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1214 『ろり魔女(仮)』全文統合版(124ページ、原稿用紙327枚)
2005/3/21(月)08:38 - 名無し君2号 - 7895 hit(s)

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ろりぽっぷ・れでぃういっちー

   1.いただきます

 赤と青。ふたつの月が空に浮かんでいる。混ざりあった月の光は紫と化して、真夜中のアルハイム大陸を気高い色に染めあげていた。
 高貴な光は、切りたった高い崖にも注がれている。
 それは、崖の上に立つ、ふたつの影にも。
 吹きすさぶ風が、小さな影と大きな影、ふたりを強く撫でていた。
 小さい影がまとっている肩当てつきの黒いマントが広がり、なかのワンピースを覗かせる。膝丈のマントとおなじく黒い生地に、真っ赤な糸で複雑な刺繍が描かれていた。浮きあがった体型は小ぶりで、伸びた手足は細い。
「ふん……エラソーに広がってやがるよな! 聖王都だかエセ王都だかしらないケド」
 かわいらしい声だった。充分な険がこもってはいたが。
 はためく赤い髪にふちどられた顔は、まだまだ幼い。もっとも、そこにあどけなさはかけらもなかった。長いまつ毛にふちどられた目を鋭く尖らせ、桃色の唇をゆがめている。
「エセ王都って、ミューさま」
 たしなめるような声をあげたのは、少女のやや後ろに控える少年だ。
「聖王都メイルウィンドは、いちおう『アルハイムの聖女』とも称されているんですよ」
 癖のない黒髪と、首に巻いた黄色のスカーフとを風に踊らせながら、少年はまっすぐな瞳で少女を見つめていた。緑色の上着からは白い長袖が伸びている。その左手は腰から下げた剣の柄に置かれていた。細長い剣は月明かりに照らされ、ほんのりとではあるが、銀色に輝いていた。
 けっ、と少女が吐き捨てる。
「アシュ。お前はまーたどこかでガジガジした知識だけでものを語るー。あんなもんがなー、聖女であってなー、たまるかよー」
 幼い声で毒づきつつ、びしっと叩きつけるように腕を伸ばした。
「あれはな、むしろ毒婦とゆーの。ちったあ歴史をひもとけー」
 指先は崖のはるか下、地上に広がる街並みへとぶつけられていた。
 都市は円形の城壁に囲まれている。大きな街の中央はさらに城壁で囲まれ、なかでは城が堂々とした姿を見せていた。本来は純白であろう壁は、いまは月光でおだやかな紫色に染まっている。
「とくにあっちはひどいぞ。腐臭がするぞ」
 ミューの指先が、みっつの尖塔を伸ばした城から、さらに向こう、ほとんど外側の城壁に近い場所へと動いた。
 そこでは正方形の建物が平べったく伸びている。城とおなじく、純白の肌を薄紫に変えていた。
「あれは……神殿ですね。メイルウィンドが聖王都と呼ばれるゆえんです」
「お金が大好きな神さまを奉ってる神殿なー。聖女のふりしてバカどもを騙くらかしてんだもん。ハナっからやり手ババアだってさらしゃあいいのにさっ」
 ふふふん、とミューは鼻で笑った。
「ま、このさい聖女でもなんでもいーや。なんてったって……」
 唇の端を曲げる。
「聖女さまはこれから私――魔女に襲われるんだからなっ!」
 ひときわ強い風が吹いた。アシュは手で風を遮ったが、ミューはおかまいなしで高笑いをあげる。頭の後ろでまとめている、赤髪のしっぽが泳ぎまくっていた。
「にゃははははーっ! まったく、陵辱するにはいい夜だーっ!」
「高らかに下品な宣言をしちゃダメです」
「きさま、弟子が師匠に説教するか」
 いまにも噛みつきそうな顔を見せる。八重歯を剥きだしにするも、怖さよりもかわいさのほうが勝ってしまっていた。
「そんなことよりミューさま、いったいどうやって聖王都に侵入するんですか? もちろんご存じだとは思いますが、メイルウィンドは聖なる杖によって守られているんですよ。聖王都に害意を持つものを排除する、不可視の結界が張られちゃってます」
「もちろんご存じだよ。まあまかせろ。ようするに、害意がなけりゃいーんだろ」
 アシュは首をすこしだけ傾げる。
「害意がなければって……だってミューさまは、あそこに封印された魔王を」
「さあ、いっくぞーっ!」
 ぶんぶんとミューは腕を振り回す。
 その腕を自分のおなかへと突っこんだ。黒いワンピースの腹部には大きなポケットがつけられていて、そこに肘までがするりと消えていた。
 がさごそとあさる。
 引き抜いた手には、木の棒が握られていた。
 ずるずると引き出す。己の背よりも棒は長い。と、古びたほうきがあらわれた。やたらと掃く先がけば立っている。
「あのー、下手すれば世界が滅ぶというのに、ぼくたちに害意がないわけが」
「ぐだぐだ喋ってないで、さっさと乗れ、ア、シュ!」
 がばりと細い足を上げて、ミューは取りだしたほうきにまたがる。こらえきれない様子で、体を上下に揺らしだした。
 深々とアシュは息をはく。
 ――こうなったら止まらないんだよなあ。
 ほうきの後ろにまわり、屈みこみ、ミューの腰に手を回した。目の前で真っ赤なポニーテールが横になびいている。
 そっと身を寄せると、熱い体温が伝わってきた。
 ミューが眉間に、わずかに皺を作る。
「ふんっ」
 気合いとともに、ふたりの乗るほうきが、ゆっくりと地面から浮きあがっていった。アシュは強くしがみつく。
 背中ごしに、ミューが深く息を吸うのがわかった。
 うらーっ、と叫び声があがる。
 なにかが弾ける音がしたとたん、凄まじい勢いでほうきは飛びだしていった。空気を切り裂く音に、かすかなアシュの悲鳴を残して、崖下の都へと向かってゆく。



 くわあ、と髭面の男が、大きなあくびをした。寝静まった街の通りに、はわわわわと気の抜けた音が続く。
 となりに並ぶ若者が、とがめるように男をにらんだ。
「先輩、警邏中ですよ」
 髭面の男も若者も、首の部分が空いた青い外衣を身にまとっていた。腹部に紋章の書かれた布が、膝までを覆っている。紋章はメイルウィンドの騎士団をしめす、剣と錫杖が重ねあわされたものだった。腰からは剣の鞘が伸びている。
 先輩と呼ばれた男は、外衣のなかに手を差し入れ、ぼりぼりと掻き始めた。
「そんなに気ィ張るなよ。いったいだれがこの街で悪さするってんだ」
 ぐるりと首を回す。
 まわりには石造りの家々が建ち並んでいた。まるでだれも住んでいないかのように、しんと静まりかえっている。石畳の道路にも、ふたり以外に人影は見受けられなかった。
 紫の月明かりだけが、街の底に漂っている。
「ほれ、酔っぱらいのひとりもいない。おとなしいもんだぜ」
「当然でしょう。ここメイルウィンドは聖王のおわす地。その御許で騒ぐものなどいるはずもありません。どうです、この清浄な気は」
 うっとりとした顔で、若者は鼻から空気を吸いこんだ。
「じゃあ見回る必要だってねえんじゃねえの」
「先輩!」
 ひらひらと男は手を振る。
「わかったわかった。まったく、酒場だってもう閉まってんだぞ。あーあ、北にいたころが懐かしい。あそこは毎夜凍える思いだったが、そのぶんいつでも酒は飲めた」
「堕落です! 我ら聖騎士が酒におぼれるなんて……」
「おおげさだな。お前ももうちょっと人生を楽しむことをだなあ……ほら、我らが神もお空で楽しんでいるじゃないか。本当にいい月……」
 夜空を見上げた男の、髭に覆われた口元から、ん、と奇妙な声が洩れた。
 ふたつの月。赤い女神に青い男神。
 睦みあう二神に、どこからか飛んできた影が重なっていた。鳥にしてはかたちが変だし、大きいし遅い。髭面の男と、若者。ふたりの騎士が目を凝らす。
「おい、あれ、ほうきじゃねえか。人がまたがっているぞ」
「まさか……魔女!」
 若い男は腰の剣に手を回した。
「おいおい。空を飛んでる相手にそんなもん、どうする気だよ」
「ですが、ほうってもおけません!」
「それはそうだ。んじゃあ……おーい! そこの魔女! 速やかに降りてこい!」
 夜空に向かって吠えたてる先輩騎士を、若い男は疑わしい目で見つめた。
「それで降りてくるなら苦労はありませんがね」
「こら! 抵抗しても無駄だぞ! こっちにだって魔法を使えるペテン野郎ぐらい、いるんだからな!」
 ぎょっ、と若者の顔はひきつけを起こしたように震えた。
「せ、聖導師さまになんてことを!」
「なんだ? おれは聖導師がペテン師だなんて、ひとっことも言ってないぞ」
「偉大なる聖術を使えるのは、聖導師さまだけじゃないですか!」
「まあ、おれが魔法使いなんて大っ嫌いなのは否定しない。わけのわからん術を使うわ、やたらと偉そうにするわ。偉いのは偉大なる神であって、お前らじゃねえっつうの」
「いや、まあ、そういった一面もあるかもしれませんが……」
 若者の顔は青ざめていた。
「お。見ろ見ろ。あんがい素直じゃねえか」
 へろへろと蛇行しながら、ほうきは騎士に向かって降りてきた。男はおでこに手をかざし、じっと見つめる。
「ほーう。ほうきって、ふたりで乗ることなんてできるんだなあ」
 のんきな声をあげた男を、若者は針のように細めた目で見つめていたが、やがて、あきらめたように呟く。
「……私は魔女を見ること自体が初めてです。物語だけで」
「おれもだ。というか、そもそも聖導師以外の魔法使いを見たことがない」
 そうこうしているうちに、ふたり乗りの魔女は騎士の眼前に降り立った。
 漆黒のマントをまとった幼い女の子を先頭に、背中には黄色のスカーフを巻きつけた少年がしがみついていた。少年が腰から下げた細長い剣が、銀色に光っている。
「おーい、お前ら。いったいこの都になんのようなんだ。なにをしに来た」
 返事はない。
「おい、聞いてんのか?」
 聞いているようには見えなかった。赤い髪の女の子も、黒い髪の少年も、どちらも口を半開きに、うつろな目で呆けきっていた。よだれまで垂れている。
 騎士ふたりは顔を見あわせた。
「……先輩」
「酔っぱらっているのか……ちょっとアレなのか」
「ひと思いに殺りますか?」
 剣をわずかに抜いた。ぎらりときらめく。
「おいおい物騒だな。杖の結界を乗りこえたということは、とりあえず危険はないってことだろう。ひとまず牢にでもぶちこんでおけばいいんじゃないか」
 まぬけ面をさらしている不審者に向き直った。
「お前ら、名前はなんだ」
 ぬぼーっとしているふたり。
「どこからやってきた」
 女の子が片手をあげた。騎士たちは身構える。のろのろとした動きで、彼女は小指をぴんと立てた。息をのむ騎士の前で、おもむろに耳に差しこんだ。ほじりだす。
 若者が一歩足を踏みだした。
「どうしようもないですよ先輩。イカれてなきゃ聖王都に乗りこんでなんかこない。やっぱり殺ってしまいましょう」
「だから物騒だっつうの。まだなんにもしてねえじゃねえかよ」
 半ばまで剣を抜いた後輩を、髭の男は押しとどめる。ちょうど、ほじっていた小指をたて続けに鼻の穴にいれようとした女の子も、となりの少年に押しとどめられていた。
「ほら、クソガキども、殺られる前にさっさと来い」
 ぴたりと少女の動きが止まる。
「う……」
 半開きだった唇が、ぱたんと閉じた。
「お? なんか喋ったぞ」
「わたし……は、ガキ、じゃ、ない」
 ゆらゆらと揺れている。
「ガキじゃねえって……」
「オトナ、だ。ダイナマイツ・ボディー、の」
 男は吹きだす。となりの若者も笑いをこらえていた。髭に包まれた男の口が、いやらしく曲がった。
「あのな、お嬢ちゃん。大人の女ってのは、もっとすらーっと手足が伸びてな、ボン、キュ、ボーンな体をいうんだぜ。お嬢ちゃんは……まだまだ早いんじゃないかなー?」
 少女は目を大きく見開く。
「デコボコがなくて悪かったなァ!」
「へ――」
 男が言葉を洩らした瞬間、すでに少女はふところに入りこんでいた。マントをひるがえして、右腕を振りかぶっている。
「ギャラクティカーッ!」
 そのまま打ち抜いた。男には、拳《こぶし》が巨大な岩に見えた。
 爆発にも似た打撃音を残して、男の姿がかき消える。
「先輩ーっ!」
 若者の悲壮な叫びが、高々と空に上がった男を追いかけていった。それをあざわらうかのように、男の姿ははるか遠くまで飛んでゆき、みっつ先の通りへと落ちた。
 男をひと筋の流星と変えた少女は、両手で自分の頭を抱えている。
「あーっ、しまったーっ! 魔女ともあろうものがグーでぶっ飛ばしてしまった! 魔法、魔法はどうしたんだァー!」
「ミュー、さま。反省するの、は、そっち、ですかぁ」
 いまだ口が半開きの少年に向かい、少女はグーを突きだす。
「つっこむんならキレよくやれよぅ、アシュ」
 顔面すれすれで止まった拳《こぶし》を上に返し、指を鳴らした。
 少年は目をぱちくりとさせる。
「ここは……」
 きょろきょろと首を動かした。美しく整った家々の建物。風の音しか聞こえない静謐さ。掃き清められている石畳。
 ――ああ、正に、ここは聖王都、メイルウィンド!
 アシュの脳裏に、まざまざと知識が甦ってゆく。おもにミューの書庫で読んだ、『メイルウィンドの歩きかた』という本の内容だったが。
「ということは、あの無茶な作戦が成功したんだあ」
「なにが無茶だ。完璧だったろー」
 侵入を果たした魔女、ミューが口元を袖でごしごしとぬぐっている。アシュは自分の口のまわりもよだれで汚れていることに気づいた。手の平で拭く。
「お、お前ら。どうやって入りこんだ。どうやって障壁を乗りこえたんだ!」
 剣を構え、若者はミューたちをにらみつけていた。しかしその腰は引かれ、語尾は震えている。
「んー? 害意持つものを寄せつけない、見えない壁とやらかな?」
 ぶんぶんぶんと若者がうなずく。
「そうだ。神より授かりし聖なる杖によって、メイルウィンドには不可視の障壁が張られているんだ! よこしまな考えを持つものは侵入できない。できるはずがない!」
「簡単だよー? 悪いこと考えちゃいけないんなら、最初っから意識自体をなくせばいーだけの話だもん」
「い、意識をなくす? そんなふざけた方法で」
「普通じゃ無理だろーねえ。街に入ったら意識を取り戻すなんて魔法なら、たぶん結界は反応してただろう。けっこう優秀みたいだし」
「ならば!」
「だからさ、私たちは意識をなくしっぱなしなの。途中までほうきで飛んでいって、そのいきおいのまま街に入って、で、そんだけ。意識の回復なんてしないの」
 アシュは腰に両手を当てる。自然とため息がこぼれた。
「まったくひどい方法ですよねえ。だれかに見つからなきゃそのまま王都を通り過ぎていただろうし、見つかったら見つかったで、意識を取り戻さなきゃ捕まるし。いったいどうするつもりだったんですか?」
「べつに。エセ王都っちゅうぐらいだから、それなりに警備は厳しいはずだろ。へろへろと空を飛んでいるやつがいたら、まず発見されるはずだ。見つかれば尋問されるはずだし。まあ無礼なことを言うはずじゃないかな。そうなったら、私は簡単にブチキレる自信はあった! キレれば意識なんか取り戻すはず!」
「ミューさま、『〜《なになに》なはず』が五回も出てきてます。というか、自分がキレることは断言するんですか。なんというか……よくご自分をおわかりで」
「おう! エライだろ!」
 あんぐりと口を開けた騎士の前で、ミューはない胸を張り、アシュはかくんとうなだれた。
 ぎり、と騎士は歯をかみしめる。
 剣を振りかぶり、ミュー目がけて飛びこんできた。
 ――なるほど。呪文を唱える前に倒そうというのか。
 この人、魔法使いとの戦いかたをわかっている。それでも、アシュはだまって騎士の動きを見守っていた。
 気合い一閃、剣が振りおろされる。だがミューの頭に届く寸前、すでに彼女は騎士に向かって手を伸ばし終えていた。
 閃光が放たれ、ついで爆音がとどろく。
 ――まあ、無茶なんですけどね。
 ミューは低位の魔法なら、呪文なしで使うことができる。耳をふさいでいるアシュの頬を、熱波が撫でた。
 ふきとんだ騎士は、向かいの家の壁に叩きつけられていた。地面に崩れ落ちても剣を離さないのは、さすがというべきか。倒れ伏した騎士を、赤い炎が舐めている。
 ミューが指を弾くと、たちまち火はかき消えた。黒こげた若者だけが残る。騎士であることをしめす外衣は黒ずみ、ぼろぼろになっていた。
 うめき声があがる。
「お前たち……目的は、なんだ……」
 立ちあがろうと騎士はもがいていた。だが体を起こすことすらできない。
「あの、とってもすばらしい、不屈の騎士道精神だとは思いますが、無理はしないほうがいいですよ。いちおうミューさま、これで殺しは好きじゃありませんから。さっきの人もたぶん――うん、生きてます」
「侵入者も討ち果たせず、お、おめおめと」
 ふん、とミューが鼻で笑った。
「そのていどの怪我、エセ導師ならぱっぱと治せるだろー。さっきのやつは――うん、二、三本骨が折れただけだしー」
「それって、普通なら大怪我です」
「まあ、覚悟に免じて、私たちの目的を教えてつかわそう」
 勢いよく黒マントから左腕を出した。斜めに突き上げる。右腕は腰に当て、ふふんと唇を笑みのかたちにした。
「ここにゃあ封印されてんでしょ? 魔王がさぁ」
 騎士の眉間に深く皺が寄った。
「ま、魔王だと? まさか、お前ら」
「ハイ、正解です! 魔王の復活、それこそが我らの望み! 封印された魔王さまぁ、私たちがいただいちゃいますぅー。にゃはははははーっ!」
 高らかに笑うミューの後ろで、アシュはなげやりに拍手をした。
「さあ、ミューさま行きましょう。これ以上このかたを興奮させちゃいけないです」
「さーて、神殿はどこかなーっと」
 ぶんぶんと肩を回しながら、ミューは歩きだした。アシュもあとに続く。
「待て! 魔王なんか復活させて、いったいどうするつもりなんだ!」
 ミューの白いブーツが止まった。
 振り向いた横顔には、笑みが浮かんでいる。なかなかに邪悪な笑顔だとアシュは思った。それは騎士もおなじようで、動かないはずの体で物音をたてた。
「うふふ……それわぁ」
 騎士が唾をのみこんだ。
「ひ、み、つ、ですぅ」
 にゃははははーっというかん高い笑い声に、騎士の若者は力つきたのか、ぱたりと倒れた。アシュはまだ騎士の命の炎が消えてないことを魔力で感知し、胸を撫でおろす。
「ほれ、アシュ。いくぞ」
 すでにミューは魔法のほうきを取りだし、またがっていた。
「なるべくスピードは抑えめで、その、お願いしたいんですが」
「それは私じゃなくてこいつに言え。パワーが凄いぶん、細かい調整が難しいんだから」
 股の下から伸びたほうきの柄を指さす。
「そう改造したのはミューさまじゃないですか」
 すでにミューは話を聞いていない。
 体を前のめりにして、目をらんらんと輝かせていた。足の爪先で、ぱたぱたと地面を叩いている。超高速とか大爆発とか暴風雨とか、ともかく過剰なのが大好きな師匠なのだった。
 あたりから人の声があがり始める。
 家々の窓が開き、ろうそくだろうか、灯火が見えた。爆発騒ぎがおこったのだから、当たり前ではある。
 覚悟を決め、アシュはミューにしがみついた。端から見たら、自分より小さな少女に抱きついている男にしか見えないだろう。
 だけど、真実は――
「待ってろ、私のダイナマイツ・ボディー!」
 地面から浮きあがった次の瞬間、あたりに強風をまき散らして、ミューとアシュは高々と舞い上がっていった。やっぱりアシュのか細い悲鳴を残して。



 爆発音がとどろいていた。
 たて続けに爆発は起こっている。そのたびに、ぼんやりと緑色の輝きを見せる壁が揺れた。深夜のこの時間、いつもならば神殿内は、冷たさすら感じさせる静けさに満ちているはずであった。
「いったいなんの騒ぎだ!」
 ぱらぱらと天井から落ちたほこりを、騎士姿の女性がうっとうしげに払う。
 見回りの騎士とおなじく、彼女は首のまわりを丸く空けた青い外衣をまとっていた。覗いた腕には鎖かたびら、手には小手、外衣のひらめく膝には金属製のすね当てと、完全装備である。とくに腰から下げた剣は、女性が振るうにはごつすぎるものであった。幅広く、床に届くほどに長い。
「だ、団長……それが、その」
「早く報告せんか!」
 叱責された部下たちが、直立不動となる。
 もっとも、彼女の姿自体はいかついものではなかった。背こそまわりの騎士なみに高いが、つややかな金色の髪に、整った輪郭、筋の通った鼻と、むしろ美しいといえる。
 いまは怒りに目をつりあげ、緑色の瞳を燃やし、赤い唇からは犬歯を覗かせていたが。
「賊が神殿に侵入した模様です!」
 背筋を伸ばして報告する部下を、彼女は厳しい視線で射ぬく。
「賊だと……? 具体的にはどんなやつらなんだ」
「は……それが」
「きさまら、隊長の仕事はだまってつっ立っていることだとでも思っているのか! そんな報告なら子供でもできるわ!」
 彼女よりも年のいった男たちが身を縮こませる。さらに彼女がカミナリを落とそうと口を開けた瞬間、鈍い足音が近づいてきた。
「報告、アレスティルァルファ団長に、報告であります!」
 真っ赤な絨毯を、若い騎士が駆けてくる。団長の名前を呼びかけるとき、どうも舌のまわりがあやしいのは、走っているせいだけでもなさそうだった。
 兜を脱いでひざまづいた騎士に、彼女は顎をしゃくって続きをうながす。
「魔道士が神殿内に侵入、我ら守護騎士団と、迎え撃った聖導師さまたちと交戦しながら、こちらへと向かっています!」
「その魔道士の数、特徴、能力、そして目的は」
「数はふたり、ひとりはまだ年若い――少女といってもいい魔女です! 赤髪に黒い装束をまとい、高笑いをあげながら破壊魔法を唱えています!」
 彼女は片眉を上げる。
「魔女、それも少女といっていい、だと?」
 はっ、とはっきりとした返事があった。
「アレスティルァルファ団長――」
 つっかえながら自分の名前を呼ぶ騎士に、アレスティルァルファはなげやりに手を振った。
「あー、もうアーレスでいい。舌をかむぞ」
「そんなわけにはいきません!」
 若い騎士は、ひざまづきながら吠えた。
「私の名前で部下に怪我などさせられるか! 怪我したいのなら賊と戦ってしろ!」
「りょ、了解しました!」
 落雷のような声に、騎士は思いきり頭を下げた。髪が絨毯につきそうだ。
「あ、あとは男がひとり、こちらは剣を使います! 魔女とおなじく、まだ少年!」
「つまり、それはこういうことか? 我ら騎士団と聖導師たちがそろって、子供ふたりにいいようにやられていると、そういうわけか?」
「は、それは……」
 爆音と揺れが、ひときわ大きくなった。
 天井から落ちるほこりに、小さな石が混じる。アーレスは音のした方角、いま報告している若い騎士がやってきた通路の奥をにらみつけた。
「さっきよりも近いな」
 剣の柄に手を伸ばす。
 そのとき、ほっほっほ、とのんきな笑いが聞こえてきた。
 瞬時にアーレスは身を返す。振り返ったときには、その手には幅広の剣が握られていた。白い刃に、青い残像がまとわりついてゆく。
 剣の先には、老人がいた。
 青い帽子から覗いた髪や、眉、長い顎髭と、見事に真っ白い。剣を首筋に突き立てられているというのに、にこやかな笑顔のままであった。
「タウロン聖導師長どの」
 アーレスは構えを解き、剣を下げる。
 老人は騎士団とおなじく、襟元の丸い、青い外衣をすっぽりとかぶっていた。その紋章は錫杖と三日月が重なりあった、聖導師であることをしめすものだ。外衣から出ている腕も騎士とは違い、白くゆったりとした、手までを覆う長袖だった。
「脅かさないでください。間一髪でしたよ」
「おお、おお。少々早くお迎えが来るところだったな。まあ、死神がそなたなら私には上等といえよう。ほっほ……」
 笑おうと口を開けたとき、またもや爆発が起こった。
 こんどは地面まで揺れだす。笑い声こそあげられなかったが、それでもタウロンは口を笑顔のかたちにした。
「まったくすさまじき力よな。我ら聖導師も、多くのものが真っ黒こげとなったわ」
 笑顔で答えるタウロンを、アーレスは疑わしそうに細めた目つきで見た。
「同士が打ち倒されたというのに余裕ですね」
「なあに、ひとりも死んではおらんよ。あれでなかなか情けはあると見える」
「相手は年端もゆかぬ子供なそうですが? お互い、情けなくはありませんか」
 ほっほ、とタウロンの顔はくしゃくしゃになった。
「魔女ならば、見かけどおりの年とはかぎらんよ。もしかすれば齢千年を経た大魔道士かもしれん。そんなもん我らが敵うわけがないわ。べつに恥ではないぞ」
「ならば聖導師たちを早く退かせたらどうです。これ以上こげる前に」
「とっくに命は出しておる。しかし若いやつらは聞く耳をもたん。日頃習い覚えた聖術を思うぞんぶん振るえるとあって、嬉々として向かってゆくわ」
「そして木々の代わりに燃やされるわけですか。まったくいい薪だ!」
「ほ、ほ、うまいことを言うの」
 笑いだすタウロンにアーレスは背を向けた。剣はいまだ抜いたままだ。
「タウロン師長どのはお退きください。他の師長どのとご一緒に」
「おぬしはどうするのだ、アレスティルァルファ守護騎士団団長どの?」
 アーレスの名前を、タウロンは流れるように発音した。振り向いたアーレスの顔からは、すこしだけだが険がとれていた。
「決まっています。賊を打ち倒すのが、守護騎士たる私の使命」
「やめておいたほうがいいぞ。あやつの魔力、我らなどとは比べものにならん」
「それでも退けませんね」
 大剣を体の前に垂直に立てた。白い刃のまわりに、青い光が立ちのぼる。アーレスの周囲にいた部下たちも、一斉に剣を抜き放った。
「お前たち、死する覚悟はできたか!」
「応!」
「死すべき場所はいずこか!」
「いずこなりとも! されど!」
「されど?」
「敵を殲滅せざりして、我ら死せず!」
「そうだ! 我らメイルウィンド神聖騎士団! 我ら死すとき、敵も死せり!」
「応!」
 高らかに長靴が打ち鳴らされた。
 肩ごしに、アーレスはタウロンに向けて笑顔を見せる。
「……と、いうわけですよ」
「だと思ったわい。まったくお前さんら、かっこいいのう」
 ため息をつきつつ、タウロンがアーレスのとなりに立った。
「しかたない、つきあってやろう。この老いぼれの力も、すこしは役に立つだろうよ」
「――なにを考えておられます、師長どの?」
 探るような顔つきをアーレスは見せた。口が軽くへの字型になっている。
「まだ死人は出ておらんからな、ま、戦っても死ぬことはなさそうだしの」
 ほっほっほ、とひとしきり笑ってから、真面目な顔になる。
「相手の目的がわからん。ひとりも殺していないということは、聖導師会を壊滅させようというわけではない。かといって宝物庫を目指してもおらんから、宝が目当てでもない。書庫も素通り、ゆえに呪文でもない。ならば目的はなんなのだ? この先には――」
 タウロンが振り向いた。アーレスも背後へと視線を送る。
 通路の奥には、黒い金属製の扉があった。
「聖王都の守護宝物たる、聖杖がありますね」
「もしやしたら、やつらの目的は……」
 そのとき、悲鳴に混じってかん高い笑い声が届いた。
 アーレスとタウロンは素早く体の向きを元に返す。まわりの騎士たちも構えを取った。
 光がきらめく。
 瞬間、轟音と爆風が巻き起こった。熱風がアーレスたちを舐める。
「にゃははははーっ!」
 立ちこめる煙とほこりのなかに、大小ふたつの影が浮かびあがっていた。小さい影は腰の手を当て高笑いを繰り返し、大きな影は咳きこんでいる。
「ミューさま、うっ、こんな狭い通路で、げほ、こんな魔法がっはっほっ!」
「むりにつっこもうとするなよ、お前はよー」
 小さな影が手を横に振った。
 風が巻き起こり、白煙が流されていった。賊ふたりの姿が、守護騎士たちの目に明かになる。
 そして、ミューとアシュの目にも、剣を構えるアーレスたちがはっきりと見えた。
「うわあ」
 アシュは声を洩らしていた。
 前方で隊列を作っている騎士たちも、いままでの相手とは凄みが違っていた。が、なによりもいちばん後ろで大きな剣を持っている女性騎士がとんでもない。
 持っている剣からは魔力を感じた。かなり強力なものだ。
 そして、使っている本人からは魔剣以上にこちらを圧する、いわば闘気とでもいえるものが吹きだしていた。
 ――近づけば、コロサレル。
 思わずアシュは数歩下がっていた。
「ミュ、ミューさま。あの人……」
「ああ。ようやく骨のありそうなやつが出てきたじゃーん」
「骨って、間違いなくこっちが断たれます。あれは肉を切らせるタイプです」
「エセ導師にゃロクなもんがいないと思ってたケド、そこそこかもな、あのジジイ」
「ジ……」
 ミューの前にまわり、顔を覗きこんだ。
「ジジイ――おじいさんですか? いや、となり、お姉さんのほうが怖いですよぅ」
「お姉さん――オバハンのことか? そっちはお前の担当だろー、アシュ」
「オバ――」
 背中からアシュは刃物で貫かれた。ひどく冷たい刃だった。背筋を逸らし、そのまま固まる。ゆっくりと下を向くも――腹からはなにも出ていない。傷ひとつない。
 気? これって、闘気とか、殺気?
 でも、痛みを感じるほどの気って……。
 ぎこちなくアシュは振り向いた。
 そして、鬼を見た。
「オバハンだと? いきおくれだと? きさまら、殲滅理由、ひとつ増えたぞ!」
 おそらく、本来は美人だったと思われる整った顔は、それだけに怒りにゆがんだいま、とてつもない恐怖をアシュに与えていた。まわりの騎士たちすら硬直している。
 オバ……お姉さんが体を沈めてゆく。
 相手の動きを目で追いながら、アシュは自分が勝手に腰の剣に手を当てているのを感じていた。
 白い大剣がふくれあがる。
 こちらに向かって斬りかかってきたのだ、と気づいたときには、すでに自分も剣を抜いていた。
 金属音が耳をつんざく。
 目の前には彼女の顔があった。青い光をまとう純白の大剣ごしではあったが、薄く化粧をほどこした顔を、アシュはきれいだと思った。思いながら、よくいまの攻撃を受け止めたと自分を褒めたくなった。
 それは相手もおなじようだ。赤い唇がわずかだが優しく曲がっている。
「なかなかやる……」
 微笑んだと思ったときには、すでに間合いが開いている。間髪いれず、こんどは斜め下から青い軌跡が飛んできた。
 どうにか受けるも、剣が跳ねあがってしまった。
 横あいから斬撃が来る。それは予想だった。崩れた構えでは受け止めようがない。それは確信だった。だからアシュは、跳ねあがった剣を全力で下ろした。
 ただし刃ではなく、握っている柄のほうを。
 相手の剣と自分の柄が当たると思う瞬間、魔力を解放した。
 銀色の光と、青色の光とが炸裂した。
 アシュの体が浮く。そのままふっとび、背中に強い衝撃を受けた。壁だな、と思ったときには、ずり落ちていた。どうにか倒れずに立った。
 三重に見える視界のなか、青白い剣は動かないでいてくれた。
「少年……その剣は、力は」
 視界が二重になった。背中の痛みが前へと浸みこみ、アシュははげしく咳きこんだ。
 うるんだ視界のなか、まだお姉さんは動かない。
「ま、魔剣です。げは、あなたとおなじ、うぷ」
 手のなかにある自分の剣を、あらためて握りなおす。細長い刀身は銀色の光を放っていた。師匠であるミューから貰った、魔法の剣だ。
「私はアレスティりゃひゃ」
 袖で涙をぬぐい、アシュは視界をはっきりさせた。お姉さんはなにやら痛そうに顔をしかめ、手で口元を押さえている。
「あ、アーレス、だ。私は」
「アーレス、さん」
「そうか……おぬし、自分の名前を言えんかったのか」
 声はアーレスの後ろ、騎士たちが作っている隊列のいちばん後方から飛んだ。頬を染めながら彼女は振り向く。
「タウロン師長!」
 そのまま振り向いたままとなった。
 騎士たちの様子がおかしかった。脂汗を浮かしながら、体を小刻みに震わしている。だがまったく動こうとはしない。いや、動けないようだった。
 奥のタウロンもおなじだ。こちらは汗こそ流してはいなかったが。
「すまん。まったく役に立たんかった」
「し、師長?」
 通路中に高笑いが響き渡った。
「ありがとなーオバハン。あんたが人間ばなれした殺気を放出してくれたおかげで、そいつらみーんな意識を逸らした。その隙に、バァーンとさ、麻痺させちゃった!」
 トドメとばかりに、満面の笑顔を浮かべた。
「……嘘でしょう?」
 アーレスの言葉に、タウロンが眉をうなだらせる。
「だっておっかないんだもん、おぬし」
 まわりの騎士たちの眉も、いっせいにうなだれた。
 わなわなとアーレスの肩が震えだした。アシュは足を引きずりながら、ミューの背中へと向かう。隠れ、ミューのマントの肩当てごしに覗きこんだ。
「魔女め! きっさま、よくもやってくれたな!」
 アシュはまたもや鬼を見た。顔を引っこめる。
「ほとんどオバハンのせいじゃんか」
「ミューさま、アーレスさんです、この人はアーレスさん」
 鬼が悪鬼へと変わったらたまらない。
 ふん、とミューが鼻で笑った。
 マントをひるがえしながら、回し蹴りを飛ばす。暴風といってもいい風が巻き起こり、アーレスに襲いかかった。
 青い外衣が切り裂かれ、こなごなになって散ってゆく。下から銀色の胸当てがあらわになった。彼女のサイズに合わせたのか――なかなかに豊かな胸当てであった。
 アーレスはミューの魔法にも剣の構えを崩さなかった。
 なぜかアシュをにらんでくる。
「少年、いいのか、そんな女と行動をともにして! 見かけは幼子でも、そいつは齢千年を越えた魔女、人のかたちをしたおぞましき魔物なんだぞ!」
「だ、だれが齢千歳だオバハン! まだそんな年じゃなーい!」
「聞くんだ少年、若き剣士よ。きみの心がまだ悪に染まりきっていないのは、剣筋を見ればわかる。いまならまにあう! 正しい道を歩め」
「おいババア……おぞましき魔物ってなんだコラ」
 こほん、とアーレスが咳払いをした。
「あー、その、なんなら私がその手伝いをしてもかまわないぞ? それだけの腕があれば騎士団へ入団することだって夢ではないだろうし……うん?」
 熱意のこもった緑色の瞳は、ミューを完璧に素通りして、アシュへと注がれていた。透明人間にされたミューは、体をぴくぴくと震えさせている。
 ――うわあ。
 背中に隠れていたアシュの目の前で、ミューの赤い髪が逆立ち始める。
「い、い、か、げ、ん、に……」
「ミューさま! 落ち着いて、ね、ね?」
「し、や、が、れぇぇぇ!」
 天に向かって吠えたミューを中心として、ひと筋の光があふれでた。光の筋はひとつ、またひとつと数を増やしてゆく。
「イヤァァァァァ!」
 叫びとともに、光が弾けた。
 ――そのころ、神殿での騒ぎに集まった住民たちは、建物から光の柱が噴き上がるのを見たという。



 小石が上から降ってきた。天井ではない。天井は三段ブチぬかれ、すでになかった。
 アシュは、ぽっかりと空いている大穴から夜空を眺めていた。砂を掃いたような星空に、ふたつの月が浮かんでいる。
 ――きれいだ。本当にきれいだ。
 瓦礫を下敷きにした背中がごつごつと痛いのも、気にならないほどだった。
 鮮やかに赤い女神。深く青い男神。
 神は天にありて、おろかな人間を見おろしている。
「これほどまでに世界は美しいというのに……なぜ、どうして人々は争わねばならないのだろう。おろかだ。ぼくらはおろかだ……」」
「なに頭の沸いたことをぬかしてんだ?」
 かたわらで瓦礫が音を鳴らす。
 顔を起こせば、この大惨事を引き起こした張本人が、薄紫の月明かりのなかにいた。膝丈のマントから覗いた足が、やけに白い。
「……だって」
 アシュは起きあがろうとした。足下の瓦礫が崩れ、転びそうになる。緑色の光を放つ、かつては通路の壁だったろう岩のかけらが、下へと転がっていった。
 あたり一面、すっかり崩れさっている。
 天井は言うにおよばず、通路の壁もふきとんでいた。壁をへだてた場所にある部屋をぐちゃぐちゃにして、さらにとなりの通路までを砕いている。床は天井やら壁のかけらが敷きつめられ、なだらかな山々を作りだしていた。
 そこらじゅうから、うめき声が聞こえている。生き埋めにされた騎士たちの声だ。
 鼻の奥がつんとする。気づいたら、アシュは鼻をすすりあげていた。
「な、なんだよ、なに泣いてんだよ、いきなり!」
「だって、ひどすぎますよ、あまりにも」
 手で顔をこする。ぽろぽろと涙はこぼれていった。
「これ、ぜったいだれか死んでるもん。さっきのボーンで死ななくても、このままだとみんな死んじゃうもん。すぐにミューさまキレるんだもんなあ〜」
「うっとうしいなあ、もう。泣くんじゃないよ、男だろー」
「それは男女差別ですぅぅぅ、男だって泣きますぅぅぅ」
 と、アシュの手が熱い感触に包まれた。
 ミューだった。小さな手で、アシュの手を握っている。アシュが顔をあげると、大きな瞳でみあげていた。
 やがて前を向き、歩きだす。手は握ったままだった。
 まるで泣きじゃくる少年が、小さい女の子に手を引かれているようだ。
 ――事実、そうだ。
「べつに死にやしないよ……まあくたばったって私はかまいやしないケド、さっきのジジイが守ってるから大丈夫だろ」
 踏みだすたびに元神殿の瓦礫でできた山が音をたてる。
「ジジ……おじいさんですか?」
 こくんとミューはうなずいた。赤いポニーテールが跳ねる。
「必殺、『イヤーッ! ボーン』が発動する瞬間――」
「ちょっと待ってください。その『イヤーッ! ボーン』って……もしかして、さっきの魔法の名前ですか」
「そうだよ? それがなにか?」
 いえ……、とアシュは残っている涙をぬぐった。
 思えば、師の魔法はそんなのばかりだった。
 爆発させる魔法――最初に出会った騎士を燃やしたやつ――は『燃え燃え!』、衝撃波を飛ばす魔法――鬼のようなお姉さんの服をぼろぼろにしたやつ――は『いやーんばかーん』である。
 ――神秘性のかけらもありゃしないよ。
「文句だったら魔法を作ったやつに言えよな。私は使っているだけなのだし」
「作った人って、もう亡くなっているじゃないですか」
「まだ生きてるよ。さっきのババアの言葉じゃないけど、齢千年を越えてまだ健在」
 ――じつに神秘に満ちた世界だ!
「でな、魔法が発動する瞬間な、あのジジイも呪文を唱えてたんだよな」
「魔法ですか? でも普通の魔法使いじゃ、えっと、呪文を詠唱しながら、手で印を結ばないと、魔法は使えないはずでは」
 呪文の詠唱および結印を省くと、魔力は大きく浪費するが、そのぶん早く魔法を使うことができる――らしい。魔法使いの弟子でありながら、魔法をほとんど使えないアシュには縁のない話だった。ミューほどの高い魔力があれば、ちょっとやそっとのロスは気にしなくていいらしいが。
「普通の魔法使いじゃなかったってことだろー。力を放つ瞬間、たしかに防護壁を張り巡らせてた。だから、あの場にいたやつは全員くたばってない。ホント残念だけど」
 下から染み出る騎士たちの苦痛の声を、ミューは思いきり踏みつぶした。
「魔女の弟子なら、お前も探知ぐらいしてみろい。嘘じゃないって」
「え、ええ……じゃあ」
 素直に従う間すらなく、アシュは手を強く引っぱられた。
「ほら、ババアが復活する前に、早くいくぞ!」
 引きずられながら瓦礫の山を駆け降りる。行く手には黒い大きな扉があった。鈍く光を反射する扉に向かって、ミューは手を伸ばす。
 閃光と爆音が放たれた。
 アシュの目の前で、扉はゆがみ、ちぎれ飛んでゆく。
「うらァ!」
 黒煙のなかへと踏みこんでいった。
 ふたりが部屋の奥へと消えたあとも、通路――かつて通路だった場所に、静けさが戻ることはなかった。助けを求める声、痛みをこらえる声が、石のかけらが積み重なった山の下から、とだえることなくあがっている。
 ――そのとき。
 瓦礫の山が、震えた。
 次の刹那。
 山は噴火した。飛び散る瓦礫のなかから、白い剣が突きでる。青い光を放つ長大な剣に続いて、金髪を持った人の影があらわれた。
 アーレスだった。
 崩れゆく山から這いでる。気合いの声をあげると、左腕を持ちあげた。
「師長! タウロン師長! 大丈夫か!」
 出てきたのは、ほこりまみれの老人だった。右腕に大剣、左腕にタウロンを抱えながら、アーレスは崩れゆく瓦礫を登ってゆく。
「おぬし……ホント、凄いのう」
「タウロン師長も! おかげで死なずにすみましたよ」
 ふるふるとタウロンは首を横に振る。よれよれになった長い顎髭も振られた。
「私の力なんぞなくとも、おぬしは平気だよ」
「部下のことですよ! まだ生きているんでしょう?」
 長袖から覗いたタウロンの手は、複雑に組み重ねられている。魔法の印であった。
「なんとか助けることはできた。だが、このままでは遠からぬうちにおなじ結末を迎えるな。魔法で爆死、圧死は防いだが、息が続かん。早く掘りだしてやらんと」
「魔法で呼吸させることはできないんですか?」
 アーレスの視線は、ミューたちが消えた部屋へと向けられていた。
「残念だがの、同時にふたつの魔法を使うことはできんの」
「あの魔女ならば……どうですか」
「できるかもしれんなあ」
 ほっほっほ、と笑った。ちょっぴり弱々しい。
「いつか聖導師と、あやつら魔道士との関係についてお訊きしたいものですね」
 タウロンをその場に置き、アーレスは聖なる杖が収められた部屋へと進みだした。
「おぬし、私の話を聞いておったか? 掘りださんと死ぬのだぞ」
「掘りだしているあいだに、聖杖は魔女に奪い去られるでしょう。我ら騎士団、すでに死の覚悟はできております」
 剣を一閃させた。
「なるほど……辛いな、団長というのも」
 振り向いたアーレスの横顔には、笑顔が浮かんでいた。深く深く、タウロンは息をはく。初めて老人の顔から、笑みが消えた。
 瓦礫をアーレスは駆けだした。
 三歩も行かぬうちに、遠くからかけ声が届く。
「おーい! そこにいるのは、アレステいらりゅっひゃ……しゅ、守護団長どのか!」
 勢いよくアーレスは振り返る。大きく目が見開かれていた。おっとりとタウロンも振り向く。
 通路の奥に、騎士たちの姿が見えた。金ぴかの装備には汚れひとつない。
「あれは……」
「城からの援軍です……!」
 喜びの声をあげ、アーレスは駆けだす――騎士たちとは逆の側へ。
「タウロン師長どの、部下の件はまかせました! 彼らの手を借りて、どうか掘りだしてやってください!」
「おーいおい、協力して戦わんのかー?」
「やつと闘えるのは……私だけです!」
 ふむ。タウロンはうなずいた。
「そりゃたしかに」
 魔女が消えた部屋へと、アーレスが飛びこもうとした瞬間。
 なかからミューとアシュがあらわれた。
 ぎょ。ぎょ。
 どちらも顔と体を強ばらせていた。最初に立ち直ったのは――
「きさまぁ!」
「ババアァ!」
 ふたり同時だった。
 アーレスが剣を振りあげる。
 ミューは手の平を突きだす。
 まず赤が炸裂した。アーレスは爆炎に包みこまれる。
 ふきとばされながらも、彼女は大剣を振りおろしていた。青い残像とともに炎が断ち切られ、たちまちにかき消える。
 しかし勢いまでは殺せなかった。
 後ろに持っていかれた体を、両足、さらには片手も使ってアーレスは留めようとする。瓦礫が跳ねあがり、跡を残した。足首までをめりこませ、ようやくに止まる。
 たわんだバネが弾けるように、ミュー目がけて躍りこんでいった。
 それを銀色の線が迎え撃つ。
 アシュの剣撃を、アーレスは軽くうち払った。
「少年!」
 ――すみません!
 なぜか心のなかであやまりながら、アシュはアーレスの横をすり抜けた。おなじく逆側を駆けたミューと合流する。
 両手をおなかのポケットに突っこんで、ミューはもぞもぞとあさっていた。ずるずるとほうきを引き出し、走りながら飛び乗る。
 浮きあがる背中に、アシュも後ろから飛びついた。
「封印された魔王、いただいたぜオバハーン!」
 にゃーはっはっはっ、と高笑いをあげながら、天井の大穴から空へと抜けていった。高々とかかげられた左手が、やたらとぎらついている。
 その手には、重そうな首飾りが握られていた。
「封印された魔王……だと?」
 アーレスは目を凝らす。
 ミューは夜空を旋回しながら、あざ笑いを地上に降りそそいでいた。首飾りにつけられた宝石だろうか、赤、青、ピンク、青、緑、いろんな色がちかちかと光る。
「魔王はここの地下に封印されているんだ。いったいやつはなにを言っている? そうでしょう、タウロン師長どの……師長どの?」
 タウロンは固くまぶたを閉じていた。
 真一文字に引き結んでいた口が開き、ぽつりと呟く。
「見事にやられたのー」
「はぁ?」
 すっとんきょうなアーレスの声、そして顔だった。
「どういうことですか。魔王は神殿の地下に広がる、広大な迷宮のなかに封印されているのでしょう? まさか、まっさか〜、……違うんですか?」
 うん。あっさりとタウロンはうなずいた。
「あやつが持っとるだろう。いや〜な感じに光っとる、不気味な首飾り。じつはの、あれに封印されてるの、魔王」
 アーレスの顔から、表情が消えていった。
「……なぜ」
「下の迷宮は罠なのだな。魔王復活をたくらむやからを、まとめて片づけるための」
「いや、しかし、どうして聖杖の間なんかに」
「だってさ、そこがいちばん安全なんだもん。だろう?」
「それは、まあ、そうかも……しれませんが」
「いやあ、まさかやつらの目的が、封印された魔王とはのー。やられたなあ」
 アーレスは聖杖の間へと駆けこむ。
 なかはそれほど大きくはない。人が十人も入ればいっぱいになる部屋の中央、四角い台座の上に、聖王都を守護する聖なる杖はたしかに存在していた。
 杖からは、紫色の光が、煙のように立ちのぼっている。
 台座には小さな隠し扉があった。思いきり蹴飛ばされたかのように、真ん中がへこんでいる。見事に中身はからっぽであった。
 アーレスはとって返す。部屋を覗きこんでいた城からの援軍を跳ねとばした。外に出て、いまだ高笑いを続けながら旋回しているミューたちをにらみつける。
「おい、そこの魔女! 魔王なんぞ復活させて、いったいどうするつもりだ! そんなことをしたら、きさまとてただではすまんのだぞ!」
「――そんなことはわかってるっつーんだよ、オバハンはよー」
 くるくると回りながら、ミューとアシュは下の様子を眺めていた。
 鬼のような形相のアーレス。そのまわりでは騎士たちが少し間隔を空けてとりまき、あれこれと騒いでいるようだった。
「ですから、アーレスさんですって」
「うるさいな、アシュ。お前、なんだってあんなババアに……」
 ほうきの動きが急停止する。勢いで、アシュはミューの背に寄りかかってしまった。
「ふむ」
「な、なんですか」
「でかいもんなあ」
「なにがですか?」
 舌打ちが響いた。うろたえて、アシュはミューの視線を追いかける。神殿に空いた穴のなか、いまだにらんでいるアーレスに辿りついた。
 アーレスの姿はぼろぼろだ。
 ミューとの戦いを経て、上に身につけていた青い外衣は、ただの切れはしとなっている。下の装備、銀色の胸当てや、鎖かたびらがうかがえた。
 胸当て。胸。
 ……胸?
「たしかに、でかいかも」
 瞬間、真っ赤なポニーテールが真横に飛ぶ。
 代わりにあらわれた横顔から、小動物なら見ただけで命を奪われるだろう目つきが、アシュへと叩きつけられた。
「す、すみません!」
 ――なんであやまらなきゃならないんだろう。
 生物に備わった防衛本能であろうか、考えるよりも口が勝手に動いていた。ほかの生け贄を求めるように、ミューの怒りは地上へと注がれた。
「胸……お尻……私だって、ホントならば……」
 自分の平べったい胸をわしづかみにする。ついでその手を胸から宙へと移動させて、わきわきと指をうごめかした。
 切れ味のよすぎる動きで、ほうきの柄を握りしめる。
「ふ、復活させたらまた来ちゃるからな! あーばよー、オバハーン!」
 ほうきの先がぶわりと広がる。
 衝撃音が弾けた。すでにミューたちはいない。かろうじて、浮きあがったアシュが腕だけでミューにしがみつく姿が、一瞬だけ見えただけだった。
 耳をふさいで顔をしかめていたアーレスが、そろそろと手を離す。
「魔王を復活させたら、また、来るだと……?」
 来るなら来い、魔女め! と、大剣を夜空に向かって突き上げた。



   2.よみがえり

「にゃははは、にゃははは、にゃははのはーっ!」
 高々と首飾りを掲げながら、ミューは飽きることなく笑いをこぼしていた。
 壁から床、天井にいたるまでが黒い色で塗りつぶされた部屋のなか、アシュと、三体の人形が拍手をしている。石造りの人形は、赤くごついもの、青くひょろ長いもの、白くスマートなものと、それぞれ違った色、かたちをしていた。
 ――ああ、よかった。
 心の底から、アシュは師の機嫌が直ったことを安堵していた。聖王都からこの住処《すみか》である塔に飛んでくる最中、ずっと怒り狂っていたのだ。道中、無言だったのが怖ろしい。
「ミューさま、これでついに復活ですね!」
「ああ……これまで長かった……ホント、長かったよ……」
 天をあおぎ、ミューは感無量といった面もちで小刻みに体を震わした。
 かっと目を見開く。
「復活だー!」
「復活でーす!」
「復活だー!」
「復活でーす!」
 以下、ふたりのコール&レスポンスがしばらく続く。三体のゴーレムたちも、喋れないなりに、それぞれの目代わりにつけられたレンズをぴかぴかと光らせていた。
「復活しても、いいかなーっ!」
「いいともーっ!」
「みんな、ありがとー! ミュ・シャ、がんばって封印解いちゃいまーす! カモン!」
 勢いよくミューが手を横に払う。
 部屋の中央、ミューの真ん前で円が光り輝いた。円から放射状に光が広がってゆく。光は複雑な模様と文字とを描きながら、床から壁へと這い上がり、天井までも覆いつくした。天井の照明はかき消え、光の線に塗りつぶされる。
 黒の世界だった部屋が、一面の魔法陣へと姿を変えた。
 鼻歌を奏でながら、ミューは中心の円に首飾りを置いた。首飾りには五つの宝石が散りばめられている。真ん中に飾られた血のようなルビーがとくに大きい。それには負けるとはいえ、両翼に並べられた色とりどりの宝石たちも、並よりは立派なものだった。
 うるんだ瞳で、ミューは魔王が封印された首飾りを見おろす。
「なんど、この瞬間を夢見たんだろうな……」
「おめでとうございます、ミューさま」
 うん、ありがと、と素直にうなずいて、ミューは両腕を横に広げる。マントが音をたてて広がった。まるで獲物を狙う大鳥のようだ。
「よし――」
 アシュはつばをのみこむ。
「あとはまかせたぞ、お前たち!」
 くるりと身をひるがえす。歩きだした。
 放置された首飾りと、目のレンズを点滅させるゴーレムたちと、出口へ向かう師と、アシュはいそがしく顔の向きを変えた。
「あの、ミューさま? お師匠さま?」
「どんな封印がほどこされているのか解析しないとさー、さすがの私でも解けないなー」
 背中ごしに手の平をひらひらと振る。
 重々しい足音が鳴った。ゴーレムたちが動いている。赤と青、二体が首飾りを囲んだ。なだらかな体型を持つ白は、ぼけっと突っ立っているアシュの前へと来た。
 三本指のうち一本を立て、ちょいちょいと横に動かす。
「あ、邪魔ってことだね。ごめんごめん」
 あわててどける。
 三体のゴーレムが、首飾りを中心として三角形の位置に立った。同時に座りこむ。赤くてたくましいのはあぐらを、青くて細長いのは正座を、白くて女性的なのは、体の前に折り曲げた足を両腕で抱く、いわゆる体育座りをとった。
 丸いレンズが、ちかちかといそがしく明滅し始める。解析が始まった。
 なるほど、とアシュはうなずいた。
 ――手を抜けるところは抜くわけか。
「さすがはミューさまだ」
 あらためて感心しつつ師を探すと、すでにいなかった。部屋中に描かれている模様が、入り口のかたちにぽっかりと空いていた。
 いそいで追いかける。すでにミューは廊下の奥に消えようとしていた。
「あの、ミューさま。どのくらいかかるんですか、あれ」
「ひと眠りすれば、たぶん終わるかな。エセ導師のくせして、なかなか気の利いた封印をかましてるみたいだし。どんなコードで組んでいるのかねー」
 だいたい魔道士は朝に眠り、夕方に起きる。
 月が出ているほうが魔力が高まるということもある。夜こそが魔の領域であるということもある。ちょうどいまは夜明け、いつもならミューは寝ている時間だ。
 思いっきりミューはあくびをした。
 しながら、マントを脱ぎすてる。肩当てが床に当たり、音をたてた。アシュは拾う。
 黒のワンピース姿になったミューが、首をぐきぐき鳴らしながら指を弾いた。背中のホックが、ぷつん、ぷつん、ぷつんと、アシュの眼下で外れてゆく。
 すとん、と落ちた。
 くしゃくしゃのワンピースを踏みつけながら、ミューは廊下を進んでゆく。
 アシュはそれも拾う。拾いながら、なるべくミューの白いブーツを見つめつつあとを追った。シルクのショーツ一丁の姿なんて、見たりなんかしない。ショーツの色がごく薄の紫色なんて、もちろん知らない。
「ああ……」
 ミューが奇妙な声をあげた。思わずアシュは顔を上げてしまう。染みひとつない、輝くばかりの背中がまぶしかった。これは不可抗力だよな、と思いこむ。
「もう、ブラのいらない生活ともお別れなんだよな。服だって、下着だって、みんな買い替えなきゃならない。大変だ……ホント、大変だなぁ」
 と、ちっとも大変そうじゃない顔を見せた。
「思えば、この体も悪いことばかりじゃなかったなあ。お肌の手入れなんか気にしなくてもぴちぴちだし、余計なものがないから肩はこらないし」
 両手で薄い胸元を押さえていた。色気自体はまったくもってないのだが、どうも妙な気分になって、アシュはうつむいた。
 だって本当ならば、ミューさまは――
 通路が大きく開けた。
 壁のくぼみに、手すりで囲まれた円形の床がある。床はひとまわり大きな穴の上に浮いていた。見あげれば、天井にもおなじ大きさの穴がある。
 ぱちんとミューが指を弾いた。
 金属音をあげ、手すりが開く。胸元まであるかこいのなかへ、ミューは入っていった。アシュだと腰ほどの高さだったが。
「ん、乗らないの?」
 問いかけに、アシュは腕のなかのマントとワンピースをしめした。
「洗濯しませんと」
「そんなのゴーちゃんに……って、そっか」
 そうである。目下ゴーレムたちは封印解析に忙しいのである。ひまなのはアシュだけ。
「お前も早く寝ろよ。明日はひと仕事なんだから」
 言いながらもあくびをする。
 ミューとアシュは五階建ての塔に住んでいた。場所は聖王都メイルウィンドから西へ、ひとつ山脈を越えた先にある砂漠である。日中は肌がひび割れるほど暑く、夜は霜がおりるほどに寒い。そんな過酷な土地だが、塔のなかは魔法によって適温快適だった。
 砂漠は旅人も行き交うが、塔は蜃気楼によって隠されているので、普通の人間では訪れることができない。普通じゃない人間ばかりが訪問者であった。
 ミューのあくびが終わった。目尻に浮いた涙をこする。
「アシュ……今日はよくがんばってくれたな」
 お姉さん騎士の姿を思い浮かべながら、たしかにがんばったよなと、アシュは心のなかでうなずいた。あの女性は名をアーレスといった。しばらく忘れられそうにない。
 だって、あまりにも怖ろしくて。
「ありがと」
 ショーツ一枚だけのミューが、するりと身を寄せてくる。くいくいと指先を動かした。アシュは屈みこみ、顔を近づける。
 ちゅっ。
 音と、頬にほのかな感触とを残して、師は移動床に戻った。アシュに背を向けたまま、上階へと昇ってゆく。
 思わずアシュは頬に手を当てていた。腕からマントとワンピースが落ち、乾いた音をたてる。しばらくミューが消えた穴を見つめた。
 この塔は五階建てだ。一階が宝物庫、二階が書庫、三階がここ実験室、四階が住居、五階が食料品などを収める倉庫である。五階が倉庫なのは、出入り口が屋上なので、そのほうが便利だからだ。
 アシュは床に落とした服を拾いあげた。魔法の力で動く、自動洗濯つぼはここにある。
 ワンピースを広げてみた。
 漆黒の布地に、赤い糸で複雑きわまる刺繍がほどこされている。たしか、空中に散っている魔力を吸収して、服を身につけたものに与える術印のはずだ。
 ――新しい服を買うって……師はどんな格好をする気だろう。
「服なんだか切れはしなんだか植物なんだか生き物なんだか、わけのわからない服装になるのかなあ、やっぱり。大人の魔道士って、みんな凄いことになってるもんなあ」
 ぶつぶつと呟きながら、アシュは通路の奥に消えた。



 床から壁、天井まで、すべてに柄の描かれた、魔法陣の部屋。
 文字と紋様とが光り輝いて、部屋にいる人物たちを薄暗く照らしだしていた。ミューとアシュ、そして三体のゴーレムが、中央の円を囲んでいる。
 今日のミューは、真っ白なワンピース姿だった。なんら装飾はなく、燃えるように赤い髪もそのままにおろしていた。目覚めていちばんに身を清めたらしい。となりに立つアシュの鼻に、シャボンの香りが漂ってきた。
 魔法陣の中心には首飾りが置かれている。
 魔王の封印されているアクセサリーから、ミューは視線をあげた。
「始めるぞ」
 こくん、とアシュはうなずいた。
 ミューが片腕を横に伸ばす。広げた手のひらの前にゴーレムが立った。人だったら筋骨隆々な赤、弱々しい青、優美かつ上品な白と、個性的な三体が順番に並ぶ。
 赤いゴーレムは屈みこんだ。目のレンズがミューの手の高さに来るようにする。
「うん、うん、そうか。基本は西方式呪封かー、ベタだなー」
 まぶたを閉じながら、ミューはしきりにうなずいている。ゴーレムのレンズがちかちかとまたたき、封印の解析結果を伝えていった。
 強く舌打ちが鳴る。
「いろいろといじくってる……エセ導師のくせになまいきだ!」
 ぶつぶつと呟くミューの元に、青、白とゴーレムが続いた。レンズから読みとるたびに、この構文は――とか、はーい、エラー発見――とか、専門的な言葉が並ぶ。
 ――うん。ちっともわからない。
 高位魔道士の弟子でありながら、アシュはほとんど魔法を使えなかった。ごくごく初歩の呪文ならいくつか唱えることができるが、ミューからすれば一般人に等しい。
 アシュ自身も不思議ではいた。魔法より剣や旅のほうに惹かれてしまう自分のことが。
 ちらりと腰にさげた剣を見る。
 銀色に輝く細い剣は、いつまでも魔法のできないアシュへとミューがくれたものだ。軽く、強く、切れ味鋭く、魔力を伝えまでする。不肖の弟子には過ぎた装備だろう。
「よーし、だいたいわかった! これならなんとかなるぞ!」
 両手を打ち鳴らし、ミューは薄い微笑みを見せた。
「さっそく始める!」
 まるで舞いを踊るかのようななめらかな動きで、両腕が弧を描きだした。数度交差させたのち、勢いよく両手を突きだす。
「うりゃ!」
 首飾りの置かれた光の円を中心として、ふわりと風が巻きおこった。
 肌をぴりつかせる魔力の風とともに、魔法陣に青白い光が走ってゆく。床から壁、そして天井へと輝きは広がり、上に描かれた魔法陣の、中心へと還っていった。
 魔法陣全体が光り輝く。部屋中が青白い光にのみこまれた。
 すでにゴーレムは部屋の隅へと移動している。ミューの邪魔にならぬよう、アシュも後ろに控えた。いつでも動けるよう、ゆっくりと息をはき、体から力を抜く。
 ミューの唇から、言葉がつむぎだされていた。
 古代言語の一種だということしかアシュにはわからない。その艶のある声は、ときに高まり、ときにささやきとなりと、まるで歌のように流れていった。
 歌声が強くなるにつれ、ミューが放つ魔力も増してゆく。
 首飾りから、紫の光が立ちのぼった。
 煙のように揺らぐ紫のなか、首飾りのひときわ大きなルビーが、真っ赤な光を放ち始める。両脇にふたつずつ並んだ宝石も、青、ピンク、緑、黄、それぞれの色で輝きだした。
 ふくれあがった赤が、ほかの宝石の光をも取りこむ。
 そのまま輝きは増し――
 ついに爆ぜた。
 血が噴きだしたような赤の奔流を、アシュは手で遮る。それでも足りずに目を閉じた。まぶたごしに赤黒い世界が渦を巻いている。その激流へとアシュは足を踏みだした。腰の剣はすでに抜いている。
 この剣にかけて、ミューだけは守る。
 そんな覚悟をあざ笑うかのように、いきなり深紅の光はかき消えた。
「成功ぉ……」
 少しだけミューの呼吸は乱れていた。アシュはほっと息をつく。
「しすぎたかな」
 ――成功しすぎた?
 真っ赤に塗りつぶされていたアシュの視界に、他の色がゆっくりと戻ってくる。だんだんと映像が浮かんできた。
 人影がある。
 その数、ひい、ふう、……五つ。
 ――五つ!? 魔王だけじゃないの! 
 思うより早くアシュの体は動いていた。ミューの前に立つ。剣先を五人に向けつつ、緊張に固まろうとする手足からどうにか強ばりを解いた。とんでもない重圧だった。自然と荒くなる呼吸に、感じているのが緊張ではなく、恐怖なのだと知った。
 まず目を惹くのは、銀髪の男だ。
 氷の刃を思わせる、とても冷たい瞳の持ち主だった。肌は透き通るほどに白い。長身かつ細身の体に、鱗のような金属を貼りつかせた黒い服をまとっていた。
 なにより、強い。
 感じとれる魔力もほかの四人とは桁が違う――ミューすらもはるかに越えている! が、それ以上に、男にはこの場を支配する空気があった。
 もっとも、威圧感だけなら決して後ろの人も負けてはいない。
「さーすがは魔王ってとこかー。まあ、そうでなくっちゃ困るんだけどさ」
 いつもどおりの声に、アシュの恐れも薄らいでゆく。
 ――そうだ。これほどの力でなくては、ミューさまの役には立たない。
「しかし、これほどおまけがいるとは思いませんでしたが」
 魔王と思われる男の横には、女が寄りそっていた。一歩間違えれば……間違えなくても、とても淫らな格好をしていた。緑を基本に、黒の絵の具をたらしたような生地の服を身につけていて、それだけならなんということもない。
 故意が偶然かところどころ引き裂いてあって、ダイナマイツ! な褐色のボディーをさらしてなければ、なのだが。
「魔王のコレか? 下品な女だなぁ。趣味はよくないな! 魔王な!」
「ミューさま、その指も下品です。ダメです」
 わざわざミューは腕を突きだしておっ立てた小指を見せてきた。
 こちらの会話を耳に留めたのか、女がウィンクを飛ばしてくる。波うつ紫色の髪をかきあげ、唇をキスのかたちに尖らせた。たわわな胸をゆいんゆいんとうねらす。
「気にくわねー。なんだか気にくわねー」
「お願いですから落ちついてください」
 格好はともかく、彼女の魔力もミュー並だった。
「まともにぶつかれば――」
「勝つさ。楽勝、楽勝」
 いったいどこから、この自信はやってくるのだろう?
 相手は五人、横並びに立っていた。魔王と女はミューたちから見て右側に並んでいる。真ん中には老人がいた。左側にふたり。
 とりあえず老人は飛ばした。横のふたりへと視線を移す。
 そこには針金のような男と、逆に岩石のような男が並んでいた。
 針金は細長い坊主頭で、左目に黒い眼帯をつけている。黒い包帯を体全体に巻きつけていた。岩石はずんぐりむっくりで、体には文字通り石を貼りつけている。
「な、な、うちのゴーちゃんにそっくりだよなぁ。ふふ、頭の中身もかなぁ」
 笑おうとして、アシュの頬は引きつっていた。たしかに、赤ゴーレムと青ゴーレムに印象は似ている。だが、それはいま感じることだろうか。いま口に出すことだろうか。彼らふたりの力だって、ミューといい勝負だというのに。
 最後に、真ん中の老人に目を戻した。
 たいして注意を払わなかったのには理由がある。奇妙なことだが、老人からはまったくもって魔力を感じられなかったのだ。
 もしかすると、完全に抑えているだけかもしれないが――
「カス。問題外だよ」
 すっぱりとミューは断言した。
「あの、もうちょっと、そのー、そうだ、敬老精神を持ちましょうよ」
「魔力のない魔人なんか、存在する価値もないね」
 魔人とは、魔王ならびにその配下たちを指す言葉である。凄まじい魔力を持つからだけではなく、肉体も改造しているからこう呼ばれるらしい。
 人から外れた魔の存在、ゆえに魔人。
 会話を聞いているのかどうか、老人はうすら笑いを浮かべていた。
「さ、て、と」
 ミューがアシュの横をすり抜けていった。正面にいる老人の右へ、銀髪の男の前へと。
 男の凍えるような瞳が動いた。腹の高さほどのミューをとらえる。表情ひとつ変えない男に、あわててアシュはミューのとなりに向かった。
「さーて魔王どの? どういう状況なのか、理解はできているかな」
 わずかに男が笑みを浮かべる。しかし瞳には変化がなかった。
「我々の封印を解いたのだろう。まだ年若い、魔道のものよ」
 銀髪の男の声には、感情というものが感じられなかった。
「それ、半分だけ正解」
「半分と」
「私はな、年若く、美しく、天才な魔女、ミュ・シャさま、だよ」
 一瞬、静寂。
 その後、弾けた。
 乾いた笑い声が男の唇から洩れている。寄りそう女はかん高く、ゴーレムに似たふたりはくぐもり、真ん中の老人は豪快と、みなそれぞれの声音で笑っていた。
「へえ……なにがおかしいのかなぁ……? ミュ・シャ、わっかんなーい」
 逆立ってゆくミューの赤髪に、アシュの肌もぞくりと逆立つ。ミューの怒りの導火線に火がつく。たったいま、火がつくところだよ!
「若く美しい天才魔道士とやらよ。お前にも誤りがある」
「言ってみてくれるかなー? その誤りとやらが誤りだったときは――」
「簡単なこと。私はゾーククラフト陛下ではない」
 怒りに握り拳をかためているミューの体から、ゆるゆると力が抜けていった。拳のほどけた指先を、口元へと持ってゆく。
「ミュ、ミューさま?」
「そっか、この魔王……ゾーククラフトだったのか」
 こんどはアシュの体から力が抜ける。
「驚いたのはそのことなんですか? というかミューさま、魔王の名前も知らないで復活させようとしていたんですか。ちょっとむちゃくちゃ過ぎやしませんか」
「う、うるさいなー、魔王たって何人もいるんだから、いちいち調べてなんかいられないんだよー! そういうアシュはどうなのさ。そもそもお前、魔王がどういうものなのか知ってるのか? ん? んー?」
 矛先を思いきりぶつけられ、アシュは口ごもった。
「ええと……ですね」
 魔王とは――
「人間の敵、ですか」
「ほほーう。なんで?」
「そりゃ、だって、魔王は人間たちを滅ぼそうとしたんでしょう? それを、多くの国の人々と、多くの魔道士たちとが協力して、なんとか討ち倒したんじゃないですか」
「それじゃ半分だけ正解だー。まったくもっておろかな弟子よ」
 氷のような男の口調を真似ていた。罵倒の言葉に感情がないと、なおさらつらい。
「だからさー、すこしは気を入れて学べっつーのさー。魔法はへっぽこで、剣の腕前ばっかり一丁前でさー、お前はだれの弟子なんだー? アレか、狂戦士か」
「まあ……似たようなも」
 思わず出かけてしまった言葉を、アシュはのみこんだ。
 すでに遅い。青白い師の顔色が、おろかな弟子に激怒とはなにかを教えていた。
「へえ、私って魔女どころか戦士だったんだ? 知らなかったなぁ。にゃはは」
「あ、あはは」
「なに笑ってんだアシュてめえコラ、蛙に変えるぞウラ」
 かえるにかえる……シャレですか、とはさすがに訊けない。本当に呪文を唱え始めたミューから救ってくれたのは、ひとつの咳払いだった。
 銀髪の男が、拳《こぶし》を口元から下ろす。
「陛下の御前なのだが」
 心の感じられないつっこみだった。
「そもそもの原因はお前だ! 魔王じゃないなんて、そんな嘘つくなよ!」
 伸びあがりながらミューは指先を男の鼻へ突きつけた。
 その態度はともかく、意見はまっとうなものである。五人のなかでは銀髪の男の魔力がいちばん強いのだから、彼が魔王でなくて、いったいだれが魔王だというのか。
「嘘ではないよ……私の名は銀華のゾフィル。ゾーククラフト陛下の一配下にすぎない」
「じゃ、お前か! それはそれで気にくわねー、なんだか気にくわねーケド」
 ミューの指がとなりの女へと移る。
「それも違うわね、お嬢ちゃん。私はシリナ。緑華のシリナよ」
「じゃ、そこのゴーレム、どっちかだろ!」
 岩石男が吠える。
「う、うぉ、が、うー」
「おれは黄華のコントラだといっている。ちなみにおれはジャンダル。黒華のジャンダルだ。ところで『そこのゴーレム』ってどういう意味だ?」
 コントラと名乗った岩石の横で、真っ黒な包帯男がにやにや笑いを浮かべていた。
「だったら……えっと……えー……」
 だんだんミューの指先は垂れさがってゆく。ほとんど意味をなさなくなった指というか手が、のろのろと老人に向けられる。もはやミューの指が示しているのは自分の足だ。
「コレ……なのか?」
「若く美しい天才魔道士よ。それはあまりにもゾーククラフト陛下に失礼だろう」
 やっぱりゾフィルの声には感情がなかった。おかげでぜんぜん本気に聞こえない。
 大げさに老人は手を振る。
「よい。なかなかいまの寸劇は楽しめた。褒めてつかわすぞ、そこな道化師よ」
 ぐりん、とミューの首が横に傾いた。ぎ、ぎ、ぎ、と音が出そうな動きで、顔の角度が戻ってゆく。
「だ、れ、が、道化師だ……おまけに、褒めてつかわす……だとコラ」
「陛下。このものは魔道士です。――っと、失礼。若く・美しい・天才・魔道士です」
「てめえに言われると皮肉にしか聞こえねえンガーッ! ぜんっぜん心のない声しやがって! 本気で喋れ、どんとぶつかってこんかーい!」
 怒りに噴きあがる魔力に、ミューの純白のワンピースがぶわぶわとと波うった。広がる赤い髪は、まるで威嚇するかのようだ。
「ミューさま、興奮しすぎです。相手は魔王なんですからっ!」
 手足をばたばた動かし始めたミューを、アシュは後ろから片腕で抱き抑える。右手の剣は魔王たちに向けたままだ。
 あらためて、老人――魔王ゾーククラフトらしい――を、見た。
 言われてみれば意外といい体格をしている。床まである法服も豪華なものだった。ただ、顔へ辿りつくと、アシュ以下の魔力もあってか、どうにも冴えない。皺は深く、後ろに撫でつけた髪とちょこんと伸びた顎髭は真っ白だった。
 ――本当にこの人が魔王……?
「どーこ触ってんだよぅ」
「へ」
 火花が飛んだ。
 裏拳を叩きこまれたんだとアシュが気づいたのは、うるんだ視界に、腰に手を当てたミューの後ろ姿が映ったときだった。
「触るもなにも……胸なんかないじゃないですかぁ!」
 こんどは後ろ足で蹴られた。
 威厳に満ちたバカ笑いが湧きおこる。
「愉快、げに愉快! まったくいい笑いの腕だ! なあ、ゾフィル、そうは思わんか。これほどまでに凄腕の芸人は、我らの時代にもいなかった!」
「このボケジジイ、私は道化師でも芸人でもねえ! 超絶天才美少女魔法戦士だ!」
「そふぇふぉだふかとおもいふぁふ」
 それもどうかと思います、とつっこもうとしたアシュの鼻から、ぼたぼたと鮮血がしたたり落ちた。
「ところで、超絶天才美少女魔法戦士」
「なんだンガーッ! だからてめえが喋ると皮肉にしか聞こえねえっつってンガーッ!」
 つばを飛ばすミューにも、ゾフィルは顔色ひとつ変えなかった。
「陛下をはじめとして、私たち魔人を復活させた理由はなんだ」
「魔王以外のやつを復活させるつもりなんかなかったよ! 魔王だって、こんなカスなら復活させたもんか」
 意味をわかっているのか、ゾーククラフトは身をのけぞらして笑っている。それをちらと見て、すぐにゾフィルはミューへと視線を戻した。
「質問を変えよう。どうすればこの結界を解いてくれる」
 ミューの顔から怒りが消えた。伸びあがっていた体が下がり、踵を地につける。
「へえ。気づいてたか」
「魔王を復活させようというのだ、それなりの準備はしていてしかるべきだろう。なるほど、天才というだけのことはある。人間にしてはなかなかのものだ」
 ぐるりと魔法陣の部屋を見まわす。
「このままでは、私たちはこの外に出ることはかなわないだろう」
 ゾフィルから向けられた冷たい瞳を、ミューは平然と見つめ返した。
「あの、ミューさま」
「なんだよスケベーさま」
 まだ痛む鼻をむずむずと動かしながら、アシュはミューの耳元に屈みこんだ。
「どうやら、あのご老人が魔王であることは間違いないようです」
 ご老人はまだバカ笑いをあげている。
「……みたいだな」
「とりあえず計画を進めたらどうでしょうか。たしかにいまは、それこそ羽虫以下の力しか感じませんが……もしかしたら、もの凄い魔力を秘めているのかもしれないです。まっさか配下のほうが魔王より上なんてことは……ないと、思います。たぶん」
 ふむ、とミューは考えこみだす。
 芸人ふたりが黙りこんだのが不服だったのだろうか。
 魔人たちが代わりを務めだした。
「おれは世界を統べる王になりたいんだとみたね。あれは暴君タイプだよ」
 包帯男、ジャンダルがうんうんとうなずいた。となりの岩石男は仁王立ちで震える。
「おぅ、あが、うぇお」
「世界一強くなりたいだって? お前じゃねえんだからよ」
「どうかしら。きっと巨万の富だと思う。見なさい、あの強欲そうな顔を」
 ゴーレムふたりにまで、シリナはしなを作っていた。
「わかっておらんな。すでにやつは世界一の芸人。あとは世界一の王を笑わせることこそが望みだろう。すなわち、我に仕えるためよ」
 誇らしげに魔王が胸をそびやかした。
「……いいだろう」
 ぴくぴくとミューの頬はけいれんしていた。
「これ以上勝手なことをぬかさせれるよりはマシだぁ!」
 激しく瞳が燃えさかった。ゾフィルを溶かさんばかりににらみつける。
「お前らを復活させてやった理由は、たったひとーつ!」
 かしまし魔人たちが、ぴたりと静まり返った。
 聞き耳を立てる聴衆に向かって、ミューは拳《こぶし》を突き上げる。
「この私のぉ、ダイナマイツ・ボディーの、復活なのだぁ!」
 まったく反応はなかった。ただひとり、銀髪の男だけが、まったく感情のない声で、ほう、と言った以外は。
「うーむ」
 真っ白な顎髭を撫で回しながら、ゾーククラフトがうなった。
「いまのはいまいち面白くなかったな」
「だれも笑わそうとなんかしてねえんだよジジイ」
 ミューは手のひらを老人に向けて突きだした。あわててアシュは押しとどめる。『燃え燃え』と魔王をふきとばされたらかなわない。
「超絶天才美少女魔道士よ。ダイナマイツ・ボディーとはなんのことだ」
 はなせ、はなしません、とやりあっているミューとアシュに向かって、ゾフィルが問いかけてきた。
「決まってんだろー! 出て、引っこんで、出ている体のこったーい!」
 抑えているアシュごしに、ミューは両手を使って、出て(胸)、引っこんで(腰)、また出て(尻)と、ゴージャスな女体を描きだした。
 ほう。気の入っていないあいづちが打たれた。
「つまり、こういうことか。グラマラスな体を手に入れる、そのためだけにゾーククラフト陛下を復活させたと」
 爆音がおこる。
 腹を抱えてもだえる、ゾーククラフトの笑い声だった。
「なるほど! そういうネタだったのか! やられた、じつに見事だ! そんな、たかがその程度のことで、我を、この魔王を復活させるとは! いかれておる!」
「……なあ、いっしょにこのジジイ、埋めちゃわないか?」
「そういうわけにもいくまいよ――」
 誘いかけられたゾフィルが目を伏せる。初めて見せた感情だった。
「さて、お前は復活と言った。それは、元々ダイナマイツ・ボディーであったということだ。そこに『なにか』が起きて、いまのような幼い体となった。違うか」
 ミューはじっと銀髪の男を見つめる。
「察しが早くて助かるなぁ。早すぎる気もするけど……なぁ」
 もう魔王に爆炎を飛ばすこともないだろうと、アシュはミューから離れた。ミューとゾフィル、両者は互いに視線をぶつけあっている。決して険悪なものではないが、かといって友好的でもない。なにひとつ見逃すまいと、相手を観察する目つきだった。
 先に視線を逸らしたのはゾフィルのほうだ。顔が魔王のほうを向く。
「陛下、よろしいですか」
 ようやく魔王は笑い終える。と思ったら、ふたつしゃっくりをあげた。大げさにうなずく魔王をたしかめてから、ゾフィルはミューに手を伸ばす。
 手のひらをかざし、小さな体の上から下までをなぞった。
 ほう、とひと声洩らす。
「これは……呪いか。超絶天才美少女魔道士よ、お前は『子供になる呪い』をかけられているな。それもかなり強力なものだ」
「ほほう! どうしてまた、そんな呪縛を受けているのだ?」
 魔王が身を乗りだしてきた。
 なんにも面白えことなんかねーぞ、と呟いてから、ミューは大きく息を吸った。
「嫉妬だ……私に嫉妬したんだ!」
 大きく口を開ける。魔人たちはかわいい八重歯を覗きこみながら、「嫉妬?」と問い返した。
「そうだ。師が弟子をうらやんだんだ! 若く美しかった私をねたんで、呪いをかけ……こんな体にしやがったんだぁ!」
 がしっとミューは自分自身を抱きしめる。
「あれだけのことをやらかしてしまえば、しかたがないかと」
 ぼそりと呟いたアシュに、一同の視線が集まる。魔王は興味津々で、ゾフィルは冷たく、ミューは殺意以外がまったくない、純粋殺意視線だった。
「ねえアシュ。世の中にはいろんな死の原因があるよね。秘密を守れず死ぬやつ……余計なことを言って死ぬやつ……喋りすぎて死ぬやつ……」
「えっと、ぜんぶ口が原因ですね」
「わかってんじゃないか〜ンフフフフ」
「あはは……はは」
「で、どうする? 死んでみる?」
 ごめんなさい。
 凄まじい力を秘めた魔人たちの前で、アシュはミューに向かって平伏していた。この世のなかには魔王より怖ろしいものも、たまに存在する。
「そうですよね! ミューさまがご自分のお師匠さまに、子供になる呪いをかけられたのは本当ですもんね!」
 ふん、とミューが鼻で笑う。いちおうは許しが出たらしい。
 師の様子をうかがいながらアシュは身を起こす。立ちあがるとき――アシュはゾフィルの瞳に、一瞬、燃えあがる炎を見た、ような気がした。
 ――気のせいかな?
「ふむふむ。ではその呪いとやらを解けばよいのだな?」
「ですが、陛下」
 すでにゾフィルの瞳は、元の凍てつきを取り戻している。
「この呪いはかなりやっかいなものです」
「ほほう、ほほーう! それはまた楽しそうな話だな!」
 ちっとも楽しくなんかねー、とミューは舌打ちする。
「呪い自体は単純なものさ。合い言葉を言えばいい、ただそれだけ。ただし――」
「とてつもなく高い魔力が必要となります」
 ゾフィルが話を引き取った。
「高い魔力ときたか! ゾフィル、お前ではどうだ」
「呪いをかけられた当人、この超絶天才美少女魔道戦士を基準として、およそ六倍ほどの魔力でしょうか。私でも倍は必要かと」
「お前でも無理か! それはまったく、愉快な呪いだな!」
 心の底から楽しげに魔王は笑った。
「ですが……陛下ならば造作もないでしょう」
「そうかそうか。わかった。これほど豊かな時を過ごしたのも久しい。褒美として、その呪い、この魔王ゾーククラフトが解いてやろう!」
 ゆったりとした動きで、魔王が腕を大きく広げた。顔には自信やら威厳やら尊厳やらで満ちた笑みが浮かんでいる。
 おおお、と人間ふたりは声をあげた。
「ミューさまミューさま、なんだかいけそうな感じですよ!」
「そ、そうかな。期待しても……いいのかな?」
 ほのかにミューの頬は上気していた。
「一時はどうなることかと思いましたが、ようやく当初の計画どおりにいきそうですね」
 ――そう。
 強大な魔力を持つ魔王を復活させ、うまく丸めこむなり脅すなり取引するなり、どうにかして、ミューにかけられた封印を解かせる。そんな壮大な計画――
 ううん?
「よくよく考えてみると、これは笑われてもしかたのない計画のような」
「うん……」
 首をひねっていたアシュは、思わずそのままひねりきりそうになった。
 ミューの声が濡れていた。瞳までが濡れている!
「ここまで、長かった」
 ぽつりとこぼした。
「私がこんなお子ちゃまバディになっちゃって以来……東の霊峰に生えた花が呪いに効くと聞けば東へゆき、西の道場で破邪の拳法を教えているって聞けば西へゆき、北にいる氷雪の女王が若さを吸うと聞けば北へゆき、南海の孤島に呪い師がいると聞けば南へゆき……」
「そのことごとく、効果がありませんでしたね」
「そうなんだよなぁ。霊峰の花は性的不能に効く薬だったしなぁ」
「まあ呪いといえば呪いなんですかね。西の道場では……」
「腕っぷしばかりが強くなりました」
 ミューは腕をひと振りする。風切り音をあげたその打撃は、とても幼い女の子の出せるものではなかった。
「氷雪の女王さまはおっかなかったですし。ぼく冷凍保存されましたし」
「思いっきり若さを吸わせてやったってのに、てめえばっかりいい思いしやがってさ」
「いい思いといいますか……若返りすぎて、最後は赤ん坊になってましたけど」
「いちばん腹たつのはあれだよあれ。うさんくさいとは思ってたんだけど」
「呪い師ですね。いろいろ道具を買わせられましたよねえ」
「ぜんぶガラクタだったなぁ」
 にゃはははは……、と肩を落とす。アシュはそっと手を肩に乗せた――とたんに、起きあがったミューに振り払われた。
「だけど! ついに! いままでの努力がむくわれるときが来たんだ!」
 しびれる手でアシュは拍手をする。
 うむうむと魔王ゾーククラフトがうなずいていた。
「最後の最後まで楽しませようとするその心意気、見事だぞ」
 だから芸人じゃねえっつーの……と口を真一文字にするミューを、アシュはまあまあとなだめた。
「ではゆくぞ!」
 いきなり魔王が腕をミューに向かって突きだしてきた。まるで心臓をつかみとるかのような勢いが、ぎりぎり胸元で止まる。
 ごきゅり、と音がなった。ミューとアシュが唾をのんだ音だ。
「さあ、我に魔力を戻すがよい!」
 手の甲がくるりと返り、爪の鋭く尖った指が『ちょうだい』とばかりに動いた。
 止まっていた息を、ミューはゆるゆるとはきだす。
「ま、魔力? 戻す?」
「そうだ。魔力だ。我の肉体を復活させたのだ。当然、我が魔力の封印とて、解いているのだろう?」
「……封印だとぉ!」
 節くればった魔王の手を払って、ミューは胸元に入りこんだ。法衣をひっつかみ、揺すりたてる。
「魔力は魔力で、べつに封印されているってのか!」
「おお、おお。そんなことも知らんで、我を封印から解いたのか。これはこれは――」
 こらえきれない、といった様子で、魔王は吹きだした。
「どこまで我を楽しませるのだ! 笑い殺しにする気か!」
 じつに豊かな声量で笑いあげていた。まわりの魔人たちまで笑いだす。魔法陣の輝く部屋のなかに笑い声は満ちて、四方八方から降りそそいできた。
 笑いの雨のなか、ミューは呆然と立つ。
「また……こんなオチかよぅ」
「あきらめちゃいけません! そ、そうです。封印された魔力を探しだせば!」
「そんなもん、どこにあるんだよぅ。にゃはははは〜」
「ミューさまぁ!」
 肩をつかんで揺するも、ミューは呆けたままだった。首ががくんがくんとなる。魔人たちの笑い声はさらに高まっていった。
 思わずアシュはにらみつけていた。
 鋭く尖らせた目が――すぐに尖りをなくす。
 すでに魔王は笑いやんでいた。おまけにその横顔は怪訝そうにゆがんでいた。魔王の視線をなぞると、笑い続ける銀髪の男に辿りついた。
「どうしたのだ、ゾフィルよ」
 ゾーククラフトの問いかけにも、ゾフィルは笑いを止めない。
 氷の男が、まったく感情をあらわにしなかった男が、じつに楽しげな高笑いをあげている。
「ゾフィル!」
 ようやく銀髪の男が笑い声を止めた。
「これはこれは失礼しました。魔王ゾーククラフト陛下」
 声にはたしかな感情が覗いていた。
 それは――侮蔑。
「いや……もはや魔王ではありませんね。魔力のない魔王など、まったく悪い冗談。いまのあなたはただの醜い老人にしかすぎない」
 魔王は薄笑いを浮かべながら聞いている。
「ならばどうする。醜い老人の元からは去るか?」
「魔力のない魔人など、存在する価値すらない――でしょう?」
 どこかで聞いたことのあるセリフとともに、ゾフィルの姿が揺らいだ。まわりの空気が、白く濁ってゆく。
 ひんやりとした風が、アシュの頬を撫でた。
 嫌な記憶が甦ってくる。氷雪の女王に気に入られ、氷づけにされてしまったこと。そのときとおなじ匂いを嗅ぎとっていた。
 銀華のゾフィル……氷結系魔法の使い手か。
「おろかだな。つまらぬ、まったくもってつまらぬ」
 首を振りながら、魔人は片手をあげた。背後に控えた魔人たちが横に広がる。
「ゾフィルよ。いくらお前の力が配下のなかで頭抜けていようと、三対一ぞ。勝てるつもりでいるのか」
 銀髪の魔人の唇が、ゆっくりと笑みをかたち作った。
「お前たち、手を出すなよ。それは私の獲物だ」
「――わーかってるよ、ゾフィル陛下」
 しゃがれた声は包帯魔人、ジャンダルから発せられた。
「な……なに?」
 うーん、と背伸びをしながら、シリナが驚きに口を開けた魔王の横を通り過ぎてゆく。ゆたゆたと豊かな胸を揺らしていた。
「ひ弱なお爺ちゃんより、たくましい美青年よねえ、やっぱり」
「うがうご」
 重々しい足音をあげながら、コントラがあとに続いた。ジャンダルもひらひらと黒包帯を舞わせて、魔王の元を離れてゆく。
 三人の魔人は、ゾフィルの後ろに並んだ。
「さて陛下、どうします?」
 ゾーククラフトは目をむいたまま、返事もできない。
「ミューさま、なにやらえらいことがおきてますよ。ミューさま、ミューさま?」
 強い舌打ちが耳を打つ。
「にゃろう、私を利用する気か」
 いまいましげににらんでいた。その視線の先では、魔人たちを従えたゾフィルがうやうやしく魔王におじぎをしている。
「お別れです、ゾーク。我が師よ。せめて最後は私の手で――」
 ゾフィルをとりまく冷気が、ふくれあがった。
「死ね」
「ちょっと待てーい!」
 ずかずかとミューが、緊張感に満ち満ちた空間へと踏みこんでゆく。
 魔王は無視、背を向けてゾフィルに向き直った。
「どうしたのかな、超絶天才美少女魔道戦士」
 いまならはっきりとわかる。ゾフィルの声にはあざけりが隠れていた。
「ちゃんと名前で呼べよ、美肌ヤロウ」
 くっく……とゾフィルは笑いをこぼす。きらきらと白い肌がきらめいた。
「これは失礼。魔女ミュー、いったい私になんの用かな? いま私はひどく忙しいのだが……それとも、そのゴミの代わりに遊んでくれるのかな」
「こんなカスなんか知るか。私が言いたいことはただひとつ」
 ゴミだのカスだの呼ばれた魔王の顎が、外れそうなほどに開く。
 ふむ? と続きをうながすゾフィルの前で、ミューは思いっきり息を吸った。あわててアシュは耳をふさぐ。
「人さまの家で、暴れんじゃねーっ!」
 びりびりと空気が震えた。
 あまりの大声に、岩石魔人は体から小石を落とし、包帯魔人は包帯がずれた。シリナは顔をしかめている。ゾフィルだけが、ひとり平然としていた。
「おとなしくしてないと、封印しちゃうぞ!」
「できるものならどうぞ」
「にゃにおぅ! 私がホンキじゃねえとでも思ってるのか!」
 ワンピースの袖をまくりあげ、ミューはぐいと片足を踏みだした。それなりに凄みのある構えだったろう、子供の姿でさえなければ。
「もちろん本気だろうね。だがミュー、お前にはできない」
 ぬ、とひと声あげたミューの前で、ゾフィルが顔をぐるりと回す。壁に床に天井、いたるところで光り輝く魔法陣の文字を眺めた。
「この結界……相手がひとりなら充分に効果を発揮しただろうが」
 どき。
 そろそろとアシュは師の様子をうかがった。
 ミューは満面の笑顔を浮かべていた。見るものすべてを明るくさせる、完璧な笑みだった。普段はぜったいにしない笑みでもある。
「いったいなんのことかしら〜?」
 ――あ、こりゃ図星だあ。
 こんな表情のときは、間違いなくこの場をごまかそうとしているのである。前にミューがこの顔を作ったのは、自分の師である魔女に思いっきり詰められているときだった。
 そのすぐあとで、彼女は子供になる呪いをかけられたのだが。
「お前にも予想外だったのだろう。魔王以外に、私たちまでが封印されていたことは。ふふ、なんといっても、魔王が肉体と魔力、ふたつに分けられて封じられていたことすら、お前は知らなかったのだから」
 紫色の唇から、低い笑い声が洩れる。
「残念だが、この魔法陣では四人の魔人を抑えきることはできない。それは自分が一番よくわかっているんじゃないのか、ミューよ」
 すでに魔王は数に含まれていなかった。
「……そう思うんだったら、試してみればいーじゃん」
 ミューは構えを取った。左手を前に伸ばし、右手は後ろに、体を斜めにする。すぐさまアシュは駆けよった。
 めんどくさがり屋の師が構えを取ったということは――本気だということだ!
 銀剣を銀髪の男に突きつける。
 ふ……。
 ゾフィルが薄く笑った。まったく恐れた様子はない。
「魔女ミュー。お前には心から感謝している。おかげで、私たちは念願をかなえることができた。私たちは師を超えることができた」
 視線はミューとアシュ、ふたりの後ろへと向けられていた。
 ――師?
 なにやら封印を解かれたときよりも老けた顔の魔王を見やりながら、アシュは思いだしていた。ミューが師より呪いをかけられたと聞いたときの、ゾフィルの表情を。それは、ずっと氷の壁のようだったこの魔人が、初めて生の感情を見せた瞬間だった。
 魔王とか魔人って……なんなんだ? 師弟関係?
「だから――」
 その声とともに、アシュの首筋はちりちりと逆立つ。
 振り向いたアシュが見たものは、白く霞むゾフィルの姿だった。
「せめて、苦痛のない死をあげよう」
「ちょっと待ってください! もう少し、お互いに話しあいをですね……」
 急激に下がってゆく温度のなか、アシュは白い魔人に向かって片手を広げた。剣は相手にすえたままだ。
「無駄だよ」
 声はとなりから発せられた。
「こいつら魔人どもは、私たち人間なんかなんとも思ってない。魔力なきもの、弱きものは存在しないのとおなじ。存在しないものと話しあいはできない。しない」
 ふてくされたようにミューは唇を曲げていた。
「だって、ぼくたちがやられなきゃいけない理由がないじゃないですか! ミューさまがこの人たちを復活させたんですよ? 感謝されこそすれ、どーして殺されなきゃならないんですか」
「だが、お前たちを生かしておく理由もない」
 冷気が肌に張りつき、動きを鈍くさせる。体は震え、はく息は白くなった。そんなただでさえ凍えそうなアシュの背中を、さらに冷たいものが走る。ゾフィルの声からは、またもや感情が消えていた。
 ――本当にこちらをなんとも思っていない。
「あえて理由をつけるなら……そうだな。ゾークひとりだけでは死での旅路も淋しいだろう。お前たちもお供してあげてくれ。せいぜい地獄で笑わしてやるといい」
「だから、私は芸人じゃねえっつーの!」
 そのとき、冷気で白くぼやけていたゾフィルの姿が、いきなり鮮明となった。
「くそっ……!」
 ミューがアシュの手を握る。
 たちまちのうちに、白い輝きがアシュの視界を覆いつくした。
 いちどだけアシュにはおなじ経験があった。ミューに連れられて氷雪の女王に会いにいったとき、彼女の住処《すみか》である雪山でのことだった。
 地鳴りとともに、はるか山の上部から滑り落ちてくる白い波。
 たしか、あれは雪崩《なだ》れといった――
 そのときとおなじように、アシュは白い渦にのみこまれた。消えゆく感覚のなか、ただひとつだけ、つながれた手のぬくもりだけが、いつまでも残っていた。



 白いもやが、銀髪の魔人を取りまいていた。
 魔人の顔にはなにひとつ感情が浮かんではいなかった。冷たい瞳は、まばたきすらせずに前を見つめている。
『こっちまでやられるところだったぜ、ゾフィル』
 声はくぐもって聞こえた。
 ゾフィルの真後ろに、黒い球体が浮かんでいる。うっすらとした闇のなかに、包帯を全身に巻いた魔人の姿が見えた。
 ジャンダルの入った球体の左右には、ごつごつした大きな岩石と、緑色の蔓《つる》でぐるぐる巻きにされた玉があった。
 みっつの球体は――氷のなかに浮かんでいた。
 球体だけではない。部屋のほとんどが透明な氷に覆われていた。
 ゾフィルの視線の先には、少女と少年がいる。白いワンピースをまとった赤い髪の少女ミューと、銀色の剣を構えた黒髪の少年アシュとが、仲良く手をつなぎながら氷づけになっていた。
 さらに後ろには白髪の老人がいる。
 大きく目を見開き、あんぐりと口を開き、両手両足をふんばった格好で凍っていた。
『らしくねえな、さっさとトドメを刺しちまえよ』
『ようやくこのときが来たのよ。少しは感慨にふけらせてあげなさいな』
 植物の球から、少しとげのある声がした。岩石からも響く。
『うお、が、ごう』
『わかったよ。新魔王、ゾフィル陛下には逆らえねえ』
「からかうなよ、ジャンダル……」
 あるかなしかの笑みを、ゾフィルは浮かべた。
「たしかに私らしくないな。私は魔人。人間の感情など、もはやあるはずもないのに」
 手のひらを、まっすぐに真上に伸ばした。
「さようなら、ゾーククラフト」
 ゾフィルが凍てついた霧に包まれる。
 その白い冷気を中心として、大きなつららが無数に飛びだした。鋭く尖った氷の槍は、まわりの氷壁を突き崩しながら、放射状に伸びてゆく。
 あっさり――本当にあっさり、ミューとアシュは氷ごと、砕かれた。
 束ねられ一本の巨大な槍と化した氷が、後ろの老人に襲いかかる。凍りついた魔王の胸を突き刺し、ひびを入れ、粉々に砕いて、突き抜けていった。
 勢いはとどまることをしらない。
 つららは、魔法陣の描かれた壁を破り、通路を走り、部屋を壊し、最後には塔の外壁までも突き崩した。ミューの住処《すみか》である黒色の塔の、ちょうど真ん中から、夜へと、尖った氷が次々と生えだす。やがては最上部までもが冷たく光るとげに浸食された。
 氷と黒い壁とが、音をたてながら崩れ落ちてゆく。
 崩壊が始まった塔から、四つの光が飛びだした。銀、黒、緑、黄の輝きは、白いもやに包まれる塔の上空で人のかたちをとった。
 星空に、四体の魔人が浮かぶ。
「さて、これからどうする? ゾフィル陛下」
 きひひ、とジャンダルは笑った。黒い包帯の巻かれた体を震わし、右目を糸のように細めた。眼帯の下にある左目も、おそらくおなじように笑みを浮かべているのだろう。
「陛下はやめてくれ……まだ、少し早い」
 わずかにゾフィルは口の端をあげた。
 魔人たちは笑い声をあげる。四者四様の笑い声のはるか下では、冷気がきらめきながら、夜の砂漠へと広がっていた。
「じゃあ、早く陛下と呼べるようにならなくてはね」
 豊満な胸を押しつけるように、シリナがゾフィルに寄りそった。
「うがごあご、がぐご」
「わかっている……我らが求めるものは、こちらだ」
 身を返し、ゾフィルはまっすぐに腕を伸ばした。指先は、砂漠の向こうに広がる山なみを指していた。ジャンダルが額に手をかざして見つめる。
「東、だな」
「そうだ。だが人間ども、そのままにはしていない。なにやらかたちを変えている」
「ま、なんだっていーだろ。おれたち四人に敵うやつなどいまいよ」
「ああ……」
 ゾフィルは顔を下に向けた。視線の先では、五階建てから二階建てへと強引にリフォームされた塔が、白いもやのなか上部だけをさらしていた。
「そうだな」
 にたり、と笑った。
「――二度も、私に殺させてくれるのか」
「え? ゾフィル、いまなんて?」
「いや……なんでもない」
 シリナが聞き返したときには、すでにゾフィルの顔は元の冷たいものに戻っていた。
「さあ、ゆこう――」
 夜空に銀色の魔人が舞った。
 みるみるまに、ゾフィルがその身に氷をまとってゆく。どんどんとかさを増やし、やがては氷の羽毛を持った氷鳥へと化した。羽ばたくたびに、きらきらと氷のかけらをきらめかせる。
 ほかの魔人たちも続いた。
 黒い包帯の魔人は黒い霧に包まれ、巨大なコウモリとなる。シリナの豊満な体には蔓が絡んでゆき、背中で蝶のような羽を作ってゆく。岩石魔人コントラは、ひと声吠えながら地上へと飛び降りていった。そのまま砂漠にめりこむ。
 ぼこぼこと盛りあがった砂が、ひと筋の跡を残してゆく。跡は、東の山脈へと向かっていた。
 変化した他の四人も、東へと飛んでゆく。きらめきながら、黒い霧をのばしながら、鮮やかな花びらを散らしながら。
 砂漠に、静けさが戻った。
 音をたてているのは、二階建てとなった塔のまわりに落ちた残骸たちだけだ。氷が溶けるたびに、石のかけらが傾き、ぶつかり、音を出す。たちこめるもやのおかげで、そのあわれな姿は見えなかった。
「……いったか?」
 どこか幼さを感じさせる、女の子の声だった。
「……みたいです」
 こちらは若い男のもの。
「よーし……うぬらーっ!」
 まるで間欠泉のように、凍てついた霧が天へと噴き上がった。
 そこからふたつの影が飛びだしてくる。
 ごわごわの赤い髪と、ぼろぼろの白いワンピースをまとった少女に、氷で変なかたちに固まった黒い髪と、銀色の細剣を持った少年だった。
 ミューとアシュ、ふたりはしっかりと手をつなぎあっていた。
「くっそーっ! あのヤロウ、好き勝手やりやがってぇぇぇ〜!」
 砂漠に降り立ったミューは、半壊した塔を眺め、わきわきと持ちあげた指を動かす。
「とりあえず、命があっただけでももうけものですよ」
「バカ! バカ! バーカ! まだローンが残ってんだぞ、コレ!」
「とりあえず二階の書庫と一階の宝物庫は無事なんですから。それにミューさま、ちゃんと保険に入ってたじゃないですか」
「でもさぁ、魔人にぶっ壊されたのって、補償の対象になんのかなあ〜」
 左手で頭を抱えた。
「しかし……こんどのこんどばかりは、もうダメかと思いましたよ。あやうく二回目の冷凍保存をされるところでしたし」
 けっ、とミューは吐き捨てた。
「あんなやつ、一対一ならどうとでもなるもん」
「その自信はいったいどこからやってくるんですか。アレ、四人ともミューさまの魔力をはるかに超えていましたよ」
「へ! 戦いは魔力で決まるんじゃないってことを教えてやるよ」
「魔人の魔力はバケモノか、ということにならなきゃいいですけどね」
 覚めた目つきで、アシュはもやのなかの塔を見ていた。
「お? なんだか絡むね、こいつ」
「そもそも、魔王を復活させるって段階で、今回の計画にはあやまりがありましたよ」
「だーっ! アシュだって『すばらしい計画ですぅ、ミューさまぁ〜』っておててスリスリしてたじゃないかよ!」
 きっ、とふたりはにらみあった。その手は、いまだつないだままだ。
 指を絡めあった手が、かたかたと震えだす。
 やがてその震えは、腕から肩、胴体へと伝わっていった。歯の根があわなくなるにいたって、ミューとアシュはひしと抱きしめあう。
「マジでビビったですよ!」
「……ちょびっとだけな、ヤバかった、かもな」
 ゆるゆると息をはきだす。
 お互いにぼろぼろの姿だった。服はところどころ破れ、痛み、ほつれている。赤らんだ肌は低温やけどを患っているようだった。
「ミューさまぁ」
「泣くなよ、本当に泣き虫だな、お前はさ」
 膝をついてなお、覆いかぶさらんばかりに抱きつくアシュを、立っているミューが慰めるように背をさすっていた。
「おうおう、うるわしいものよな」
 抱きあったまま、ふたりは声のした方を向く。
 いまだ漂う塔周辺のもやのなかに、影が浮かびあがっていた。だんだんと姿ははっきりとしてくる。
 裾の長い法衣、ちょこんとした白い髭、背中へと消える白髪、そして皺だらけの顔に浮いた、妙に威厳のある笑顔。
 ――この人は……。
「元魔王さん!」
 ぐらりとゾーククラフトの体が傾いだ。
「も、元魔王とはなかなかきびしいつっこみを入れてくれる」
「無事だったんです……ね」
 喜んでいいのか、悲しめばいいのか、アシュは中途半端な笑みを浮かべ、中途半端に眉をうなだらせた。
「しかたないだろ。魔王も緊急脱出させなきゃ、やつらにバレちゃうもんよ」
 すぐ目の前で、ミューが唇を尖らせていた。アシュは密着しているといういまの状況を理解してしまい、あわてて体を離す。
「なんだよ?」
「い、いえ。すみません」
 はっ、と顔をあげた。
「緊急脱出? 塔の機能を使ったんですね」
「高い金を払ったかいがあったってもんだ。なるべくなら、役に立たないままであってほしかったけどなー」
「お前たちは芸人のみならず、ペテン師としても優秀だったのだな。このようなものであやつらをごまかすとは」
「だれが芸人だコラ、ペテン師だコラ!」
 吠えるミューのとなりで、アシュは魔王が放り投げた氷のかけらを受けとる。
「これ……」
 氷には、ミューの顔があった。
 正確には、ミューの顔が表面に描かれていた。かなり精巧なもので、遠くからや、また近くであっても正面から見たのでは、なかなか絵だと気づくまい。
 ――だけど。
「……こんなのでだまされたんですか」
「こんなのって、『イッパツぽん』だよ。物体の表面に、対象の姿を写しとる魔法だ。どーせお前は知らないんだろう」
 はい。素直にアシュは認めた。
「あのゾフィルってヤロウは、自分の周囲を凍らせた。その氷壁の表面に『イッパツぽん』で姿を貼りつけたんじゃあ、いくらなんでもバレる。今回のキモは、氷のなかにこの魔法を使ったことにあるんだな。塔の力で脱出した瞬間、私たちがいた場所に姿を写し取ったんだ。絵を貼っつけたのは氷な」
「なるほど……映像どころか位置もおなじだったから、見破れなかったんですね」
 返事をしながら、アシュはべつのことを考えていた。
 ミューさまが、相手の名前を覚えた……敵としてみなした。
「さあて、ホントに見破れなかったのか。それとも……ヤロウ、見逃したか」
「え」
「なんにせよ、だ。ジジイ、配下への教育が悪いせいで、見ろ! このざまだぞ!」
 刃のごとく鋭く目を細めて、半分になってしまった塔を指さした。
 魔王さんはジジイですか。
「我とてこのざまだわ。口惜しいものよ。お前が我の魔力さえ手に入れていれば、このようなことにはならなかったものを」
 肩からやぶれた法衣の腕を見せる。塔の緊急脱出装置は、魔法によって空間を転移させる機能なのだが、瞬時に作動するぶん、どうもやりかたがあらっぽくなるらしい。服やら髪やらずたぼろである。
「それはつまり、私が悪いってのか?」
「違う。ろくに調べもせずに行動するなど、魔道士としては下も下も下だが、芸人としては素晴らしいと……おい、なにをする。こ、こら、褒めたではないか!」
「だーかーらー、私は芸人じゃねえっつってんだろガーッ!」
 思いっきり蹴っ飛ばされ、さらにはぐりぐりと踏みつけられて、ゾーククラフトはうめき声をあげた。細い足を魔王の顔面に当てているミューは、八重歯を剥きだしにしていた。
「ミューさまミューさまー、お年寄りは大切にしましょーよー」
「こ、こら! 我は年寄りなどではないぞ! 姿こそ老いさらばえておるが、これは魔力をすべて封印されているからこそ。本来は若々しい肉体なのだ!」
 へえ。
「ミューさまと逆ですね」
「だったら遠慮はいらねーってことだな! にゃはははは〜っ!」
「うがっ! ま、待てい。魔力だ、我の魔力さえ甦れば、あの裏切り者どもに報いを与え、そこの塔も建て直し……そ、そうだ、お前の呪いも解ける! それこそがお前の望みだったのだろう!」
 ぴたり。ミューの踏みつけが止まった。
「呪いか……」
 足を魔王の顔から外し、歩き始めた。砂に、さくさくと小さな足跡を残してゆく。二十歩ほども離れて、おもむろに天を仰いだ。
「もう、ダメなんかなぁ。私、ずっとこのまんまなのかなぁ」
 ――あ、ヘコんだ。
 赤と青、ふたつの月を見あげる背中が、やけに小さかった。事実、小さいのだが。
「大丈夫ですよ、ミューさま。次がありますよ」
「そうだよなぁ。ずっと子供のままなんだから、ずっと次はあるよな。永遠にな」
 う。
「え、永遠……そうだ、ずっと若いなんて最高じゃないですか。全女性のあこがれですよ。求めたって普通は得られないですよ!」
「うん。マニアにはたまらないだろうな。しょせん私はマニア向けの女」
 う。う。
 かなりの落ちこみぶりだ。いつもテンションが高いぶん、いちど落ちると底が深いのかもしれない。
 どうすれば……。
『魔王の魔力を探しましょうよ』
 正攻法。ダメだ。ヘコんでいるときに正攻法はいちばんキツい。
『嫌なことは忘れて、パーッと騒ぎましょう!』
 現実逃避。ダメだ。残ったローンが現実を忘れさせない。
『ミューさま。そんなあなたが、私は好きです』
 突然の告白。ダメだ。ヘンタイ扱いされるのがオチだ!
 だったら。
 アシュは軽く咳払いをした。
「ひさしぶりですよね。これほどまでにミューさまがナメられたのは」
 ぴくん。ミューの背中が動いた。
「ナメられた……?」
「まったくもって眼中になかったですもんね。元魔王さんのついでに殺って、ついでに塔も壊した、みたいな」
 ざわり。ミューの赤い髪が波うった。
「私は、ナメられていたか?」
「それはもう、べろべろんと」
「ナメられてそのままってのは、私らしくないか?」
「さあ。ただ、そんなミューさまを、私は見たことがありません。魔女の借りは三倍返し、がモットーですから」
「ふん……」
 振り向いたミューの顔には、凄みのある笑みが浮かんでいた。
 アシュのそばを通り過ぎる間際、みぞおちに軽くパンチを打ちこんでいった。アシュは悶絶する。
「ゴーちゃん!」
 呼びかけに、冷気のもやのなかから音が返った。なにかを突き崩す音が、ところどころからみっつ聞こえてくる。
 しばらく待つと、赤と青と白のゴーレムが姿を見せた。
 さすがにきれいなままとはいかない。たくましかった赤いゴーレムはところどころ削れ、弱々しい青いゴーレムは片腕がなかった。白いゴーレムにいたっては、もげた首を自分で抱えている。ひどいありさまだ。だけど――
「よかった。動けるんだね」
 集まったゴーレムに、ミューは細々と指示を出す。
 そのあいだ、アシュは装備を点検していた。銀の魔剣や、首に巻いた黄色のスカーフに傷がないか確かめてみた。空間を転移したのだから、どこかに欠損があるかもしれない。
 確認もすみ、せがまれてやったゾーククラフトの肩もみにも疲れたころ、ようやく準備を終えたミューがやってきた。
 彼女は髪を後ろでまとめ、肩当てつきのマントを身につけていた。膝までを包む黒いマントの裾から、おなじく黒いワンピースが覗いている。すらりとした足は白い。
「準備はいいか?」
 ひとりだけこざっぱりとしたミューの後ろから、赤ゴーレムが大きな鏡を持ってやってきた。
「これからどうしますか。魔人たちを追いますか」
「なんでそんなことしなくちゃならないんだよ」
「なんでって……このままほっといていいんですか? 魔人を四体も甦らせてしまったんですよ――ミューさまが。彼らがなにかやらかしたら、責任問題になりませんか――ミューさまの」
「黙ってりゃわかんないって」
「これ、少年。我も魔人ぞ。甦ったのは五体の魔人ぞ」
「黙ってればって、ミューさま」
「おい、無視するなお前ら」
「彼らは東へ向かいました。東には……」
 少し明るくなってきた夜空を背景にして、山なみが横に広がっていた。山の向こうには、かつて魔人たちが封じられていた場所、聖王都メイルウィンドがある。
 ――まさかね。
「ナメられた借りは必ず三倍にして返す。そのためには、このジジイの魔力を復活させてやらなきゃならない」
 両手を腰に当てて、ミューはしゃがみこんだゾーククラフトを見おろしていた。元魔王はふてくされて横を向いている。
「魔力って……どこにあるかわかるんですか」
「わっかんないね。だから、いまからそれを訊きにゆく」
「訊く? だれに、どこにですか」
 ミューが指を鳴らす。
 後ろに控えていた赤ゴーちゃんが、縦長の大きな鏡を掲げた。
「魔道協会にいくんですか。なるほど……たしかにそこなら、魔王のことについて知っている人もいそうですね」
「そうだ。この魔王がエセ王都に封印されていることも、そいつから聞いたんだから」
「そいつ? だれですか」
「情報屋だ! 魔王だけじゃなく、いままでの情報もそいつから……」
「ちょっと待ってください! いままでの情報って……東の霊峰に咲く花とか、西の道場とか、北の氷雪の女王さまとか、南の孤島の呪い師とか……ぜんぶ『あの人』が?」
「おう!」
 胸を張るミューを、アシュはまじまじと見つめた。
「気づきましょうよ! これまでの悲劇はぜんぶあの人に原因が――」
「うらうらいくぞ! ほら、ジジイもさっさと来い!」
「ちょ、ちょっと……」
 アシュとゾーククラフト、両方の腕を引っぱって、ミューがゴーレムの掲げる鏡へと突進した。
「ところで、魔道協会とはなんなのだ? 我の時代にはなかったぞ、そんなもの」
 答えようとアシュが口を開けたところで、三人は鏡のなかへと吸いこまれていった。
 残された赤いゴーレムは、鏡を抱えて歩きだす。その先では、青と白、二体のゴーレムが、白いもやのなか、瓦礫を動かして後かたづけをしていた。



   3.さがしもの

 む、むぐぐ。
 ぶよぶよしたゼリーをむりやりに通り抜けてゆくような、そんな気持ち悪さ。目を開ければ、飛びこんでくるのはピンク色の激しい流れだけ。
 ――なんど来ても、な、慣れない。
 魔道協会へと続く、異次元の通り道をアシュは飛んでいた。
 ミューに手を引かれて、体にへばりつくほどに密度の濃い空間を、ずるずるずると強引に渡ってゆく。となりでは、ミューに襟首をつかまれた元魔王のゾーククラフトが、ただでさえ多い顔の皺をさらに増やして、大きく目をむいていた。
「おう、お、おお、おおう? うほう!」
 魔人としての威厳はかけらもない。だが、アシュにも気持ちはよくわかる。
 頬をぬめる感覚には、息を吸うことすらはばかられた。できることならあまり来たくのない場所だった。
 だけど、もうすぐ。
 ほら、光が見えて――
 わずかに開けたまぶたのすきまから、まばゆい光が差しこんだ。前を飛ぶミューが光の渦に飛びこむ。引っぱられるままに、アシュも入りこんだ。
 閃光に目がくらむ。
 ぬるん、と体が飛びでた。なにも押さえつけるもののない、解き放たれた空間。ようやくアシュは息をつく。
 そこで、足元が妙にふわふわしていることに気づいた。
 そうだった、とアシュは思いだす。ここはここで、ちょっと解放されすぎた空間であったことを。
 まばゆさにくらんでいた視界が晴れてゆく。
 最初に目についたのは、またもやピンクだった。
 網の目のように伸びる真っ白な雲。そのすきまに、桃色のけばけばしい空間が広がっていた。ぽつんぽつんとある建物は銀色で、強すぎるコントラストがじつに目に痛い。
 雲で作られた、穴だらけの球体。
 その内側にこの世界はあるのだった。
「はは……」
 魔道協会――正確には、魔道互助協会。
 異次元のなかに作られた、魔道士たちの人工的な植民地。
 ほとんどの魔道士たちがこの幻覚じみた世界に住んでいる。例外といえば、ミューのようなちょっとわけありと、アルハイム大陸で生きることを選んだものたち、いわゆる聖導師だけだ。
「いつ来ても……」
 頭上を見あげれば、光の塊がまばゆく輝いている。
 これは太陽の代わりだった。夜の時間になれば、こんどは月として、おだやかな光で照らす。この人工的な灯火は、雲の球の真ん中にすえられていた。
 現実の世界とは、構造が逆らしい。惑星とか宇宙とか……いまいちアシュは理解していなかったが。
 ただ、これだけはわかる。
「やっぱり、変だ」
「バーカ」
 小さな背中。その肩ごしに、ミューがにやにや笑いを見せた。
「ここは魔道を統べるものの住まう地、不思議が当然、魔道協会だぞー。このぐらいイカレてなくてどーするよ」
「ミューさまはいいですよ。ここで育ったんですから」
「お前だってほとんどここで育ったようなもんだろ。私に拾われたのはいつだった?」
 瞬間、アシュの意識は過去へと飛んだ。
 あたり一面の瓦礫。土台以外残っていない建物。黒こげた壁。鮮やかすぎる青い空。血の匂い。焼ける匂い。死の匂い。なにかが燃える音。吹きすさぶ風の音。人の声、どこにもなし。
 ――そして、目の前には赤い髪の女性の影。
 手にほうきを持って、彼女はアシュを見おろしていた。
『お前ひとりか? 親は? 名前は? なにがあった? 戦争か?』
 どう返事をしたのか、アシュは覚えていない。
『ふうん』
 覚えているのは、次の質問に対する答えだけだった。
『じゃあ、私と来るか?』
 笑顔とともに差しだされた手を握り返し――
『はい』
「――そうだよ、こんなちっちゃいときじゃんか」
 アシュは我に返る。
 目をぱちくりさせたアシュの前で、ミューは自分の頭上に手のひらを持っていき、水平に動かしていた。思わずアシュは微笑む。
「そうですね。いまのミューさまぐらいですね」
「だろ。ということは、まだまだ子供ということで……」
 だんだんミューの顔から明るさが消えていった。
「まだまだ子供……まだまだ……」
 ついには肩を落とした。
「ファ、ファイトです。ミューさまガンバ! ハイ!」
「うるへーっ! お前がいつまでたってもここに慣れないから悪いんだ! だいたいにしてなー、魔法もいっこうに覚える気がないしよー」
「す、すみません」
 涙目でにらみつけていたミューの顔が、にへら、と崩れた。
「ま、あれよりはマシか」
 あれ? とアシュが振り向いた先では、白髪の老人が青い顔で雲の上に座りこんでいた。鋭かった眼は、いまはどんよりとしている。
「……元魔王さん」
「情けねーよなー。こんなんでよく魔王なんか名乗れたよなー。これじゃ配下にクーデターを起こされるはずだよなー。なー」
「お、お前ら……」
 うっぷ、と口元を押さえる。
「我の時代にはこんなものはなかったぞ。魔道の中心といえば、天空都市ヴァルガこそがそうだったのだ。あのような気味の悪い道を通るなぞ……ヴァルガはいったいどうしたのだ。あの栄光の都は」
「とっくに墜ちた。ジジイが封印されて、どのくらい経っていると思うんだよ」
「ぬ、ぬ……」
「魔王さまともあろうものが、異次元を抜けたぐらいで酔うなんてねー。にゃはははは」
「ミューさま、ご老人をいじめるのはもうそのぐらいで。早く例の……人のところに行きましょうよ」
 アシュは口を引き結ぶ。
 情報屋……『あの人』にも慣れないんだよなあ。
「ちっ、しかたないなっ。じゃあ行くか!」
 軽やかな足どりで、ミューは雲の道を歩きだした。
 道はなだらかな坂道で、見あげればどこまでも続いている。上っているような、下っているような、どちらともつかない感覚があった。球体の内側だからこその、どうにも気持ちの悪い風景に、やっぱり慣れない、とアシュはため息をついた。



 目の前にそびえる銀色の塔に、アシュはほっと息をついた。
「やっと、ついたぁ……」
 その顔は汗ばみ、呼吸するたびに、肩が荒々しく上下した。
 上り坂のようにも下り坂のようにも感じる雲の道をはるばる来たから……だけではない。道自体はとくに疲れもしないし、また楽でもなかった。普通の平らな道を歩くのと変わりはなかったのだから。
 ぜいぜい、という呼吸音は、アシュ以外からもあがっていた。
 ミューではない。
「おーそーいーぞー」
 すでに彼女は塔の前にいた。足の爪先をいらいらと上下させている。ふわふわした雲の道では音も立たなかったが。
「す、すみません。ですが」
 アシュは横目づかいにとなりを見た。
 自分の肩にかかる、ずっしりとした重み。魔王だったはずの老人が、アシュの肩を借りて、ぜいぜいとあえいでいた。皺だらけの顔は真っ青になっている。
「ミューさま。元魔王さんを、ここ、魔道協会に連れてきてもよかったんでしょうか」
「たしかになー。役に立つどころか、足をひっぱってるしなー」
 まだ異次元酔いから醒めていないゾーククラフトが、ぎりりと歯がみする。まだ回復もしていないうちから、ミューの早足につきあわされたおかげで、もはや言い返す気力もない様子だった。
 あわててアシュは手を振る。
「いえ。そうじゃなくて、このかた、いちおうは魔人なんですし……問題じゃないんですか? だって昔、魔道士と魔王は戦ったんですよね」
「いーんじゃないの? だれもわかってなかったし。意外とジジイ、マイナー」
 たしかに、ここまで来るあいだに三人の魔道士と出会ったが、みなミューとアシュに挨拶をしても、同行しているのが魔王だと気づいてはいなかった。本人が「我は魔王、ゾーククラフトである! うっぷ」と宣言しているにもかかわらず、だ。
「し、しかたなかろう。魔力がないのだぞ。この姿なのだぞ」
 ぜひぜひと元魔王があえぐ。
 ふら


〔ツリー構成〕

【1139】 2号長編、「天帝の騎士(仮)」ねっこ 2004/11/24(水)00:20 名無し君2号 (149)
┣【1140】 2号長編、「天帝の騎士(仮)」あらすじ(800文字) 2004/11/24(水)00:22 名無し君2号 (1820)
┣【1141】 2号長編、「天帝の騎士(仮)」冒頭部分(原稿用紙29枚) 2004/11/24(水)00:28 名無し君2号 (18303)
┣【1155】 2号長編、「天帝の騎士(仮)」冒頭部分改稿(原稿用紙21枚) 2004/12/2(木)01:08 名無し君2号 (13785)
┣【1188】 『ろり魔女(仮)』プロット 2005/2/11(金)01:20 名無し君2号 (19780)
┣【1189】 2/11分、『ろり魔女(仮)』本文、No.1 2005/2/12(土)01:28 名無し君2号 (3822)
┣【1190】 2/12分、『ろり魔女(仮)』本文、No.2(8400文字) 2005/2/13(日)15:11 名無し君2号 (12180)
┣【1191】 2/15分、『ろり魔女(仮)』本文、No.3(文字) 2005/2/16(水)00:56 名無し君2号 (12167)
┣【1192】 2/16分、『ろり魔女(仮)』本文、No.4(7700文字) 2005/2/17(木)01:49 名無し君2号 (10266)
┣【1194】 2/19分、『ろり魔女(仮)』本文、No.5(5000文字) 2005/2/20(日)03:43 名無し君2号 (7975)
┣【1195】 2/21分、『ろり魔女(仮)』本文、No.6(10000文字) 2005/2/22(火)01:25 名無し君2号 (14776)
┣【1196】 2/23分、『ろり魔女(仮)』本文、No.7(6400文字) 2005/2/24(木)02:36 名無し君2号 (9828)
┣【1197】 2/25分、『ろり魔女(仮)』本文、No.8(5000文字) 2005/2/26(土)01:29 名無し君2号 (7024)
┣【1198】 2/26分、『ろり魔女(仮)』本文、No.9(11000文字) 2005/2/26(土)21:24 名無し君2号 (15477)
┣【1200】 3/1分、『ろり魔女(仮)』本文、No.10(3600文字) 2005/3/2(水)00:46 名無し君2号 (5197)
┣【1201】 3/3分、『ろり魔女(仮)』本文、No.11(3600文字) 2005/3/4(金)00:12 名無し君2号 (3416)
┣【1202】 No.11、ボツ版 2005/3/4(金)00:18 名無し君2号 (4173)
┣【1204】 3/5分、『ろり魔女(仮)』本文、No.12(4000文字) 2005/3/6(日)22:26 名無し君2号 (5763)
┣【1207】 3/8分、『ろり魔女(仮)』本文、No.13(16000文字) 2005/3/10(木)00:42 名無し君2号 (21483)
┣【1208】 3/12分、『ろり魔女(仮)』本文、No.14(17000文字) 2005/3/12(土)22:41 名無し君2号 (22201)
┣【1210】 3/14分、『ろり魔女(仮)』本文、No.15(5000文字) 2005/3/14(月)18:54 名無し君2号 (7682)
┣【1211】 3/15分、『ろり魔女(仮)』本文、No.16(9000文字) 2005/3/16(水)01:13 名無し君2号 (12155)
┣【1212】 3/19分、『ろり魔女(仮)』本文、No.17(28000文字) 2005/3/20(日)17:01 名無し君2号 (35837)
┣【1213】 3/19分、『ろり魔女(仮)』本文、No.18(7200文字) 2005/3/20(日)19:14 名無し君2号 (9870)
┣【1214】 『ろり魔女(仮)』全文統合版(124ページ、原稿用紙327枚) 2005/3/21(月)08:38 名無し君2号 (207911)

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