よみかく分室課題部屋

959 １０００字課題、５／２２分、Ｎｏ．１３０「依頼はすでに解決していた」（８４００文字）

2004/5/22(土)12:13 - 名無し君２号 - 8618 hit(s)

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Ｎｏ．１３０
題名：依頼はすでに解決していた（８４００文字）

「あの」
　頭上から降りかかった声に、高鳥一馬の寝息は止まった。うっすらと目を開けてみ
るも、薄暗くてわからない。たしか、昨日は浮気調査して、事務所に帰って……。あ
まりにもまぶたが重いのでそのまま閉じた。頭の奥底にある『眠気』から伸ばされた
触手に絡みつかれ、さしたる抵抗もせず――むしろ自分から身を委ねて、一馬は意識
の底へと沈んでいった。
「あの、すみません」
　しつこいなあ、由香ちゃん……。うすらぼんやりとした意識のなかで、一馬は受付
かつ事務で庶務なのに会計だったりもする、有能な事務所員の名を思いだした。年齢
不詳で、なのに童顔だから、「ちゃん」づけで呼ばれる女性を。その困ったような表
情を。
　そこにいると掃除の邪魔だから、どいてくださいってんだろう？
「頼むよ……昨日遅かったんだ……あと少しだけ、三十分だけ……」
　やや不明瞭ながら、一馬はいつもの言い訳をした。さらに逃げるように体を横向き
にする。ソファーが軋んだ。なにか、おそらくはベルトが引っかかって、ぱつっと音
を立てた。
　しばしの沈黙。静けさは、時計の秒針が埋めてゆく。
　ごめんね、ごめんね、由香ちゃん……体をずらしたせいで、まだ体温に温められて
いない部分に体が触れてしまっていた。薄っぺらいスーツごしに、合成皮膜の冷たさ
を味わう。すぐにあったかくなるさ……。
「すみません。ここは高鳥探偵事務所なんですよね？」
　すう、と眠気が、最初はゆっくり、だんだんと加速しながら覚めていった。最後は
ゼロヨンレースもかくや、な速さになる。勢いそのままに身を起こした。顔の上に載
せていた黒い帽子が、乾いた音を立てて床に落ちる。
　スーツ姿の女性が、目を見開き口は半開き、覗いた白い歯を隠そうと、手を伸ばし
かけたところで固まっていた。一馬は、しげしげと自分の失敗を確認する。
　違う。由香ちゃんじゃない。
　どこか声が似ているせいで勘違いしてしまった。もっとも顔つきはぜんぜん似てい
ない。由香ちゃんが年齢不詳なのは、あどけない瞳と濃い化粧を濃くなく見せる技術
にあると、そう一馬は睨んでいた。ところが目の前の彼女は、目つきはやや鋭いし、
化粧も薄い。髪だってこざっぱりとしたウェービーヘアーだし、眼鏡もかけていない。
ピンク色の唇が閉じ、きれいな歯並びを隠して、また開いた。
「あの」
　そうだ、この声だ。すこしハスキーな低い声。これは似ている。
「こちらは……」
　続けて問いかけようとする彼女を、一馬は制する。
「ええ、こちらばっ」
　が、寝起きなもので喉に痰が絡んだ。顔を横に向け、ひとしきり咳きこむ。そっと
背中に手を伸ばす彼女を、一馬も手を広げて制した。
「失礼。こちらはたしかに高鳥探偵事務所です。ええと、お客さんですね？　ささ、
どうぞどうぞ」
　言いながら立ちあがり、一馬はいままで寝ていたソファーを示す。にぶく黒光りし
ているソファーは、ちょうど人のかたちにへこんでいた。なかなか復元しない鋳型を、
ダークスーツ姿の彼女はじっと見つめている。やっちまったかな、と一馬は頬を引き
つらせた。
　だまって彼女は会釈し、一馬の温もり残るソファーに腰を降ろした。気を使ったの
か、一馬の上半身部分ではなく、下半身部分のあった左側だった。

　茶わんを応接テーブルの上に置いた。かつん、と受け皿がテーブルに当たって音を
立て、緑茶の湯面にはさざ波が立った。
「すみませんね。いま所員が出払ってまして。すぐに来ると思うんですが」
　出払ってもなにも、お茶を入れながら一馬が確認したときは、まだ朝の六時三〇分
である。探偵事務所のみならず、普通の会社だってだれも出社なんかしていないだろ
う。
「いえ、おかまいなく」
　一馬は自分の分のお茶も置き、そのままソファーに座る。彼女の斜め真向かいにな
るように位置取って、かわりにおぼんを真向かいに置いた。しょぼしょぼした目を伏
せる。彼女がずっと見つめ続けているからだ。寝不足に、彼女の眼光はちょっとキツ
イ。
「それで……どのようなご用件でしょうか」
　時間はともかくとして、依頼人が直接事務所にやってくるのは、けっこう珍しいこ
とだった。考えればすぐにわかるが、探偵事務所にもちこまれる相談なんていうのは、
たいがいは人目につかせたくないものだからだ。
　夫婦間の浮気調査、婚約者の素行調査、新入社員の経歴調査、行方不明になった肉
親の捜索、ストーカー対策……。
　いくつか例をあげるだけでも、隣近所には知られたくないことばかり。
　だから普通は喫茶店なり、ホテルのロビーなりで待ちあわせするものだ。なのにこ
んな時間に飛びこみで、しかも女性ひとりでやってくるということは、よっぽどせっ
ぱ詰まっている状況だということだろう。
　しかし。だがしかし。されどしかし。
　この稼業に入ってまだ日が浅い一馬でも、彼女がなにか追いつめられているように
は見えないのだ。
　だって、こんな落ちついてお茶なんか啜ってられるか？
　彼女はかすかに音を立てつつ、安っぽい瀬戸物茶わんを両手に抱え、飲んでいた。
ふう、と息を吐く。
「いいお茶ですね」
「え？　ああ、安物ですよ。こないだ葬式でもらったやつで」
　控えめに彼女は笑った。静かに首を横に振る。
「入れ方が上手なんです。お茶の香りを飛ばさぬようお湯はぬるめで、茶器はきちん
と温められている」
　どう反応したものかと、一馬は頬を掻く。お茶を入れるのが上手いとばれてしまっ
たのが、なんだか気恥ずかしかったせいもある。あいまいに視線を逸らした。
「すみません。私の用件でしたね」
　彼女は茶わんを受け皿に戻し、軽く頭を下げた。顔をあげ、また鋭い目で一馬を見
つめてくる。反射的に一馬は肩をすくめてしまった。
「私、所長の高鳥一馬さんにお会いしに来たのですが」
「あ、ああ？」
　一馬は自分を指さす。
「それなら私です」
　あわててふところに手を差しいれ、皮の名刺入れを取りだした。指を突っこみ、あ
あ、補充しておかなきゃなと思いながら、一枚抜きとる。片手で相手に渡した。
「高鳥探偵事務所所長、高鳥一馬と申します」
　彼女は両手でそっと受け取った。自然な動きだったので、一馬は彼女は名刺を受け
取るのが初めてではないと確信した。つまり働いている、もしくは働いたことがあり、
職種は名刺交換をすることがある仕事だということだ。指先には指輪がないのも確か
める。
　しげしげと、興味深そうに彼女は名刺を眺めていた。ちらりと一馬の顔を見る。
　べつに珍しい反応でもなかった。二十代前半で所長なんていったら、一馬自身だっ
て怪しさを感じる。なので、いつもの説明がぺらぺらと口をついて出た。
「父の跡を継いだんです。私は若輩者ですが、見てのとおり事務所は経験を積んでい
ます」
　腕を広げ、事務所内を示す。まったくものは言いようだ。積み重ねられた年月は、
毎朝の由香ちゃんの掃除ですらぬぐい去ることはできない。壁の時計からして、三日
に一回は時間を合わせないと使いものにならないしろものなのだ。とはいえ、整理整
頓が行き届いているおかげか、かろうじてうさんくささより、風格らしきものが勝っ
ているといえないこともない。それにラベル効果といって、『経験』といえばそう見
えてしまうものなのだ。ラベルを貼れば、そばつゆだって麦茶に見えるだろう？　―
―飲むまでは。
　調子に乗って続ける。
「所員だって父の代からの、それこそ二十年もの、三十年ものの大ベテランが揃って
ます。ですから、能力のほうはなんら心配ありませんよ」
　ちらりと、一馬は年齢不詳の由香ちゃんを思いうかべた。彼女は何年ものなんだろ
う？
「べつに疑っているわけでは」
　依頼人は、一瞬だけすまなそうに眉をうなだらせて、すぐに元の表情に戻った。感
情を抑制しなければならない業務……秘書か？
　もしもどこか一流企業の秘書だとしたら、大きな仕事になるかもしれない。不況に
なれば人の心もすさむもので、おかげで陰の仕事を扱う探偵事務所は、そこそこやっ
ていけている。しかし所長としては、所員にボーナスのひとつも出してあげたい。
　だから心を落ち着けた。あせってもの欲しそうな顔をしてはならない。
「で、どのようなご依頼でしょう。もう少し待っていただけるのでしたら、ベテラン
所員もやってきますし、男で話しにくいのであれば、女子所員もおりますし」
「いえ、その」
　鋭い視線を、初めて彼女から逸らした。慣れてきたとはいえ、なくなるとやはり一
馬はほっと息をついてしまう。なんだか秘書にしてはドスが効きすぎているような。
　彼女が顔をあげる。前にも増して、目の力が増しているように感じた。一馬は口の
端をぴくぴくと振るわしてしまう。彼女は息を静かに吸い、覚悟を決めたように、ぴ
たりと止めた。
「私を……どう思いますか」
　一馬が息をはいてしまった。両方の鼻の穴から、いきおいよく吹きだしてしまう。
「あ、あの？」
　顔をほんのりと赤く染め、彼女が身を乗りだしてきた。この状況でもまだ、感情は
わずかしか表情に出さないらしい。たいしたものだ。
「私を見て、高鳥さんはどう思うのか、とお訊きしているのです」
　なぜか一馬は、昔たった一度だけカツアゲにあったことを思いだしていた。中学生
のとき、三人の高校生に囲まれた。顔は怖くてどうされるか恐ろしくて、かといって
少ないおこづかいを取られるのもくやしいから、泣きながら逃げだした記憶がある。
　まったく状況がおなじ気がする。
　ともかく、逃げたい。ギラギラと輝く視線から、逃れたい。
「あ、あのぉー」
「はい！」
　なんとかごまかそうと開いた口は、彼女の勢いの前に閉じてしまった。もごもごと
させる。嘘はつけない、と思った。ついてもばれるし、なによりとても恐ろしいこと
が待っているような気がする。
「魅力的だと……思いますよ」
　少ないおこづかいを取られたような、そんな小さな屈辱があった。
「そう、ですか？」
　だのに彼女はなぜか半信半疑だ。かすかにかたむいた眉が、なによりも雄弁にそれ
を物語っている。
　こう言っているのだ。
『お前、ちょっとその場で跳ねてみろよ』
　ちゃりん、ちゃりんと、さぞかし澄みきった音が鳴ることだろう。
「ええ！　ええ！　たしかに目の覚めるような美人というわけではありませんが、意
外とスタイルいいし、もうすこし派手目だったらけっこうおれのストライクかなあと
か思いますよ！　そもそもですね、魅力というのは相対的なものであって、絶対的で
はないんです。わかりやすくいうと、人によって好みは違う！」
　思いきり飛び跳ねて思いきり小銭を鳴らした。おかげで余計なことを言った気もす
るが、これがいまの一馬の精一杯だった。
　ゆっくりと彼女は息を吸いこむ。まるで戦利品を勘定している不良に見えた。
　そのまま立ちあがる。びくん、と一馬は体を震わした。
「いろいろと失礼しました」
　深々と頭をさげた。
「あ……いえ」
「それでは、これで」
　止める間もなく、すたすたと彼女が歩き去ってゆく。一馬は止めようとしたいのか
どうしたいのかもわからずに手を伸ばすが、もちろん届きはしない。立ちあがり、慌
てて見送りに出る。
　ドアから出る瞬間、一馬を見つめて、彼女がまたおじぎをした。一馬も合わせて頭
をさげる。
「こちらこそ、おかまいもしませんで……」
　そんな言葉が自然に口をついて出た。
　ばたん、という古い扉独特の音を鳴らして、ドアは閉じた。
　しばらく一馬は、ぼんやりとドアのガラスを見つめていた。高鳥探偵事務所の文字
が、裏写しに読める。三度、視線でなぞった。
「なんだったんだ……？」
　呟きながらソファーに戻る。腰かけ、さきほどまで依頼人が座っていた跡を見つめ
た。お尻のかたちにまるくへこんでいる。そんな跡を眺めながら、横倒しに体を傾け
た。ばふん、とソファーに体が沈む。寝心地は客用ソファーのほうが、いい感じにへ
たっているぶん気持ちいいのだが、彼女の尻の温もりを感じながら眠る趣味は、さす
がにない。ようやく解放された安堵感に包まれながら、目を閉じる。
　緊張が去ったとたん、忘れていた眠気がすごい勢いでやってきた。取り返すように
沈めようとしてくる。もう一度だけ、『なんだったんだ……？』と呟き、意識をまっ
白にした。
　すぐさま叩き起こされる。
　相手は電話のベルだった。イライラしながらも、やりすごそうと一馬は努力する。
だがしかし、相手も諦めが悪い。鳴り響くベルの音。持久戦は、イライラが頂点に達
した一馬の負けだった。
「うるせーうるせーうるせーなー！」
　怒鳴りながら立ちあがり、怒鳴りながら机に向かった。ぴかぴか光るランプにさら
にイラつきを倍加させて、受話器をむしりとる。
「はい！　こちら高鳥探偵事務所！　いま何時だと思ってやがんだ！」
　『もう七時だよ！』という叫びが受話器から洩れた。一馬は顔をしかめながら耳を
外す。まるで渋柿でも食べたような苦い顔つきで、受話器を戻した。
「なんだよ、おふくろかよ」
　『なんだよじゃないだろ！』という声がまた洩れる。
「あのね、おれっていま忙しいの」
　嘘ではない。一馬はいま眠るのに忙しいのだから。
「あん？　さぼってないよ。昨日だって浮気調査に朝までマンションに張りついてい
て……まったく世も末だね、学校の校長が……っと、これ以上は守秘義務だからダメ」
　疲れきった顔で、一馬は机の上に腰を乗せる。ぎしぎしと軋んだ。
「ああ……頑張ってるよ。でもさ、みんな鬼だよな。おれっていちおうは先代の忘れ
形見なわけだろ。なのにちっとも手加減してくれないよ。キッツイ仕事ばっかり押し
つけてさ……。普通、所長といったら、所員を顎で使うもんじゃないの？」
　とたんにまた怒鳴り声が受話器から洩れた。一馬はなげやりな態度で、ああとかう
んとか相づちを打っている。
「んで？　いったいなんのようなのさ。説教だったらマジで切るよ。さっきもなんの
用だかわけのわからない客が……」
　くわぁぁぁ、と大きく一馬があくびをした。
　その口が開いたままで、止まる。
　眠そうな顔で、なんどか首を傾げた。
「……なにいってんだ？」
　ぱっと目を見開く。立ちあがり、三歩歩いて、事務所の出入口のほうを向いた。受
話器のコードが伸びてゆく。くるくるとした曲線がよじれたまま張りつめて、それで
も足りずに本体が持ちあがった。受話器に向かって叫ぶ。
「いまのが？　ええ？　なにを……おい、ちょっと待て！　切るな、おい！」
　『い』のかたちにすぼまった口のままで、一馬は凍りついた。受話器からは、規則
的なパルス音しか洩れ聞こえない。のろのろと耳から受話器を外し、ぎりぎりと歯を
食いしばりながら睨みつけた。張りつめた感情を解きはなつように、震える息をはき
だす。最後の呼吸と一緒に、手から受話器が落ちた。カールコードつきのふりこは机
の一番下の引き出しにぶち当たって、そのままへばりつきながらかすかに揺れた。
「いまのが……婚約者？」
　かすれるような一馬の声だった。
　これから三十分後、一番最初にやってきた所員の由香は、呆然とした顔でソファー
に腰かける一馬を、怪訝な表情で見つめたという。挨拶をしたら、まるでカツアゲさ
れた子供のような顔で、一馬が悲鳴をあげたという。

時間：７時間

読んで欲しいもの（）は読んでの読者感想、→は作者判断：
・古びた事務所（ほほう）→そこそこ
・探偵っぽさ（ほほう）→そこそこ
・依頼人からの圧力（どきどき）→そこそこ
・微笑ましい主人公（わはは）→成功

〔ツリー構成〕

【550】１０００字課題根っこ 2003/8/22(金)05:10 名無し君２号 (181) ≪