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1120 :弟切、自己課題、テーマ「本心を明かさない人」、題名「笑顔の下で」(10480文字)
2004/10/18(月)00:45 - 弟切 千隼 - 1590 hit(s)

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題名「笑顔の下で」
           2004/10/18 弟切千隼


 ファッションビルの中には、夏の名残のハワイアン音楽が流れていた。平日の午後にしては人通りが多い。
 樋口睦美[ひぐちむつみ]は、店の入り口のマネキンの前に立っていた。
 マネキンには頭部も手足もない。女性らしい曲線的な胴に、水色のブラジャーとパンツが付いている。
 睦美は、手際よくマネキンのブラジャーを外した。隣に置いた袋の中から、煉瓦[れんが]色のブラジャーを取り出す。マネキンにもう一度腕を伸ばしたところで、甲高い女性の声が響いた。
「あたし、白がいっちばん透けないと思ってた」
「あたしもー」
 睦美は店の中を覗いた。
 副店長の白石美佐江が、女の子二人と話している。二人とも、白いブラウスに紺のスカートという服装だった。近隣の高校の制服だ。
「ね、こうやって見ると、わかるでしょ? 白いのって、けっこう透けて見えちゃうの」
 美佐江は、片手に白いブラウスを持っていた。もう片方の手はブラウスの下にある。そちらも何かを持っているようだ。
「だけどほら、茶色のだと」
 言いながら、美佐江がブラウスの下の手を出す。手には白いブラジャーがあった。
 美佐江はそれをショーケースの上に置いた。かわって、ココアに似た色のブラジャーを手にする。そのブラジャーを、ブラウスの下に当てた。
「ね、透けないでしょ」
「うっそみたい」
「ほんとだー。ふしぎー」
 女の子たちは、大きく目を見開いている。
「こっちの、黒い服で見てみましょうか」
 美佐江は、白いブラウスをショーケースに置いた。黒いブラウスを手に取って、ブラジャーの上に当てる。
「ね、こういう茶色だと、黒でも透けないの」
「うっわ、なんで?」
「すごいー。白でも黒でもないのにー」
 美佐江は柔らかな笑みを浮かべた。
「不思議よね。茶色はほとんどの色で透けないの。応用が利くから、持ってると便利よ。制服のブラウスの時も、黒いキャミソールとか着たい時も、使えるでしょう?」
 キャミソールという言葉を聞いて、睦美は、うまいなあ、と思った。
 最近、若い女性の間で、キャミソールと呼ばれる薄手のシャツがはやっている。睦美も一着持っている。これを着る女の子たちの悩みは、「下着が透けて見えやすい」ことだ。
 美佐江と向き合った女の子の一人が、自分の胸もとを見下ろした。
「やばっ。今日白いブラじゃん。もしかして丸見え?」
 もう一人の女の子も、慌てた様子で胸を押さえた。
「あたしもだー。制服だからって、いつも白いブラ買ってるのにー」
「茶色のブラ、いっぱいあるわよ。見てく?」
 間髪をいれず美佐江が言った。
「見たいぃ」
 女の子たちは声をそろえた。
 その時、店の奥から、店員の大岩直子が現われた。ビニール袋を持って、睦美のほうへやってくる。
「ひぐっちゃん、煉瓦色のガードル、あったよ」
「ありがとう」
 睦美の前で、直子はビニール袋から何かを取り出した。ショートパンツ型の、ショートガードルと呼ばれる下着だ。
「このショートガードル、可愛いからさ、パンツより、ガードル着せといたほうがいいかも」
 直子はガードルをマネキンに押し当てた。
「このレースがいいよねえ。二色使ってあってさ、豪華じゃん」
 睦美は首をかしげた。
「ちょっと、派手過ぎない?」
「このほうが目立つじゃん。店頭に出すなら、このほうがいいよお」
「そうかなあ」
 睦美はちらりと店内に目をやった。
 いくつもの茶色いブラジャーが、テーブルに広げられている。高校生二人が、熱心にそれらを覗きこんでいた。
(十代の若い子には、派手なレースは敬遠されちゃうんだけどなあ。お客さまによって、アピールの仕方は違うのに)
 睦美の反論は、心の中だけにとどめられた。
「うーん。店頭なら、目立ったほうがいいかもね」
「そう、ぜったい。この色、秋っぽいし、受けるって」
 直子は睦美にガードルを渡しつつ、話し続けた。
「ねえ、今度の土曜の夜、空いてる? 店のシフト、入ってないよね?」
「空いてる、けど?」
「合コンなんだけどさ、女の子が二人足りないの。あたしが調達頼まれちゃって。出てよ」
「え」
「え、じゃなくてさ。ひぐっちゃん、彼いないよね? ならいいじゃん」
「あぁ、と」
 男嫌いではない、と睦美は自認していた。だが、接客業にもかかわらず、彼女は人見知りをするほうだった。見知らぬ大勢と同席するのは苦手だ。
「決まりね。土曜日、合コン。午後六時に、駅の時計台に集合だから」
「え、えと、直ちゃんも、行くよね? あと一人は?」
 直子は大げさに顔をしかめた。
「まぁだ、決まってない。困ったよお、あと一人」
「その、合コンて、若い女の子じゃなきゃだめなの?」
「いや。男の側に三十代もいるから、三十くらいまでならおっけーでしょ」
「じゃあ、白石さん、誘ったら?」
 直子はきろりと目玉を動かして、店内を見やった。
「来るわけないじゃん、白石さんが」
 声を低める。
 直子の言いたいことは、睦美にもわかった。
 夏にやったバーベキューにも、花火を観に行くのにも、海水浴にも美佐江は来なかった。睦美の知る限り、ディズニーランドに誘った時にも、社員旅行の温泉にも、美佐江は参加したことがない。
「仕事は、すごいと思うけどさ。付き合い悪すぎだよね」
「彼、いるんじゃないの?」
「いないって。あたし訊いたの、前に。そしたら、『いたけど、だいぶ前に別れちゃった』って。ほんとにいたら、ふつーそういう言い方しないよね」
「なら、よけい誘ってみたほうがいいんじゃ?」
 直子はぶんぶんと片手を振った。
「やだよ。白石さんて、なんか得体が知れないじゃん。彼もいないのに、いつもとっとと帰っちゃってさ。何してんだか」
「習い事でも、してるのかも。声くらいかけてみたら?」
「あたしはやだかんね。あの笑顔、怖いよ。なんか完璧すぎてさ」
「うぅ、ん」
「ひぐっちゃんが声かけるのは、止めないけど、どうせ来ないよ」
 直子は店の中へと引っ込んだ。睦美は口ごもったまま、その後ろ姿を見送った。


 午後五時を過ぎた。この時間帯から、ファッションビル内は人通りが増える。
 たまには、夕方に客が途絶えることもある。今日がそんな日だった。
 睦美は店の奥に入って、届いた商品の検品―品数や品目の確認―を始めた。
「お疲れさま」
 振り向けば、美佐江が奥に来たところだった。
「早番だから、お先に失礼するね」
「はい。お疲れさまでした」
 睦美が会釈した。美佐江は更衣室へ入ろうとしている。
「あの」
「なあに?」
 美佐江が振り返った。
 睦美は言葉を飲み込んだ。
 とっさの表情も、美佐江は崩れない。整った笑顔はいつもどおりだ。
 完璧すぎて怖い。
 直子がそう言ったのは、睦美にも理解できた。
「……今度の土曜の夜、空いてますか?」
「あら、ごめんなさい。その日はだめだわ」
「そう、ですよね。ならいいです」
 睦美はいくぶんほっとした。
「ほんとにごめんなさいね。いつもお誘い断っちゃって。どこか遊びに行くの?」
「ええ、合コンがあるんで。白石さんもどうかと思ったんですけど」
「合コン? いい人に出会えるといいわねえ。樋口さん、若いうちに彼作らなきゃ」
「白石さんだって若いじゃないですか」
「わたしは、しばらくは、無理ね。彼とかは」
 美佐江の頬の線が、わずかに動いた。唇が引き締まっている。
 宙に浮いた美佐江の視線は、一点で止まった。
「大変。こんな時間。じゃ、あとお願いね」
 美佐江は更衣室に姿を消した。
 睦美は美佐江の視線を追ってみた。視線が止まった点には、壁掛け時計がある。
 まだ、五時半にもなっていない。


 第一報を受けたのは、店長だったという。
 朝、開店直後に、美佐江から電話があった。電話を取った店長に、美佐江が自分の父の死を告げた。
 死因は肺癌だった。発見された時には手遅れで、全身に癌が転移していた。
 こういったことを、睦美は後から聞いた。その日、睦美は遅番だったからだ。
 睦美が出勤した時、店長は美佐江の家へお悔やみに出かけていた。
「店長もさ、ほんとに知らなかったんだって。白石さんのお父さんのこと。ずっと入院してたのに」
 商品棚を整理しながら、直子が言う。
「でも、亡くなったの自宅でしょ? 家で看てたのかな」
 睦美は、試着用の商品をたたみ直していた。
「うん。長く入院してたけど、もう治らないから、家に帰してもらったんだって。お母さんとお兄さんと白石さんと、交代で看てたって。夜もあんまり寝られなかったみたい」
「それ、二十四時間、三交代ってこと? 白石さん、仕事あるのに、よくやってたねえ」
 直子が手を止めた。
「あたし、悪いこと言っちゃった。白石さんに。お父さんがそんなに具合悪いなんて、知らなくてさ」
 美佐江が残業しなかったことも、付き合いが悪かったことも、睦美の腑に落ちた。直子も同じだろう。
「にしたって、普通、もうちょっと、なんか言うもんじゃん? ぜんっぜん変わらないんだもん、白石さん。やっぱ、ある意味怖いよ」
 直子が口を尖らせた。
「怖い、かも、ねえ」
 睦美はぼんやりと視線を泳がせた。
 店の前を、長い傘を持ったおばさんが通り過ぎる。今日は朝から雨だった。心なしか、行き交う人々の表情が暗い。
 父親を亡くした日、美佐江はどんな顔をしているのだろう。


「どうもありがとうございました」
 笑顔で客を見送った後、睦美はレジの釣り銭が少ないことに気づいた。十円玉が数枚しかない。
 鍵のかかった引出しから、釣り銭用の十円の束を取り出した。ビニールの包装を解く。
 その時、店内に足音が響いた。
「いらっしゃいま……えっ!」
 美佐江がいた。肩にいつもの通勤鞄を下げている。
「白石さん、まだお休みじゃ?」
「いつまでも休んでられないわよ。明日から連休でしょう。お客さまが増えるじゃない」
「でも、白石さんが休めるようにシフトは……」
 じゃりじゃりん、という音が声をさえぎった。睦美の手から、十円玉がこぼれ落ちている。
「わぁっ」
 睦美は慌ててしゃがむ。床に散った十円玉を拾った。
「あらら、そんなにびっくりさせちゃった?」
 美佐江もしゃがんで、十円玉を拾い集めた。
「はい」
 十円玉を渡す手には、白い手袋がはめられていた。
「どうしたんですか、手?」
「これ、ね。家でばたばたしてるうちに、手が荒れちゃって。仕事しにくいから、手袋してきたの」
 美佐江は、片手でもう片手を包むように撫でた。薄手のぴったりした手袋だ。衣擦れの音さえしない。
「大変でしたね。ほんとに、出てきていいんですか?」
「大丈夫よ」
 美佐江が笑う。その笑顔に崩れたところは、なかった。
 不意に美佐江が振り返った。同時に声が出る。
「いらっしゃいませ」
 店に、一人の女性が入ってきていた。ゆったりしたTシャツを着て、下はジーンズをはいている。
「いらっしゃいませ」
 睦美も笑顔を作った。
 女性が近づいてくる。眉根が寄って、睨んでいるような表情だ。
「大きいサイズのブラ、あります?」
「ありますよ。うちはGカップまで置いてあります。取り寄せれば、もっと大きいのも。どんなのをお探しですか?」
 睦美より先に美佐江が答えた。
「あの……わたし、見てのとおり胸が大きいんで、合うサイズがないんです。大きいサイズを買っても、どっか当たって痛かったり、肩紐が食い込んじゃったり」
 化粧気のない顔が沈んでいた。視線が胸もとに落ちている。その胸は、Tシャツ越しにも高い盛り上がりがうかがえた。
「そういう悩み、よくありますね。うちのお客さまにも多いですよ」
 美佐江はうなずきながら話す。
「そういうのって、サイズが合っていなかったり、胸を支えられるデザインを選んでいなかったりするのが原因なんです。よろしければ、サイズ出し、してみましょうか?」
「ええ、できれば」
「えーと、本当は、ヌードで測るのが理想なんですけど、どうしましょう? 脱ぐのが恥ずかしければ、服の上から測りますけど?」
「あ、ちゃんと測ってくれるんですね」
 女性の眉根のしわが解けた。
「今まで、そういうお店って、当たったことなくて。わたしの胸、見ただけで、『うちにはサイズありません』っていうお店がけっこうあって」
「体は、みんな、一人一人違うんですよ。ちゃんと測らないと、正しいサイズは出せません。測らせていただけば、ほとんどの方には、合うサイズお出しできますよ」
「Gカップとかでも?」
 女性の眉間に、再びしわが寄った。
「ええ。きちんと測ると、Gカップと思っていた方でも、F以下のことが多いんですよ。カップの大きさじゃなくて、アンダーバストのサイズとか、他の部分が合っていないことが多いんです」
「じゃあ、この際だから、きちんと測ってもらったほうが」
 美佐江は大きくうなずいた。
「はい。試着室、あちらです。どうぞ」
 睦美のほうを向いて、美佐江はささやいた。
「樋口さん、Fカップの、いくつか持ってきて。アンダーサイズ70から90で、デザインはフルカップのね。それと、悪いけど、わたしの荷物、奥に入れといてくれる?」
 睦美は美佐江から鞄を受け取った。


 しばらくして、女性が試着室から出てきた。店にいた睦美が声をかける。
「どうですか?」
「すごーい。痛くない。だけじゃなくて、気持ちいいです」
 眉間のしわは跡形もない。
「皆さんそう言いますよ。体に合っているブラは、そういうものなんです」
 女性の横で、美佐江が微笑んでいた。ほんのり紅い唇が三日月を描く。
「動いてみて、どうですか? どこか痛いとか、違和感があるところは?」
 美佐江が少し女性から離れた。睦美からは、美佐江の背が見える位置に立つ。
 女性は、ぐいっぐいっと上体を左右にひねった。ついで、ラケットを持ってボールを打つような仕草をした。
「胸が揺れないの、感動! うち、わりとスポーツ一家で、家族でバドミントンしたりするんです。けど、胸が邪魔で……いつも父親に、『ホルスタイン』ってからかわれるの、いやなんです。もう、エロ父で」
「まあ、仲のいい御家族ね」
 美佐江が手を後ろに回した。睦美の目に、白い手袋が飛び込んだ。
 睦美は、見た。
 美佐江の手が、固く、握り締められているのを。
 手袋がしわくちゃになっている。拳が震えている。ぎりぎりと、指が手袋にめりこんでいる。
「スポーツの時なんか、ブラが合ってるかどうかって大事ですよね。ブラもスポーツウェアの一種だと思って、いいのを揃えたほうがいいですよ」
 美佐江の声は明るかった。
「スポーツはね、ちゃんとした道具や、ウェアを使わないと、体に負担がかかるでしょう?  下着もおんなじ」
 指は、手袋ごと掌を突き破りそうだ。
 美佐江の手が荒れた理由を、睦美は知った。
 彼女はこうしてこらえてきたのだ、すべての悲しみを。
 美佐江は、プロだ。
 睦美は心の中で手を合わせた。目だけで、美佐江に礼をしていた。


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【1061】 弟切、自己課題の根っこ 2004/8/20(金)23:09 弟切 千隼 (65)
┣【1062】 弟切、自己課題、テーマ「別れ」、題名「プラスチック」(5000字) 2004/8/20(金)23:28 弟切 千隼 (5717)
┣【1097】 弟切、自己課題、テーマ「別れ」、題名「天の星、地の星」(11520字) 2004/9/17(金)22:54 弟切 千隼 (12256)
┣【1120】 :弟切、自己課題、テーマ「本心を明かさない人」、題名「笑顔の下で」(10480文字) 2004/10/18(月)00:45 弟切 千隼 (12238)
┣【1142】 弟切、自己課題、テーマ「ボーイミーツガール」、題名「肺魚なボクら」、プロット 2004/11/24(水)00:32 弟切 千隼 (1199)
┣【1143】 弟切、自己課題、テーマ「ボーイミーツガール」、題名「肺魚なボクら」、プロットその2 2004/11/24(水)00:35 弟切 千隼 (931)
┣【1153】 弟切、自己課題、テーマ「ボーイミーツガール」、題名「肺魚なボクら」、人物設定 2004/11/28(日)01:31 弟切 千隼 (2741)
┣【1154】 弟切、自己課題、テーマ「ボーイミーツガール」、題名「肺魚なボクら」、人物設定その2 2004/11/29(月)01:52 弟切 千隼 (3595)

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