よみかく分室課題部屋

948 １０００字課題、５／１５分、Ｎｏ．１２８「美味しく煮こみました」（４８００文字）

2004/5/14(金)10:49 - 名無し君２号 - 9583 hit(s)

現在のパスワード


Ｎｏ．１２８
題名：美味しく煮こみました（４８００文字）

　勢いよく戸が開いた。
　暗い部屋のなかに亮一はおどりこむも、数歩進んで立ち止まる。眉間にしわを寄せ、
細い眉をゆがめて、鼻をひくひくとさせた。濃密な匂いが立ちこもっていたからだ。
香ばしい、じつに食欲をそそられる匂い。
　カレーだ。でも、なんで？
　Ｔシャツにジーンズ姿の亮一は、素速く視線をまわりに走らせる。
　教室だ。ただし窓ガラスの向こうには深い夜が広がっている。そこから差しこむ青
白い月の光が、並んでいる縦長の机を映しだしていた。机の両端には、それぞれコン
ロと水場が備えつけられている。
　教室は教室でも、調理実習室だった。
　亮一の目が、一点に留まっている。
　窓際の机だ。コンロに青白い炎がついている。大きめの鍋がかけられ、くつくつと
煮こむ音を立てていた。おそらくカレーが煮こまれているのだろう。亮一は鍋に向か
って、一歩踏みだす。スニーカーが床に固い音を立てた。
「せんぱぁい、来てくれたんですね？」
　幸せを溶かしこんだ、じつに浮かれきった少女の声。亮一はまるで幽霊でも見るよ
うな顔つきで、声が発せられた方を向く。
　教卓として使われている机だった。
　そこに人の輪郭がある。おさげの髪で、それほど背は高くない。ふたつの瞳は細い
への字型ににぶく光り、口元は逆への字形に白くぼんやりと浮かびあがっている。そ
んな影の笑顔以外、なにも亮一には伺うことができなかった。
　影の口が動く。
「ずぅぅっと待ってたんですよぅ」
　怖れに染まっていた亮一の瞳に、力が戻ってくる。
「……恵はどこなんだよ、美和ちゃん」
　あはぁ、と笑う声が返ってくる。
「美和ぁ、そんなに見つめられたら、恥ずかしいですぅ」
「ふざけないでくれよ」
　声には勘弁してくれ、との思いがにじんでいた。亮一は後ろポケットに手を差しこ
み、開いてそれを美和に見せつける。携帯電話の液晶が、闇のなかに光った。
「こんなメールを恵の携帯から送って……。メールのとおり、だれにも言わずに来た
よ。これからだって言ったりなんかしない。だから、ね、もう止めにしよう。悪ふざ
けはここまでにしよう。ほら、恵を返すんだ」
　言いながら、亮一は美和に向かって、少しずつ近づいていった。
「返すんだ、だって……」
　低い声で美和が呟いた。ぞくりとする響きに、亮一は思わず足を止める。
「そうなんだ。恵さんは先輩のものなんだ。所有物なんだ。一心同体なんだ。あたし
とは違う。違う、ぜんぜん違う、違う、違う……」
　影がぶるぶると震えている。どんどん震えがひどくなってゆく。ついには手を机に
激しく当て始めた。大きな机が震え、鳴る。
　ぴた、と止まった。
　速くなった亮一の呼吸だけが、教室のなかで唯一の音を立てていた。
　いや、もうひとつ――水滴が落ち、はねる音もする。
　美和の影が、亮一に向きなおった。
「あたしぃ、カレーが得意なんですよぉ」
　からりと明るい声だった。
　それで亮一は思いだし、またカレーの匂いを感じとる。本当なら口のなかにつばを
湧きあがらせる、思わずお腹が鳴ってしまうだろう、とても美味しそうな香り。しか
し、いまの亮一はとてもそんな気持ちになれない。美和がゆっくりと鍋を指さすのを
見つめていた。
「お願いします。あれ、食べてください。そうしたら、恵さんはお返しします」
　薄闇のなか、ちらちらとコンロの炎が揺れている。
　しばらく亮一はその場に立ちつくして、青白い炎と、静かな音を立てる鍋とを見つ
めていた。美和のいる教卓のほうを向いて、鋭く睨みつける。
「食べれば、いいんだね」
　うふふ……と笑い声。
「ええ、食べてくださればいいんです」
　覚悟を決め、亮一は一歩足を踏みだす。だんだんと足の速さを上げていった。駆け
足になる直前で鍋に辿りつく。
　勢いのままにふたを開けた。
　湯気が立ちのぼり、同時に刺激的な匂いも広がる。アルマイトの鍋のなかでは、褐
色のどろりとした液体が、こぽこぽと小さな泡を立てていた。コンロの備えつけられ
ている机の上を見ると、炊飯器に皿とスプーンが置いてある。炊飯器にはオレンジ色
の光がついており、おそらくは保温されているのだろうとわかる。
　ごくり、と亮一はつばを呑みこんだ。決してお腹が空いたからではない。
　すこしだけ弱々しくなった目で、亮一は教卓を見つめる。あいかわらず輪郭しか見
えない美和は、しっかりとうなずいてみせた。
　苦々しい顔をしながら、亮一は皿を手に取る。炊飯器を開け、むせかえるような炊
きたてご飯の匂いに包まれながら、湯気の熱さに耐えてしゃもじを使い、ご飯を控え
めに盛った。ぴかぴかと輝き、粒も立っていて、じつに素晴らしいお米だったのだが、
いまの亮一に感心している余裕はまったくない。横にあった福神漬けとらっきょうに
も気づかず、お玉を手に取った。
　湯気を立てている鍋と向きあう。
　またつばを呑みこみながら、お玉を突っこみ、ぐるりとかき混ぜた。野菜やら肉や
らの固まりが、浮かびあがってかたちを見せる。おざなりにすくって、皿にどぼどぼ
と注いだ。
　ついにカレーライスは完成してしまった。
　カレーなら亮一は嫌いじゃない。むしろ好きだった。が、これは……。迷いがその
ままスプーンに動きとしてあらわれている。揺れて、迷って、いっこうにカレーに向
かっていかない。
「せんぱぁい、は、や、く」
　美和の言葉に背中を押され、亮一はついにスプーンを突きたてた。一気にカレーを
崩し、口のなかに放りこむ。固く目を閉じて、がむしゃらに顎を動かした。
　変な味はしない。まずくもない。いや、むしろ……うまい？
　気の抜けたような感じで、亮一は続けてカレーを口に運んだ。こんどは味わってみ
る。うん、いい味だ。
「どうですか？」
　頬を動かしながら、亮一は素直に答えてしまう。
「おいしいよ」
　たしかにおいしい。香辛料は利いているし、ちょっと辛めな感じがちょうどいい。
にんじんやじゃがいもも崩れていないし、それなのにしっかりと味が染みているし。
ただ、肉だけが妙に固い。なんだか歯ごたえがありすぎるというか。
　はぁ、と安堵のため息が聞こえる。すこし大げさだった。
「美和、安心しましたぁ。先輩、たっくさんお肉食べてくださいね。特別製なんです
から」
　――特別な肉？
　反射的な動きで、亮一は顔を上げた。あいかわらず、美和は笑顔の影で答えている。
音を鳴らして、亮一は息を吸いこんだ。
「まさか」
　まさか、まさか、まさか。
　スプーンが皿に当たって、奇妙なリズムで音を鳴らした。のど元に、酸っぱく脂っ
こく香ばしいものがこみあげてくる。
「この肉は……恵の」
「亮一！」
　叫びとともに、隅にあるロッカーが開いた。教卓にいる美和の斜め後ろに、人影が
飛びでる。そのまま床に転がった。
「恵！」
　皿とスプーンを投げだして、亮一は倒れた恵に向かって駆けだした。背中ごしに陶
器が割れる音と、金属が跳ねる音、床にへばりついて広がる音とを聞きながら、恵に
近寄ってゆく。靴の裏でなにか水らしきものがはねたが、気にしてはいられない。
　恵はガムテープでぐるぐる巻きにされていた。口元を覆っていたらしき黒い布は下
にずれ、首に巻きついている。ほつれた髪が汗ばんだ顔に貼りついて、いつもなら気
の強さを感じさせる眼を隠していた。
　弱々しい声を恵があげる。
「亮一ぃ……」
「大丈夫か。怪我してないか」
　抱きかかえ、長い恵の髪を手でさっと左右に寄せた。ようやく潤んだ瞳を見ること
ができる。恵が鼻をすすった。どうやら無事らしい。詰めた息を解放するとともに、
亮一の体から力が抜けてゆく。亮一はガムテープをはがし始めた。乾いた音が鳴る。
「まったく、恵ちゃんも人が悪いな。カレーを食べさせたいんなら、わざわざこんな
手間をかけなくたっていいじゃないか」
「だってぇ……」
　美和の声は斜め横から聞こえた。教卓から動いていないようだ。
「こうでもしなきゃ、食べさせてあげられなかったんだもん」
「そんなことは……」
　亮一は恵の異変に気づく。眼を大きく見開き、体を小刻みに震わしていた。その視
線は、亮一の肩ごし――教卓のほうに注がれている。
　ふと、亮一は自分の足元がぬるつくことに気がついた。
　スニーカーの靴底を確かめる。やけにどす黒い液体がへばりついていた。夜の薄暗
さでは黒にしか見えないそれが、なにかの血液であることを、なぜか亮一は知ること
ができた。
「だって美和、もう歩けないから」
　恵の震えは止まらない。
　いつのまにか、震えは亮一にまで移っていた。押さえようと思っても納まらない。
やめろ、振り向くな。振り向いちゃいけない。心の叫びに、体は従ってくれなかった。
水滴が落ち、はねる音は、教卓から、美和のほうから聞こえている。
　やめろ、振り向くな――。
「どうでした？　美和のカレー」

時間：５時間

読んで欲しいもの（）は読んでの読者感想、→は作者判断：
・怖さ（ぶるぶる）→怖いというよりグロいかも
・夜の調理実習室（ふうん）→まあまあ

〔ツリー構成〕

【550】１０００字課題根っこ 2003/8/22(金)05:10 名無し君２号 (181)