22:21 サカモト (30123)

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